いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

人は殖え続けることが善なのか

 私の居住地だけかもしれないが、バイトやパートに「ここまで要求するの⁉︎」という求人がとても多い。そういう所に限って「この賃金で⁉︎」である。

 求められる責任や態度はフルタイムか、あるいは正規雇用者と同等に近い。つまり期間労働者としての賃金や待遇で基幹労働を求めている。

 

 この傾向は、この十数年とりわけ顕著になったように思う。

 人手不足。少子高齢化

 にもかかわらず生産性は低く、機械やAIよりも人間を使うほうが安いため、導入コストのかかるオートメーション化も進まない。

 

 そして人口減少はますます確実となった。

 

去年の出生率 確定値1.26で過去最低 7年連続で前年下回る | NHK | 少子化

 

 人手不足だから働き手が大事にされるかというと決してそうではない。なまじ向上した生活水準に合わせてサービスの要求水準は高く、かつ若年世代には封建的な奉仕と恭順を当たり前に求める高齢世代も田舎には当たり前に居るので、要するに労働者一人あたりの負担と責任が重くなるだけだろう。

 

 今、祖母がお世話になっている介護施設のサービスを見てても思うのだが、要求される業務内容の種類もこれまた多岐にわたっている。おそらく介護以外の職種にも「マルチタスク」が妙に要求されるだろう。

 

たまたま読んだこの本で出された予測に頷くと同時にため息も出る。

 

 

 この本の想定どおりに進むと、地方はこれからどんどん分業が成り立ちにくくなるだろう。仕事では労働者一人あたりの負担と責任が重くなり、家庭でも育児・介護・地域活動の役割など一人が何役もこなすことが求められる。業種職種の区分さえ曖昧化するかもしれない。

 

 最近の若い人が賃金よりプライベートな時間を優先する、残業を好まない、新卒で派遣登録してくる...等の傾向をもつことに対して、よく嘆かわしい論調で「問題視」する声が上がるけれど、コスパやタイパを重視するのは、国内の経済停滞でペイやパイの絶対量が増えない・縮小することが明白ならば、自分がかける労力を最小限にするのは合理的な選択だろう。権力側はこの上で出産、育児、介護まで求めてくるのだから、労働なんか最低限にとどめて可処分時間の拡大に傾注するのはごく自然な反応である。最低限の労働で「食えない」のは最低賃金の低さと社会保障脆弱性に起因するので、そんなのは政府の責任だ。

 

 そもそも人口減少で社会の制度や経済(商圏基盤)が危うくなることは、はたして少子化のせいなのだろうか。人口減少それ自体は、そんなにいけないことなのか。「子どもの」というより人間の数が減ることが、どうしてそんなにも良くない、危うい、恐るべきこととして語られるのか。

 

 1990年代、私が10代だった頃に恐れられていたのは人口爆発による環境破壊の帰結として世界が滅びることだった。今夏とくに猛威をふるった気候変動による異常気象は、人間の経済活動による環境破壊に起因する。「労働力」たる人間を増やすために国家が家庭や生殖を囲い込み、社会や経済、社会保障を支えるにもとにかく人海戦術という時代はすでに終わっている。

 

 本来なら少ない子どもを大勢の大人が手厚く育てる方向へ舵を切ることもできたのだ。そうしなかったのは結局どの業界も「低賃金で雑に扱える労働者」が欲しかったからであり、経済も社会保障も次世代の奮闘をアテにした、というより次世代に問題や責任を先送りする発想だからではないのか。自分たちよりも低劣な条件で自分たちを世話してくれる人材を確保したいー、少子化が高齢社会とセットで語られるとき、その不安の土台にはこの感情があるように思う。

 

 これから必要なのは、少ない人数でも回るシステムの構築である。出生率や出生数の低下を嘆く声が本当に空々しい。白々しい。

 

だいたい、もし性差別が無くなり、高水準の医療・福祉・教育がどんな属性や生まれの人にも平等にアクセスできるようになったとしたら、はたして人口は増え続けるのだろうか。むしろ、関心は繁殖以外の行為に向かうのではないか。

 

 少子化は先進国ならどこでもある程度進む傾向である。限られた人生を生殖以外のことに使いたいと思うのは成熟した社会や経済のもとではごく自然な傾向ではないだろうか。

 

こんな本もある。シングルで生きることはいまや世界的な傾向なのだ。

 

 

 とにかく、目先の豊かさや虚飾の繁栄のために誰かを踏み台にすることが多産化・人口増加の目的ならば、人は減っていくことが筋なのだろう。