―決断するのは彼じゃない、あなたたちでもない、僕だ!
これは、先月Netflixのサブスク解約前に一気観した海外ドラマの字幕である。『皇妃エリザベート』第2シーズンの終盤で、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフⅠ世が食卓で軍事作戦について云々言われ、たまりかねて叫ぶシーンだった。
言語は全編ドイツ語で流し日本語の字幕を観ながら、まあ性格から言ってこの人物の自称詞はたしかに「僕」だろうなと妙に納得してしまう。そしてさらに驚くべきことに、ドイツ語だと自称詞はたった一種類で済むのだ。
翻訳はつくづく偉業だ、と思う。吹き替えであれ字幕であれ、外国語のドラマや映画を楽しめるのは、誰かがそれを訳しているからだ。それも、作品の時代設定やキャラクターの社会的地位、性別、性格に合わせて。このとき自称詞の選び方が不適切だと、文法的には正しくても訳として不自然でおかしな台詞が出来上がってしまう。
外国語を勉強して母語との違いに戸惑い感嘆する経験は誰しもあるだろうが、自分にとって最近とくに不思議なのは日本語における一人称単数代名詞の多さである。時代、階層、性別、年齢、加えて地域語(方言)も含めるとそれは膨大な種類と数になる。
だが英語やドイツ語の一人称単数(1格)はどんな時代、年齢、地域、階層、性別、性格であっても基本的に一種類なのだ。自分を指す代名詞の一人称単数の主格は、ドイツ語だと「ich」(1格)、英語なら「I」のたった一つだけである。当たり前のことなのだが、日本語母語話者である自分は「よくこれ一つで足りるなあ…」とほとほと感心してしまう。
とはいえ、これほど多くの一人称単数形がありながら同じ日本語話者でも使える自称詞の種類と幅は誰もが同じではない。とりわけ性別においてそれは顕著な差だ。
かつて職場で言い使った担当業務について、妙に進み方が遅く感じてはたして自分が教えたようにやっているのかいぶかしんだ男性社員が私に苛立ちまぎれに苦言を呈したことがある。そのさい自分がした工程と手法をやや頼りなげに説明したところ、「私がやった」という主語の部分を不自然に強調して、言うなれば揶揄するような口返答をされたことがある。たしかに紛れもなく「私が」した作業なのだが、もしかしたら世の中には女性が自らを指す主語を立てることすら不快に思う手合いがいるのだろうか。
男性の自称詞は現代でもなお幅広い。接客や営業の仕事ではなく、終日同じ部署の座席に居てさえ彼らはTPOに応じておそらく四種類くらいは使い分けている。
外部からの電話に「わたくしが対応いたします」、上司に対して「わたしが処理しておきます」、先輩や目下には「僕が何々だったとき」、話の通じない社内の人間とやりとりした後に「俺そういう意味で言ったんじゃないんだけどな」などとひとりごちる。またこの地域では年配の男性だとごくプライベートな自称詞は「わし」、これが訛って「あし」と言ったりする。
それに対して女性の使う自称詞は上記と同程度の拡がりをもつだろうか。家庭、地域、職場、その他友人同士においてもそもそも「自分を主体として話す」ことがうやむやにされ、そんな機会はごくわずかに留めることがよしとされる風潮がいまだに蔓延していないか。
そのためか、女性の主体回復の訓練、アサーティブトレーニングなどの場ではよく「“私”を主語にして話す/気持ちを述べる」ことが推奨されるという。尊厳を踏みにじられ、自己を「無い」ものとされたり、立場を不当に低く扱われてきた人たちに対してそれはとても重要なエンパワーメントである。
いっぽう性別違和を抱える人が子ども時代に自分をどう呼ぶか、これには相当な苦悩と葛藤が生じるだろう。「わたし」なる自称詞は大人が公の場で使うときこそ中立で適切なように聞こえるが、セクシュアリティによっては未成年が私的空間で発するには違和感をもたらすときがある。性別の規定は子どもがプライベートな場で自分をどう呼ぶかにおいてより強く意識させられる。
近年のSNSでよく見る、政治や社会を語ることを「思想が強い」、自分の意見を主張する行為を「自我が強そう」だと忌避する傾向を、私はとても危険だと考える。それは性別にかかわらず個々人の主体性を曖昧化し、意志も責任も固有の命さえも「あってもなくても同じ」ものとして溶かしこんでしまう流れのように思う。
自分のことをどう呼ぶか―、それは自分を自分でどう規定するかという問いをも意味する。
だから心の中でそっとつぶやいてみてもよいのではないか。
それを決めるのは彼(多数派<男性>)ではない、周囲の誰かでもない―、自分だ。


