いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

いわきび、最近の朝ごはん

 朝が辛い季節も徐々に陽射し明るく、日が長くなってきた。とはいえまだ明け方は寒く、布団から出るのに気合いが要る。出勤が必要な仕事に就いている人たちはこの時期朝の支度をどう乗り越えているのだろうか。もちろん自分一人の支度だけして出ればよい人と、家族とくにケアを要する誰かの世話をしてから家を後にする人とでは作業工程が雲泥の差ではある。とはいえ大変なことに変わりはない。ショートカットできる局面は極力そうしたい。

 

 私が最近(ここ1ヶ月半ほど)やっているのは朝食の簡略化である。まあまあ時間のある時は、台所でロールパンを2つ食べる。流しの前に立ち、袋から出したパンをすぐ小さな皿に載せ、ボトルコーヒーをカップに注いで流しこむ。この間約2分。トーストせずに食べられるのが嬉しい。軽く焼くともっと美味しいのは判っている。

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 それすら難しそうだなと思うときは、寝床をたたんですぐ自室で何か食べる。こういうロールパンを袋ごと部屋にストックして机に広げたティッシュに出して食べるか、もしくは小さなビスケットをつまむ。

 

 最近のお気に入りはミレービスケット。この辺ではたいていのスーパー、コンビニ、ドラストで売っている。

 

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天日塩を使っているせいか、香ばしい塩気とほのかな甘みに飽きがこない。市販の他のクッキーや何かと違って食べたあと口の中の粘つきを感じない。

 

 一度、百貨店へ所用で足を運んだ折に市民生活コーナーで障害をもつ人たちが作ったクッキーが1袋130円で売られているのを見て買ってみた。これを自室机の引き出しにストックしておいて朝食べる。砂糖とココアの自然な甘みが口いっぱいに広がって、とても幸せな気分になる。帰宅後のおやつにも良いので、数袋買ったのに数日で食べ終えてしまった。

 

 言うまでもなく、こういう朝食の摂り方は行儀が悪い。歯の雑菌が、生活のリズムが、お行儀がー、は百も承知である。

 

 でもこうすれば、朝何も食べずに家を出て昼前まで働くことは回避できる。順番やお行儀にこだわるあまり「今日も朝食ムリだった」「自分はダメだ」みたいな自己嫌悪を回避するためにはこういう方法でもよいと思うのだ。

 

 そして自分の場合、何よりもこういう発想に至るのは、今の私生活の中で自分の身の回りのことを「自分の裁量や決定でできない」傾向があるためで、根本的にはこっちを何とかすべきなのも解っている。

 

 年度末が近づいている。仕事や勤務先が変わる人も変わらない人も、仕事を辞める人も契約が切れる人も、働いていない人も、とにかく何か食べて飲んで、納得いく一日を歩んでいってほしい。

 

 

 

新年、無事を願う

 このたび能登半島地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。一日も早い復旧・復興を心よりお祈りいたします。

 

 年末から風邪をひき、体調が優れないまま年を越した。29日から微熱と悪寒、鼻水が続き、解熱剤と漢方薬で家にこもりながら大晦日も過ごす。

昨年の年末もコロナで寝込んだため、年の瀬に体調を崩すのが恒例化したら嫌だなあと思う。

 

 元日は熱も下がり、鼻も喉もだいぶ楽になったため家族と初詣に行く。

 

まずは山べりの近所の氏神様らしい神社へ。

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石段の脇は整地された庭のようなエリアがあり、木の実の彩りがある。

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これはクチナシの実だろうか。

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参拝を終えて麓へ降り、そこから温泉街を歩いて別のお寺へ足を伸ばす。

 これはお寺の飲食店の屋上。

 

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温泉街の一角。数年前完成した鮮やかな建物で、観光客で賑わっている。

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 かなり混んでいて歩いて自宅近くへ戻ってきた折に、母が「せっかくなのでもう一箇所参拝したい」と言うため、家から一番近い神社へ。

 着くとここも長蛇の列で、最後尾に並ぶと何となく所在ないのでスマホを開くと能登半島地震のニュースが飛び込んできた。

 

 それからはもう帰宅すると皆でテレビに釘づけになり、津波と激甚な揺れの様子、度重なる余震の緊急速報に見入っていた。東日本大震災の直後を思い出す。

 

 3.11以降も他の地域で大きな地震はあり、豪雨や台風で災害は毎年のように猛威をふるうのに、

今回の地震は政府対応が粗末で遅い。道路寸断が激しく港も津波被害を受けたため陸路海路ともに現地入りが難しいー、それがよく報道されるけれど本当にそれだけだろうか。なぜドローンを禁止したのか。

 

 正月2日目には飛行機の炎上事故もあった。どうにか三が日を終えて2日間仕事に行き、三連休を有意義に過ごそうと意気込んだのも束の間、7日にまたしても寝込んでしまった。

 

 なぜか左後頭部の激しい頭痛と吐き気、立ち上がるとわずかなめまい、胃に食べ物を入れることもできず終日寝て過ごす。昼過ぎに家族の勧めで飲んだ正露丸が効いたのか、吐き気は治まり頭痛も次第にやわらいでくれた。夕飯は無事食べ終えて、風邪ひきの一週間近く服用を休んでいた鉄剤も飲んで12時前に布団に入ったら、今日はだいぶ回復していた。

 

 自分も若くない、と痛感する年の初めになってしまった。これまで決して身体に良くはないが致命的なダメージでもなかった不摂生の数々ー何となく夜更かし、遅い夕飯、飲酒、退勤後時間があれば回り道して帰るなどーが、一気に身体にこたえるようになってしまった。

 

 どこも痛まない、めまいがしない、吐き気もない、それだけのことがこんなに有難いものかとしみじみ感謝する。

 

 実家暮らしだと飲み食いや家事、身の回りのことその他を自分の裁量やタイミングでやれないことが多々あって、それを解消するために不摂生のあれこれをやってしまう面もあった。遅寝もいわゆる報復性夜更かしだろう。

 

 でも、ちがうのだ。美味しく酒を飲み、娯楽や学術で本を読み、ものを書く時間を作るために健康的な生活を送るのだ。

 

 飲酒できなかった年末年始の味気なさ悔しさは忘れられない。今年はなるべく早寝早起きで健康的に自分の時間を作る。

 

 写真は今日の夕方買い出しがてら散歩した道で出会った彩りたち。

 冬の南天は格別。

 

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熟柿と南天

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残菊。f:id:iwakibio:20240108225052j:image

カルカヤの線が美しい。

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どうか皆さまがご無事で過ごせますように。

 

人は殖え続けることが善なのか

 私の居住地だけかもしれないが、バイトやパートに「ここまで要求するの⁉︎」という求人がとても多い。そういう所に限って「この賃金で⁉︎」である。

 求められる責任や態度はフルタイムか、あるいは正規雇用者と同等に近い。つまり期間労働者としての賃金や待遇で基幹労働を求めている。

 

 この傾向は、この十数年とりわけ顕著になったように思う。

 人手不足。少子高齢化

 にもかかわらず生産性は低く、機械やAIよりも人間を使うほうが安いため、導入コストのかかるオートメーション化も進まない。

 

 そして人口減少はますます確実となった。

 

去年の出生率 確定値1.26で過去最低 7年連続で前年下回る | NHK | 少子化

 

 人手不足だから働き手が大事にされるかというと決してそうではない。なまじ向上した生活水準に合わせてサービスの要求水準は高く、かつ若年世代には封建的な奉仕と恭順を当たり前に求める高齢世代も田舎には当たり前に居るので、要するに労働者一人あたりの負担と責任が重くなるだけだろう。

 

 今、祖母がお世話になっている介護施設のサービスを見てても思うのだが、要求される業務内容の種類もこれまた多岐にわたっている。おそらく介護以外の職種にも「マルチタスク」が妙に要求されるだろう。

 

たまたま読んだこの本で出された予測に頷くと同時にため息も出る。

 

 

 この本の想定どおりに進むと、地方はこれからどんどん分業が成り立ちにくくなるだろう。仕事では労働者一人あたりの負担と責任が重くなり、家庭でも育児・介護・地域活動の役割など一人が何役もこなすことが求められる。業種職種の区分さえ曖昧化するかもしれない。

 

 最近の若い人が賃金よりプライベートな時間を優先する、残業を好まない、新卒で派遣登録してくる...等の傾向をもつことに対して、よく嘆かわしい論調で「問題視」する声が上がるけれど、コスパやタイパを重視するのは、国内の経済停滞でペイやパイの絶対量が増えない・縮小することが明白ならば、自分がかける労力を最小限にするのは合理的な選択だろう。権力側はこの上で出産、育児、介護まで求めてくるのだから、労働なんか最低限にとどめて可処分時間の拡大に傾注するのはごく自然な反応である。最低限の労働で「食えない」のは最低賃金の低さと社会保障脆弱性に起因するので、そんなのは政府の責任だ。

 

 そもそも人口減少で社会の制度や経済(商圏基盤)が危うくなることは、はたして少子化のせいなのだろうか。人口減少それ自体は、そんなにいけないことなのか。「子どもの」というより人間の数が減ることが、どうしてそんなにも良くない、危うい、恐るべきこととして語られるのか。

 

 1990年代、私が10代だった頃に恐れられていたのは人口爆発による環境破壊の帰結として世界が滅びることだった。今夏とくに猛威をふるった気候変動による異常気象は、人間の経済活動による環境破壊に起因する。「労働力」たる人間を増やすために国家が家庭や生殖を囲い込み、社会や経済、社会保障を支えるにもとにかく人海戦術という時代はすでに終わっている。

 

 本来なら少ない子どもを大勢の大人が手厚く育てる方向へ舵を切ることもできたのだ。そうしなかったのは結局どの業界も「低賃金で雑に扱える労働者」が欲しかったからであり、経済も社会保障も次世代の奮闘をアテにした、というより次世代に問題や責任を先送りする発想だからではないのか。自分たちよりも低劣な条件で自分たちを世話してくれる人材を確保したいー、少子化が高齢社会とセットで語られるとき、その不安の土台にはこの感情があるように思う。

 

 これから必要なのは、少ない人数でも回るシステムの構築である。出生率や出生数の低下を嘆く声が本当に空々しい。白々しい。

 

だいたい、もし性差別が無くなり、高水準の医療・福祉・教育がどんな属性や生まれの人にも平等にアクセスできるようになったとしたら、はたして人口は増え続けるのだろうか。むしろ、関心は繁殖以外の行為に向かうのではないか。

 

 少子化は先進国ならどこでもある程度進む傾向である。限られた人生を生殖以外のことに使いたいと思うのは成熟した社会や経済のもとではごく自然な傾向ではないだろうか。

 

こんな本もある。シングルで生きることはいまや世界的な傾向なのだ。

 

 

 とにかく、目先の豊かさや虚飾の繁栄のために誰かを踏み台にすることが多産化・人口増加の目的ならば、人は減っていくことが筋なのだろう。

 

 

真夏を生きる橙色のみなさん

 今夏の暑さは厳しい。国内だけでなく世界的にこれまでない暑さらしい。

 

 そんななか鮮やかに目を惹いた橙色たちを撮ってみた。

 

 水路沿いのランタナ

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 枯れ木に絡みつき咲くノウゼンカズラ。繁った葉も艶やかでみずみずしい。下にはノブドウのつるも巻きついている。このエリアは草の繁茂が激しく、初夏に何度刈られても再び勢い良く芽吹いてくる。

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 川沿いの土手にはキバナコスモスが咲き始めた。こぼれ種で殖えるのか、山道の少し開けた草地によく群生している。

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 古い酒蔵の軒にホオズキが生けてある。

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ここは普段からこのように季節の花を飾ってある。

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 海辺のサービスエリアの植え込み。

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 夏のオレンジ色はどんなに鮮やかでもどこか切ない。熟せば熟すほど夏の終わりを痛切に意識してしまい、逝く夏を惜しむ気持ちは他の季節よりも悲しみが先立つ。

 

 さいごに、アイコトマトで作ったトマト卵炒め。こういうおかずが夏はいちばんいい。

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 皆様もどうか健やかな夏を。

 

 

予感と気配

 盛夏だが、傾きかけた陽射しは少しずつ赤味が射して見える。7月の、青葉が一気に硬く黒々と繁り出す勢いとは違って、8月も立秋を迎えると折り返し地点とでも言うべきところを過ぎようとしているらしい。

 

 小川沿いの柿の木が青い実をつけている。

 

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 満開のサルスベリに瓦屋根、夏空にも明らかに晩夏の兆しがある。

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 ザクロの葉が黄葉しかけ、小さな実が色づいている。
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 ユリノキが所々黄葉し、夕陽に照らされる。

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 季節の変化を楽しむ心情の大半は、心身に感じられたある出来事の前後を想像する力に支えられているだろう。

 

 私たちは自らの眼に切り取られた一瞬の光景をも時間のさなかに置き、少し先の様子を想像しては喜びを抱く。

 

 生け花や庭園の植物を見るときも、蕾は開花を思わせ、散った花から覗く未熟な実も来るべき実りを想像させ、裸木さえ芽吹きを予感させる。終わった命からさえ次の命の予感を受け取ることがある。

 

 ところがそうした楽しみも、同じ土地に何年も暮らすと徐々に失われつつあるのが分かる。

 

 通勤や散歩で見かけた、昨年まで黄色いランタナと紫のアサガオが勢いよく繁茂していた古い軒下が今年は何もない。

 

 数年前まである家の敷地で作っていた小さなサツマイモ畑と低いぶどうの樹は、今では更地になっている。ある家庭菜園のザボンの木が今年は見えない。春には赤い実をびっしりつけた水路沿いのグミの樹が今年は伐採されている。

 

 かつては緑豊かな風景や古き良き面影を残した一角が失われると決まって「開発が進んだから」という文言が聞かれたが今は違う。それは開発のせいというより、そこに住む人も手入れをする人もいなくなったことが大きな理由なのだ。

 

 一軒家の主が亡くなって庭や軒が荒れる、あるいは家じたい消滅することは昔からあった。しかしいまはそのような場所に新たな家が建てられることは少なく、大抵更地や駐車場になっていく。

 

 水路沿い、庭木、垣根、軒下の彩りは当然ながらその家の住人たちが作り出したものだが、近年急速にその住人が減っている。空き家が増え、戸建てに住む人も多忙化し歳をとってゆけば、そこで生活する人たちが作る景色は年を追うごとに失われる。また、気候変動ゆえの炎暑で枯れたり刈られたりして無くなっているのだ。

 

 新たな住人がいない。新たな光景を創り出す構成員がいない。「次」がない。

 

 人の住まいがこういう事態なので、ある植物の一年が終わってもその次の年や季節を繋ぐためのひと手間を、担うだけの人手が無くなっていくのだ。

 

 少子化と高齢化が同時に進むとはこういうことなのか。

 

 季節の循環や時間性のなかに置かれて楽しむことができた趣ある佇まいも、その維持管理にかかる人手や負担がいちだんと重みを増してきたと言うべきか。

 

 いくら田舎とはいえどんな風景も佇まいも、原生林でもない限り、人の手が作ってきたものである。人口減少社会はおそらく、産業構造以上にその国の景観を変えてしまう。

 

 これからは生活者が集う場のなかに繁栄や発展ではなく衰微と凋落を見出す機会が増えるのだろうか。

 

 人間や物がただただ増え続けることに意義が置かれた経済成長時代の価値観を変えて、規模を縮小した生活様式のなかに味わえるたしかな喜びを、少しずつ模索していく時期なのかもしれない。

 

 

 

 

愛しのサルスベリ

 いよいよ夏本番が近づいてきた。戸外で目を奪われる植物たちも盛夏の佇まいを見せる。ムクゲヒメヒオウギズイセン、ルリマツリ、ササユリ、ランタナ…。

 

 なかでも今年はサルスベリがいっそう鮮やかで美しい。私はサルスベリが好きだ。どの季節の姿も躍動感があって、どのタイプの建築様式にも映える。日本家屋にも洋館にも合う。白い壁、墨色の瓦や築地塀、木造屋、山野の只中のどこに在っても夏を醸し出す。

 

 温泉街を抜けて山道へ向かう道には、用水路沿いの家の庭から水辺を覆うように咲いている。

 

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少し日が傾いた時間の佇まい。

 

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 春の芽吹きはみずみずしく、その幹はなまめかしい。

 夏には青々としたイチョウの葉を背景に空を覆う。

 

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 建物沿いや街路にも咲く。

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 20年近く前、初めて東北を訪れたとき、午後に少し時間があったので街外れの高台までバスで行ってみることにした。真夏だったにもかかわらず、陽射しの強さも色合いも四国と全然違い、また草木も新緑の色をたたえていた。

 

 路地の木陰には夏休みの子どもたちが遊んでいる。山道の途中の八百屋にならぶ果物の籠に射す陽射しは青みを帯びるように影が深い。旧家と思われる邸宅が並ぶ区域の庭にはサルスベリが咲き、静かに夏の日を浴びている。ずっと昔からこの花は辺りの生活時間を刻み、夏の静けさを守ってきたのだろう。

 

 

そして秋になるとこんな見事な紅葉が見られる。

 

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葉が落ちれば褐色の丸い実と裸木も趣がある。

 

サルスベリは愛おしい。どんな空間に在っても彩を添え、季節を告げてくれる。今夏もその花陰で日ごとに違う一瞬を楽しむ。

 

身体と試行錯誤

SNSで、小学校低学年の子たちがプール授業の前の着替えで、パンツを履いたまま水着を着てしまったという投稿を見た。

 

これに対して一方には「今の子はこんなこともできないのか」という口調があり、他方には「いや子どもたちはこの3年間、コロナ禍で集団生活も水泳の機会も無かったのだから知らないのも無理はない」という意見があった。

 

思えばかつて子ども時代に「誰でも経験していそうなこと」だと多くの大人が思っていることは、存外いまの子どもたちにとって「あたりまえ」ではなく、経験する機会も必要性もたいしてなくなっているのかもしれない。人手不足でろくに目配りもできない、人員配置も満足にできないプール授業なんて危険なだけだし…。

 

でも、そもそもコロナ前の子どもたちが、いやもっと言えば今の小学生の親世代が、正しい運動法や身体の管理がはたして出来ていたのだろうか。

 

なにしろ夏場に運動した後でも水を飲むなと学校で言われた世代である。

 

大人になって働けば労働基準法などどこ吹く風の環境で、残業と無駄な会議と、人生の優先順位ほかすべてを仕事に捧げるという日々に明け暮れている。

 

今でこそこまめな水分補給が喧伝されるようになったが、それでも公共交通機関の運転士などが車中で飲食しただけでバッシングがいまだにある。

 

 

もう五年以上前だが、腕や足を傷めたのがきっかけで鍼灸に通い詰めた時期がある。その施療院は接骨院と一緒になっていて、交通事故対応もしていたのでかなり幅広い症状の患者を受け入れていた。

 

当時、カーテン越しに聞こえてくる会話でとりわけ気にかかることがあった。それはスポーツ中のケガの多さだ。

 

中高生なら部活中のケガ。

大人なら休日に趣味でやる草野球やママさんバレーの類のケガ。

 

バレーだとジャンプの際に膝を傷め、バスケだと瞬発力の要る動作で足首などを傷め、サッカーでは脚を、野球やテニスで肘を…といった具合に競技ごとにケガしやすい部位の傾向もある。

 

それも大人のばあい普段から活発に動くことが好きでスポーツを趣味で楽しんでいる人たちのようだ。

 

おそらく皆、スポーツにあたって自分の身体をどのように動かし、休め、調えるかなど教わった試しがないのだろう。とくに大人は身体の使い方をゆっくり覚えていく機会など無かっただろう。体育の授業や部活はスポ根精神論が罷り通る時代だったろうし。

 

気候変動のせいで夏の暑さは三十年前とは比較にならないレベルになった。屋外の作業やスポーツは一定の基準を超えたら中止しないと命が危ない日が多々ある。日焼け止めの使用禁止など児童生徒の身体に何の利益もない。

 

教育現場の過重労働等見直しもあって、部活動を外部委託する動きがある。

 

何にせよ、数十年前の常識では身体を守れなくなりつつある。

健康や運動にまつわる情報をアップデートしながらもそこに、少しずつでよいから各人が自分にあった身体の鍛え方休め方を試行錯誤しながら見つけていく余白が、あってほしいと切実に思う。