いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

名前のつかない役割

 
 母の勤める飲食店が休業になってもう1ヶ月半がたつ。突然ぽっかりと現れた空き時間の初期に、母が着手したのは自分の衣類の断捨離だった。

 同じ法人が運営する複数店舗の飲食店へ勤務している母は、平時なら毎日2店舗の配食と食材発注をこなしている。しかもその2店舗ではそれぞれ異なる服装が指定されており、1つ目の店は白無地のシャツ、2つ目の店は黒無地シャツと決まっている。エプロンや帽子は職場で支給されるが、その下に着るTシャツは自腹で用意することになっている。毎日厨房で汗と油にまみれる仕事だから当然洗い替えがたくさん要る。母の衣装ケースを圧迫していたのはまちがいなくこの仕事着である。

 とはいえ今回捨てたのはこれら仕事用の服ではない。ほとんど私服である。ストレス発散で買ったがもう着ない服、着たおした服、お出かけ用にも部屋着にもいまいち不便で使えない服ー。そうやっていろいろ処分しながら母は気づいたという。


 普段着がない。「お母さんは普段着というのをあまり持っていない」。


 無理もない。平日の勤務形態は、昼食時間帯に3時間ほど1つ目の店で働いていったん家に帰り、夕方17時から2つ目の店へ出勤して22時半まで夕食時ラッシュを切り盛りするというものだ。家事はこの合間に行い、家の中にいる以上かんたんな部屋着数枚で過ごしていたのだ。自家用食材は週1回の宅配と、父が気晴らしを兼ねてしょっちゅう行くスーパーへの買い物で十分間に合っている。祖母の介護へ通っていた頃も当初ふさわしい服を決めるのに悩んだものの、手持ちの外出着から動きやすい服装を選んでそれを通していた。介護が終わってから土日に友人と街へくり出すお出かけ着は、それまで服を買うのが大好きでたくさん買った外出着からお気に入りでキメていた。問題は、今回のSTAY HOMEで文字どおり「家にいる」ためだけの服装がないことだった。

「こういうの、どういう服装って言うの?普段着?パジャマとは違うしー」
 母にそう聞かれて私もそういえば普段着の定義って何だろうと考えてしまった。いくら家の中にいるだけと言っても庭掃除やゴミ捨てで外へ出ても恥ずかしくない服、宅配業者など突然の訪問にも堪えられる服、ちょっとした日用品を買うために近所のコンビニやスーパーへ行ってもまあまあおかしくない服ー。普段着とは、パジャマ同然のルームウェアからその辺へ買い出しに出ても違和感のない服まで大いに幅がある。

 そう考えると、普段着にはいくつもの役割が詰まっている。その大半が家事にまつわる事柄であり、加えてその中でも名前のつかない家事の比重が圧倒的に大きいと思われる。料理、洗い物、洗濯、掃除など行為に名前のつく家事ならエプロンなど決まった衣類を身に着けることもあるだろう。しかし家事には資源の補充やセッティング、後片づけ、家族や血縁者・近隣住民たちとの関係調整が含まれていて、その役割に細かい名づけはなされない。

 仕事なら、たとえ制服が指定されていなくても仕事用の服を決めている人が大多数だろう。仕事をする時の服は仕事着と名づけ得る。庭仕事、畑仕事、日曜大工、その他DIYをする時の服は作業着と呼べる。人目のある場所や街中へ行くなら外出着・訪問着。でも家に居る人は?

 かつて女性の人生において規範であった「主婦」という言葉のなかには、名前のつかない役割が無数に託しこまれている。そして市場経済の目に見える表層部分を支えているのはこれら名前なき無数の役割であることが、普段着なるあいまいな言葉を通して見えてくるように思う。
 

新型コロナがただす他者との距離

 「新しい生活様式」が発表されてしばらく経つ。あれを「生徒手帳みたい」という巧みなたとえがツイッターに投稿されていて、じつにその通りだと思う。

 

 あそこに列挙された項目を全部実践するのは難しいだろうが、ソーシャル・ディスタンシング(Social Distancing)あるいはフィジカル・ディスタンシング(Physical Distancing)—感染防止のために人との距離を開けることーは防疫上やったほうがよい。というか、そもそもこれまで私たちは他者と適度な距離など築いてきただろうか。

 

  日本人はキスやハグなどスキンシップの習慣がない一方で、他人と適切な距離をもうけることは精神的にも物理的にも全くできていない。精神的・心理的距離の未熟さの例は次のようなものがある。自己と他者の区別がつかない、自分を組織を同一視する、近しい他者(同僚、後輩、目下の者、年下のきょうだい、子どもなど)を自分の心身の延長のようにとらえ所有物のように扱う、自分とまったく異なる心身と歴史をもつ他人に対して「察しろ」「常識だろ」と自分が経験する感覚世界が地続きである前提で圧力をかける。

 いっぽう物理的距離の面では、身体接触をともなう行為の大半がセクハラ、パワハラ、虐待と紙一重である。少し間違えばかんたんに不適切な接触にシフトしやすい。とくに大人が子どもに対して、男性が女性に対してする身体接触は驚くべきことに「何をしてもよい」かのようなふるまいが多い。子どもに対しては「判断力が未熟だから」、女性に対しては「愛しているのだから」を言い訳に身体的暴力が平然となされている。

 

 せめてプライベートゾーンを守ること、良いタッチと悪いタッチの区別くらいは大人なら学んでおく必要がある。

 

いいタッチわるいタッチ (だいじょうぶの絵本)

いいタッチわるいタッチ (だいじょうぶの絵本)

  • 作者:安藤 由紀
  • 発売日: 2016/02/20
  • メディア: 大型本
 

 

 ほかに日本社会で侵されている他者との相互距離はなんだろう。

 プライバシー。人が安全に暮らすためには最低限必要なものなのに、子どもには保障されないことが多い。とくに地方では。

 パーソナルスペース。これは日本の劣悪な住環境と満員電車であっさり踏みにじられてきた。

 

 どうか、これを機会に決して他者を侵すことのない適切な距離が私生活においても構築されていくことを切にねがう。 

 

 

住まいは命の器である

 
 コロナ危機に対応する支援のひとつに、住居確保給付金がある。以下「厚生労働省 生活を支える支援のご案内」より。


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 もともとはリーマンショック時の失業者支援から始まったものだが、今回それが改正されて4月30日からはハローワークへの求職申込が不要となった。これにより、フリーランスの人も利用しやすくなった。

drive.google.com


 新型コロナウイルスの影響はあらゆる業職種・地域・立場の人におよんでいる。感染対策として世界中の国々が、程度の差はあれ経済活動を停止あるいは縮小してきたのだから。今はいつも通り仕事と収入があっても、数か月後には勤務先が連鎖倒産のあおりを受けたり、取引先の資金繰りが間に合わなかったり、物流の変化によって事業が停滞したり、いつ誰が困窮しても不思議ではない。

 生活困窮者への支援というと食料配布を思い浮かべる人もいるだろう。もちろん各地でフードバンクが動き、母子世帯に食料を届ける子ども食堂もある。しかし、生活に不可欠な衣食住の中で「住」だけは日本の政策の中でかなり遅れており、また個人がボランティアで支援しようにも限界がある分野だった。それが今回のコロナ災害でより明確になった。

 STAY HOME!と呼びかけられてもHOMEのない人たち。
 HOMEで自らの心身が安全でない人たち。

 ホームレス、家庭でDVや虐待を受ける女性たち、子どもたち。

 そこへもってきて給付金が世帯単位で世帯主に支給される?

 人間をとことん個人として尊重しない、家父長制・家族主義の弊害がここにきわまれる。


 家は、ヒトを詰めておく収容所ではない。収容所だと考えているから、無料定額宿泊所や災害避難所が劣悪な環境のままなのだ。

 家は、個々の命を保護するシェルターとして、身体生活機能の延長として、物理的社会的に個々人の居場所としての機能も持つ。

 
 プライバシーと個人の尊厳を守るなら、宿泊支援も個室がよいはずだ。まして感染症対策の一環ならだんぜん個室がのぞましい。
つくろい東京ファンドでは、個室シェルターの増設に動いている。

新型コロナの影響で住まいを失った方を支えるため、個室シェルターを増設します!|つくろい東京ファンド



 所持金が10万円を切ったら生活保護申請も検討してほしい。最低生活費を下回ったら誰でも受ける権利があるだから。

seikatuhogotaisaku.blog.fc2.com

ユニクロチラシに嫉妬した話

 コロナ拡大を防ぐために自粛していた経済活動も、地域によっては徐々に緩和の兆しがある。ただし、在宅勤務を続けられる会社は続け、すべての店は引き続き三密を避け、何をするにせよ人を大勢集めることは当分させない方針だ。

 この在宅勤務、大都市圏では2月からなされていたようで、先月連絡をとった東京住まいの友人は通勤がなくなった分快適だと書いてきた。私はその間ずっといつもどおり通勤を続けていた。在宅勤務うらやましい、あれこそ今必要なことなのに、内勤なら上の決断でできるかもしれないのにどうして⁉と煩悶しながらだ。そりゃ仕事があるだけマシと言われたらまったくその通りなのだがそういう問題ではなく...。

 自宅では新聞を取っているので広告も一緒に入ってくる。スーパーの食品も家電もとにかく在宅期間を有意義に過ごさせるための売り込みをかけている。その中でユニクロはたしか「おうち時間を快適に」とかうたってルームウェアを売り出していた。たんなる部屋着だけでなくおそらくは在宅勤務用の、web会議の画面に映っても恥ずかしくない普段着だと思う。そういえばSNSの情報では、テレワークで自分を映すときは上半身だけまともに映ればよいため、本来セットのはずのボトムスを差し置いてビジネスシャツやジャケット等トップスがやたら売れているらしい。一時期は安い服の代名詞みたいに扱われていた大手アパレルも、コロナ以後新たに出現した環境条件への適応戦略の一つをやっていることになる。こういうのも機能的なデザインを考え、販売戦略を練り、顧客行動を想定し、広告を打つまでに「時代の最先端」を把握した精鋭人員が関わっているはずー。半月前までは勝手に想像して、今の自分が時勢に取り残された気がしてならなかった。

 まあユニクロはもとからルームウェアやインナーを売っていたし、欲しい服があれば買えばよいだけなのだが、追いつめられると何を見てもネガティブな感情に結びついてしまう。今でこそ新規感染者数が抑制された(発表した数字上では。検査数は県によっては検査拒否といってよいほど少ない)ものの、先月の今頃は外を歩くのも戦々恐々だったのだ。

 だが考えてみれば、テレワークできる労働者はそういう職種で正社員で、やっぱりごく限られた人たちなんだろう。在宅勤務じたいネット環境や機材、清掃、衣食住ふくめインフラ整備に携わる業種の人がいてこそ実現する。その人たちはどうしても現場へ行かないと作業ができない。

 エッセンシャル・ワーク(Essential work)か、ブルシット・ジョブ(Bullshit job)か。むろん後者は資本主義の虚飾が剥がれると同時に凋落するのが望ましい。が、その線引きをする目線もまたどこか高踏的で、ブルシットな仕事を担う大半がアクセスを妨げられているスキルアップや学歴取得の機会を本当に整備する気があるのかと思う。産業・就業構造の変化が必須なら、現行資本主義に対抗してグリーン・ニューディールを作りたいなら、まずリモートワークできない業職種の人たちに手厚い賃金と社会保障が必須である。

 こんな時だから、社会はしょせん呆れるほど多様な属性や背景をもつ人々の寄せ集めであることを思い出さなくてはいけない。

 
 

自己完結の館

 新型コロナウイルスを封じ込めるためにロックダウンしていた都市が、徐々に封鎖を解き始めた。日本とちがい、罰則や罰金を伴う厳しい外出規制が緩和され外へ出られた人たちの喜びはひとしおだろう。

 しかしたとえ封じ込めに成功した国でも、コロナ感染拡大前と全く同じ生活を送れるわけではない。げんにあれほど検査・隔離を徹底した末コロナ禍を克服したようにみえる韓国でも、これまでとは異なる日常生活の注意点を細かくガイドライン化している。一方ろくに検査をせず、補償を伴わない自粛要請をダラダラ続けた日本は結局5月31日まで緊急事態宣言を延長することが決まった。

 これと同時に専門家会議は5月4日に「新しい生活様式」を提言した。
 
www3.nhk.or.jp

 「誰とどこで会ったかをメモにする」など、感染経路の追跡を口実に個人情報をかすめとって私生活統制を仕掛けているようにも見えるのだが。

 専門家会議は信用ならないが、ここに列挙された注意を守らないとたしかに感染リスクがある。ただ現実問題として、国がきちんと強制的に制限をかけないと満員電車も通勤も店が混む時間帯も変わらない。個人や家庭、企業ごとの責任では対応できないことだ。緊急事態宣言は当初5月6日までだったことから7日から営業を予定していた飲食店も多いはずだが、これでは経営維持のために再開する店、これを機に事業をたたむ店が増えるだろう。


 いったいこれからはどんなライフスタイルが有利なのか。自分なりに想像してみる。

 なるべく人と接触しないことがのぞましいのだから、仕事は在宅勤務できる職種・業種が有利だろう。するとデスクトップパソコンとリモート可能なノートパソコン、タブレット、プリンターの所有が必要になる。

 快適なテレワークにはそれなりの部屋が要る。ワークスペースとして機能する机と腰に負担をかけない高性能の椅子も。戸建てなら仕事部屋とそれ以外の部屋が分かれているほうが都合がよい。

 移動は、公共交通機関(今地元ではかなり空いているが)の感染リスクを恐れるなら自転車か自家用車になる。でも自家用車は購入・維持費に莫大な資金がかかるため、マイカー生活は経済的余裕がなければ始められない。
 
 対面通話はしばらく危険なので、教育・学習はオンライン授業ができる環境の整備が急務だろう。ただ幼い児童にはどうしても「つきっきりで手取り足取り」教える局面が避けられないと思う。加えて年齢が低いほど、手厚いサポート、見守り、ペースメーカー役が何らかのかたちで必要だ。オンライン環境を完璧に整備してもそれは授業ができるというだけで、学習の継続、予復習、反復練習、それをさせるための声がけ、叱咤というタスクが各家庭に任せられる。これまで学校に学習動機や託児機能を委ねてきた家庭では日々の労働と家事に加えて子どもの教育が凄い負担になっているはずだ。

 また外部化が少しずつ進んできた介護もデイサービスや介護事業所がストップすれば家庭に投げ返される可能性がある。在宅介護できるだけの設備と広さと人員と経済力ー、考えたら気が遠くなる。

 食料・生活必需品は宅配サービスで購入するほか、各国の物流や経済の停滞からの食料危機に備えて家庭菜園があれば安心だ。自家用食料を少しでも自分で栽培できたら市場価格・配送に一喜一憂しなくてすむ。

 
 …とここまで書いてみて思う。こんなこと全部できるのはよほど頭脳明晰で身体能力と経済力があり、肥沃な地方都市のやや郊外にマイホームとマイカーを所有している人でなければ無理だろう。上に列挙した条件を含めて浮かび上がるのは、ある程度の自己完結を前提とした生活様式だ。何でも自前で作り、まかない、対処できる人。そういう空間を持てる人。不完全さ、未熟さの開示を他者とつながる契機とするコミュニティ形成の道すじは選択肢から外れてしまう。

 他者とのつながり方は、SNSの普及でネットを介したつながりの方途がもうすでにあるのだけれど、まったく偶然の、新たな出会いはどうなるのだろう。

 これからは見知らぬ人とただ黙ってそばにいる、ということが簡単にできなくなる。

 ならば、今まで過剰につながりだの参加だのを規範としてきた人間関係を見直し、過剰消費にねざした経済活動から距離をおき、活動そのものをペースダウンして密度を下げるのが一つの活路かもしれない。集団と距離をおき、他者と距離を保ったうえであらためて見出す他者との接点は、かえって虚礼を廃して原点に還ったつき合い方を可能にするかもしれない。

 各人がつくりだす自己完結の館にどんな光が射すのか、これから進んでみなければわからない。


 

憩いの朝はいつか

 

 ダイニングの窓には隣家の若葉が揺れる。イタドリかな?と思ったがよく見ると丈の低いクルミの木にも似ており、よくわからない。休日の朝、晩春の緑を眺めながら朝食をとっていると、ふと昔よく行ったホテルバイキングの風景を思い出した。

 

 地元では23日から軽症コロナ患者の宿泊療養施設への移送が始まった。県内の感染症対応病床数はいま半数近く埋まり、呼吸器等の対応がきちんとできる病床はほぼ満床だという。今後も感染者が増え続けるとキャパの不足が懸念されるため、感染症指定病院の病床を重症者にあてるべく、医師が問題ないと判断した軽症感染者が順次、県が借り上げたリゾートホテルへ送られる。

 

 バイキングでおなじみだったホテルは、じつはそこである。ニュースで外観を見ると驚くほど古びてしまったが、周囲の面影はそのままだ。

 

 2000年代の前後、日曜朝によく家族で朝食だけ食べにそこへ行った。駐車場には初夏の渓谷の音が響き、蔦の緑も印象深かった。ほかに大浴場だけの利用も可能で、土曜の夕方などにやはり家族で行った。それが再開発で周辺地域に観光ホテルが競合し、貧困化の時代の波に洗われて地元住民は可処分所得の余裕を失い、私たち家族もそういう楽しみから遠ざかった。デフレで安いチェーンの飲食店やカフェが市内に普及し始めたのもその後である。

 

 今回のコロナ禍で真っ先に痛手を受けたのは観光業であり、次が飲食店だった。送別会のキャンセルが相次ぎ、宴会のご馳走用の食材は行き場を失うか値が暴落した。今はチェーンの飲食店もガラガラで、しかし休業補償がないため閉めるに閉められないのが現状だ。

 

 それで、業務形態を変更する店が増えている。学生向け食堂、カフェ、レストラン、居酒屋、もつ鍋屋までが続々とテイクアウトを開始した。じつに多彩で、どの店も必死なのだ。

 

 先日の誕生日に利用したディナーセットのテイクアウトを父は気に入って、8月の「お母さんの誕生日には別のメニューを頼んでみよう」などと言っている。私もぜひそうしたいが、それが実現するにはいくつもの条件がそろわなくてはならない。

 

 私たち家族が健康でいられていること。

 その店が夏までつぶれず存続していること。

 そしてテイクアウトで少し贅沢する金銭的余裕が、自分たちに残っていること。

 

 コロナ禍はウイルスの型の変種や第二波、第三波の到来であと2年は自粛が必要というのが専門家の見たてである。社会の常識やルールは変わらなければ生存を維持できない。もちろん働き方も変わるだろう。

 

 けれど、飲食店の形態がどう変わろうと、人間には憩いのひとときが必要で、またあの清澄な朝の食卓を迎える時が来ると信じたい。そしてできればあのホテルがその日まで残っていて、地元の人々を楽しませてくれることを、朝に若葉を見るたびに強く思うばかりだ。

 

 

それぞれの仕事状況

 もらった誕生カードを机に並べて返信の言葉を探す。誕生日ということで家族が用意してくれた特別ディナーの後に自室へ引き揚げた木曜夜のことだ。

 

 思いがけずありつけた夕食は、街中のカフェレストランが始めたテイクアウトのセットで、ふだんはフレンチ総菜を中心にスイーツやコースメニューを提供する店である。今回のセットがいくらしたのか家族に聞いても答えてくれない。が、店内営業を取りやめテイクアウトのみに切り替え、予約客のために19時まで開店するという苦肉の策でお店は何とか回っているもようだ。採算は取れているのだろうか。もともとテイクアウトをしていなかった飲食店では平常時の数割しか取り返せないのが実情だろう。

 

 緊急事態宣言が出るずっと前から、飲食店は軒並み苦しい経営を強いられていた。3月からとにかく人が集まる行為はダメ、でも休業補償はしない、自粛要請という呼びかけだけするからあとは自己責任でやってねという国からの無責任な姿勢で今日にいたる。

 

 わが家では母の勤務先飲食店が全店舗GW明けまで休業となった。昨年まで祖父の介護と並走して2店舗の食材発注・メニュー選定・店舗での配食を切り回してきた母は、いきなり与えられたこの静かな時間に、不用品の断捨離に勤しんでいる。

 こういう時間の使い方は本当にごく限られた人だけに可能な「贅沢」だ。ローンの終わった持ち家に、健康な夫と非正規でもどうにか勤務先がある娘と住み、パート収入が唯一の生計でないからひと月位なら暮らせるだけだ。飲食店勤務だけで生計を立てていた人は今、家賃ほか月々の支払ができるかどうかの苦境にいる。

 

 東京住みの友人から届いたカードには、2月より在宅ワークに移行した、通勤がなくなった分とても快適と書いてある。地元市内の、わが家から遠い郊外に住む親友は「何がテレワークだ、この地区は大手工場の下請け孫請け勤務のベッドタウンだ」と書いている。私と同様あてにしていた仕事や就職説明会が流れた、ともある。

 

 コロナは現代社会のルールを一気に覆しつつある。

 3か月前まで「ふつう」だったことが、コロナ禍以後の世界ではできなくなる。

 国外はもちろん、国内、県内でさえ人の移動はしてはいけない。

 

 こうなると今は住んでる自治体でベストを尽くすしかない。

 が、わが県知事は休業要請を出さない方針でいる。「緊急事態宣言回避のため」に外出自粛要請してきたが、4/16夕刻にそれは全国に拡大された。国が「やっている感」しかないのは事実だけど、ここまできたら「業種の線引きが難しい」など言わず休業要請を出せと思う。もちろんこれは外出禁止と補償をセットでやらない国が悪い。

 

 私はまだ自転車で通勤している。マスクとフード付き上着、消毒で防護しつつ。職場では部屋のドアと窓を終日開放しての換気で冷え、備え付けのハンドソープで手荒れし、その雇用がどのみち今年度末で終了なのでやっぱりやる気が消えかかる。

 

 この先どうやって生計を立てる?所持品はパソコン必須として、在宅でできる仕事にありつけるのか?でもそれだけで世界が回るわけはない。在宅勤務なんてできるのはたまたまそういう職種でその条件が整った人だけだから。食料や物資を調達できるのは、それらを作ったり売ったりする人々がいてくれるから。

 

 もし本当の破局がきても、ものを作ったり動かしたりする基本のしくみを知っていれば再建の方途も見つけやすいだろうと思って読んでいるのがこちら。 

 

 

 どうか今困っている人たちが、人間らしく尊厳をもって新たな世界で暮らしを立て直せるように。