地元に住んでいると、県外へ「思いつきで」「ちょっと行って帰ってくる」みたいなことがとてもやりにくい。
このブログに何度も書いているかもしれないが、寒冷地でもないのに公共交通機関が未発達なせいで移動がとても不便だ。
だから大半の人は自家用車を持つことになる。が、周知の通り燃料代含め車の維持費というのはそれはもううんざりするくらい高額だ。古い車の車検代が高くなるのも納得がいかない。そもそも公共交通機関の行き届いた土地なら必要ない費用を、「ただ暮らすため」だけに払い続けるのは「理不尽」以外に表す言葉があるだろうか。
…こう書いても、地元の人が放つ台詞も解っていて、それは“ペーパードライバーなあんたが悪い”くらいなものである。そうであっても、不便で鬱陶しいことに変わりはない。
今年の記事にも書いたが、車所有必須への地域に居住は、そうでない地域の居住者と比べてちょうど軽自動車の新規購入費用約200万弱の差がそのスタートラインから付いているのではないか?
こういう事は日々の市内・県内移動はもちろん、非日常の楽しみと言える旅行にもあてはまる。駅まで行くのにまず相応の時間と費用がかかり、さらにその駅や空港まで使った自家用車の駐車場代が必要になる。
そして何より、一人日帰り旅行で運転していくとなれば絶対にできない・してはならないことがある。
飲酒である。
一人で運転して宿泊なしなら、用事の終わりに一杯やって気持ちよく解放感に浸るなど決してできないではないか。
数年前の夏を思い出す。
ある休日、よく行くラーメン屋へお昼に入ったら高校野球の応援で街へ出てきた男性数人がいた。その人がまず何を注文したか。
「ビールちょうだい。今日は電車で来とるけん」
真夏の昼にビール!これはたしかに自家用車の運転を控えた立場では決してできないことだ。嬉しそうに眼を細めながら瓶ビールをコップに注ぎ、今年の野球近況を語りながら喉を動かす様子は傍目にも嬉しくなる光景で、こういう気軽さが溢れる暮らしならどんなに気分が楽だろう。
近年、大都市圏に多いチェーンの飲食店が地元にも進出するようになった。が、その使い方というか位置付けが、大都市とはやっぱり違うように思う。
たとえばサイゼリヤなどは、私にとって老若男女が一人時間を過ごし、一人飲みをも楽しむ場だと思っていたのだが、地元では公共交通機関の便が良い立地とは言えず、ファミリーか友人連れかパートナーと行く食事処のようになっている。
自分が「こうありたい」と望む過ごし方や関係の築き方は、居住地で理想/ふつうとされる意識や慣習とはだいぶ違う。
車を駆動してする遠出より、もっと頻繁に並木やグランドの側を散歩したい。公園や緑道を歩きたい。
同じコミュニティの人を家の奥まで上げて食事しながら家族やお金やプライベートな話をする寄り合いを毎日するのではなく、公園や喫茶店で居合わせた人、新幹線の席でたまたま隣り合った知らない人と軽く挨拶する関係がいい。
旅行や外食だけではない。これ前から書いているが、今の自分の生活は、自分の裁量や決定で出来る事の範囲が異様に低減している。
基本的に両親の生活様式を軸に回っている家の中は、何をするにも工程数や手間(つまりアクションカウント)がやたらと多い。冷蔵庫ひとつとっても観音開きなので中の物を取るには片手では不可能なときが多々ある。その上両親は手前に小さなタッパーやらラップをかけた器やらを置くので、わざわざ両手で丁寧に手順を踏まなければ奥のものが取れない。下手すると雪崩れが起きる。
冷蔵庫の中身にしても、自分が「これを作ろう」と意図して買ってきた食材が全く別のお菜に化けてることはしょっちゅうだし、食材を袋の空いているものや消費期限の近い順に使うよう心がけた途端、出来上がるのは自分では作りたくも食べたくもなかった献立になる。
私は中途半端にレールを敷かれている状態、自分の裁量の余地が無い何かが嫌いだ。
ハッキリ言って毎回心の中で以下のように叫んでいる。
ー気軽にやりたい。思い立ったときに、気まぐれに。自分の意思で。
ーできないなら、やらない。いらない。最初から手をつけたくない。
いまやこんな心境に陥っている。
とはいえ五連休をどこへも遠出せずに地元で過ごしているのは別にそのせいではない。ふだんまとまった時間が取れずになかなか着手できてなかった語学の基礎訓練と反復練習、文章書きと厚めの紙本読書にあてるためである。
自分の意思でこうと決めて過ごしているー、事が何であれ、その事実だけが自分の暮らしや人生から主体性の明け渡しをどうにか防いでいる。そう信じるばかりである。