いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

予感と気配

 盛夏だが、傾きかけた陽射しは少しずつ赤味が射して見える。7月の、青葉が一気に硬く黒々と繁り出す勢いとは違って、8月も立秋を迎えると折り返し地点とでも言うべきところを過ぎようとしているらしい。

 

 小川沿いの柿の木が青い実をつけている。

 

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 満開のサルスベリに瓦屋根、夏空にも明らかに晩夏の兆しがある。

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 ザクロの葉が黄葉しかけ、小さな実が色づいている。
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 ユリノキが所々黄葉し、夕陽に照らされる。

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 季節の変化を楽しむ心情の大半は、心身に感じられたある出来事の前後を想像する力に支えられているだろう。

 

 私たちは自らの眼に切り取られた一瞬の光景をも時間のさなかに置き、少し先の様子を想像しては喜びを抱く。

 

 生け花や庭園の植物を見るときも、蕾は開花を思わせ、散った花から覗く未熟な実も来るべき実りを想像させ、裸木さえ芽吹きを予感させる。終わった命からさえ次の命の予感を受け取ることがある。

 

 ところがそうした楽しみも、同じ土地に何年も暮らすと徐々に失われつつあるのが分かる。

 

 通勤や散歩で見かけた、昨年まで黄色いランタナと紫のアサガオが勢いよく繁茂していた古い軒下が今年は何もない。

 

 数年前まである家の敷地で作っていた小さなサツマイモ畑と低いぶどうの樹は、今では更地になっている。ある家庭菜園のザボンの木が今年は見えない。春には赤い実をびっしりつけた水路沿いのグミの樹が今年は伐採されている。

 

 かつては緑豊かな風景や古き良き面影を残した一角が失われると決まって「開発が進んだから」という文言が聞かれたが今は違う。それは開発のせいというより、そこに住む人も手入れをする人もいなくなったことが大きな理由なのだ。

 

 一軒家の主が亡くなって庭や軒が荒れる、あるいは家じたい消滅することは昔からあった。しかしいまはそのような場所に新たな家が建てられることは少なく、大抵更地や駐車場になっていく。

 

 水路沿い、庭木、垣根、軒下の彩りは当然ながらその家の住人たちが作り出したものだが、近年急速にその住人が減っている。空き家が増え、戸建てに住む人も多忙化し歳をとってゆけば、そこで生活する人たちが作る景色は年を追うごとに失われる。また、気候変動ゆえの炎暑で枯れたり刈られたりして無くなっているのだ。

 

 新たな住人がいない。新たな光景を創り出す構成員がいない。「次」がない。

 

 人の住まいがこういう事態なので、ある植物の一年が終わってもその次の年や季節を繋ぐためのひと手間を、担うだけの人手が無くなっていくのだ。

 

 少子化と高齢化が同時に進むとはこういうことなのか。

 

 季節の循環や時間性のなかに置かれて楽しむことができた趣ある佇まいも、その維持管理にかかる人手や負担がいちだんと重みを増してきたと言うべきか。

 

 いくら田舎とはいえどんな風景も佇まいも、原生林でもない限り、人の手が作ってきたものである。人口減少社会はおそらく、産業構造以上にその国の景観を変えてしまう。

 

 これからは生活者が集う場のなかに繁栄や発展ではなく衰微と凋落を見出す機会が増えるのだろうか。

 

 人間や物がただただ増え続けることに意義が置かれた経済成長時代の価値観を変えて、規模を縮小した生活様式のなかに味わえるたしかな喜びを、少しずつ模索していく時期なのかもしれない。