いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

観光公害ではない、しかし…

朝、自転車で通勤していると思わぬ混雑に出くわすことが増えた。中心街にある今の職場までちょうどお城の麓を通るのだが、そこは観光地でもある。私が通る頃、閉まっているのは土産物店と飲食店くらいで、朝から大勢観光客が歩いているのだ。

 

 ツアーガイドに率いられて賑やかな団体さんが来ることもあれば、数人連れで朝の散歩を楽しむ人たちもいる。車道に出ると、大型の観光バスや高速バスからのんびり辺りを見回しながら珍しそうに、普段住んでいる土地とは異なる朝の景色を新鮮そうに眺めながら旅行客や出張客が降りてくる。

路が狭いので通勤客はどうしても恐る恐る避けながら先を急ぐ。私もその一人で、一分を争う通勤時間のなかで「頼むから道を譲ってくれ」と切実に思うことも増えた。

 

通勤者と観光客ははたして同じ時間を生きていると言えるだろうか。少なくとも通勤時間帯の街路に求めるものは違うだろう。前者はとにかく時間通り目的地に着くことが優先である。後者も時間の制約はあるていどありながら、しかし道を急ぐ通勤者を含めたその街の景色を味わうことが目的だ。同じ空間に居ながら向いているベクトルは正反対である。朝ギリギリで家を出る自分が悪いといえば悪いのだろうが…一方でそういう問題ではないとも思う。その地で働く者、生活する者の刻む時間が、その街のテンポを形作っている。

 

とはいえ上記のようなことはまだよい。いかに騒がしくても皆ルールやマナーを守って観光しているだけである。コロナ前に訪れた京都のように、公共交通機関が全て観光客で埋め尽くされ地元住民の入り込む余地がほぼ無いように見えるあの光景とはちがう。路面電車に観光客が大勢いても生活者を押しのけることは決してない。私が案ずるのはむしろ以下のようなことである。

 

城下麓の街路には明治期に創立された女学校がある。中高一貫の女子高として今も続くその学校には制服姿の女子生徒が大勢登校してくる。ある朝、初老の夫婦が散歩しながら中高一貫校の前にカメラを向けている。お城の麓にある、伝統ある校舎の正門を写しているのだろう。レンズを構えるのは夫の側で、その視界にあるのは談笑しながら入っていく女子高校生たちの姿であった。

 

男性はたぶん山裾の緑に包まれた正門から女生徒の活況を映したかったのだろう。旅の記念に一枚収めたかっただけだろう。おそらく他意はない。しかし世の中には性的な意味合いで女子中高生を盗撮する者がいる。女子生徒たちは登校を急ぎ友人と歓談し、ただ日常を送っているにすぎない。だが観光客はこの夫婦だけでなく日々多数訪れ、彼女たちは毎日のように旅の風景の一部としてカメラを向けられ、レンズ越しに視られていることになる。

 

 観光地の見どころには名勝たる建造物や自然景観のほか、街並みや賑わいも含まれよう。ガイドブックに載せられたスポット以外にも、寂れた路地やうらぶれた一帯に惹かれる旅行者もいる。また歓楽街や商店街、宅地など人が主役のような場所に味わいを見出す向きもある。そのような場所では人が風景や旅情の中核をなしている。かつそういう一角で際立つのは、観る者と観られる者、観光客と居住者という歴然たる立ち位置のちがいである。

 

 視ることはときに暴力性をはらみ、視る側を優位に立たせる。コロナ禍収まらずとも規制を緩めて観光や人の出入りが盛んになったいま、旅する側にはこれまでの観光客のマナーやルールという枠には収まらない敬意や慎みが要求されているのかもしれない。

 

 

 

 

 

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