いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

観光地に渦巻く時間

  先月末、奈良へ旅行した折に乗り換えで京都駅を利用した。平日午後でほんの二十数分の滞在にすぎなかったのに、ホームへ滑り込んでくる電車は見るだけで気がふさぐような混み方をしている。京都の人混みは都市人口数や関西圏内の他府県からの通勤通学者に加え、なんといっても年中世界中から来る観光客に起因している。観光地としての京都の在り方は国内他都市と比べて特異で、居住している人は移動をはじめさぞや大変だろうと思う。観光者と居住者の違いをぼんやり考えてみた。

  

  観光客と居住者は全く異なる時間を生きている。求める価値もちがう。前者は非日常に身を置き、自らの属する日常世界にない価値を求めて観光地をさまよう。対して後者は日常に埋没し、その地の歯車の一つとしてその時空間を機能させることを最優先に生きている。通勤者は決まった時間に職場へ到着することが最優先だし、昼食も昼休み終了までに職務に戻れるよう限られた時間で動き、退勤後は子どものお迎えと夕食準備や家事をこなせるよう一手先のタスクを見込んで動く。

  だが観光客は日常の歯車を離れその外側に居る。訪れたその地をあたかもスペクタクルのように眺めていられる。乱暴な言い方だが、人混みで生活の諸々を髪ふり乱し声を張り上げこなそうとする居住者の所作さえも、観光客にとっては時として鑑賞の対象となってしまう。

 居住者は日常の規則に沿った時間軸で動くことを余儀なくされるが、観光客は基本的に自分の都合で来て動く。居住者においては混雑の時間帯にも規則性があるのでたとえば各職場で始業時間をズラして通勤ラッシュの緩和も可能だが、遠来の客は利用する交通機関の都合で到着時間帯もまばらだ。食事時に食事ができるとは限らないのでふつうなら暇な時間帯に飲食店を利用することも多い。 混んでくれば早めに済ませて店を出ようとする客もいるけれど、かの地の観光人口は過重すぎて、少々の心遣いで緩和できるタイプのものではなくなっている。

 

 居住者と観光客の時間軸が混在し、その利害が先鋭化する場がバス車内だと思う。時間厳守の通勤通学者に加えて、連日観光客を運ぶ運転手たちは、「このバスはどこそこへ行きますか」「このカード使えますか」などをイレギュラーに尋ねられるのだ。日本語の不自由な人も多い。その地になじんだ者なら決してしないような質問が突発的に飛び交う中、日々の天候と道路状況に気を配り遅延なきよう進むのは神経を使うだろう。

  

 観光地のありようを考えるとき、いつも思い出す一冊がある。藤沢周平 

ふるさとへ廻る六部は (新潮文庫)

 である。ここに東北新幹線開通に寄せて観光開発の進むだろう東北の行く末を案じた「老婆心ですが」というエッセイがある。

 京都の地はそのネームバリューに乗じた観光業で観光客を適度に遊ばせ、ほどよくあしらい、しかし地元民の懐には決して客を踏み込ませず、料金はきちんと取るしたたかさを持っている。対して東北にはそういう気構えがあるとは思えないから行く末が心配だー。

 そんな内容だった。しかしこの懸念はおそらく、京都以外の国内はどこにでも当てはまるだろう。

 近年、日本を訪れる外国人観光客は増加している。けれどもそれは、失われた三十余年を経てなお「昭和レジーム」を一切払拭できなかった日本が、デフレの影響もあって物価も賃金も安い国となったことが背景にある。そうした中での「観光立国」の標榜は、国際社会での相対的な凋落を背景に、文化の安売りと表裏をなす売込み戦略に手を着けたことを意味するのかもしれない。

 京都の地は時に高飛車で冷たい。国内他都市にはない特有の気位がある。とはいえこの気質は京都が置かれた政治的立場上やむを得ず形成されたものでもある。

 

 本当に「観光で食っていく」には土地によっては適度な一線を保つために政治的なしたたかさを必要とするのだ。非日常を求めてやってくる外部者を、決して日常の懐へ踏み込ませない冷徹さをどこかに保っていなければ、文化はあっさり安売りされ、消費され、やがて喰われてしまう。

 大型連休、祇園祭、桜と紅葉の季節は混雑のピークである。路上はごった返し、ダイヤは無きに等しくなる。かつて秋に京都中心街を訪れたとき、地元民と日本人観光客がバス停に汗して長蛇の列をつくるその横をタクシーに乗った観光客がさっそうとすり抜けていったのは、上記の懸念を想起するならば、なかなか象徴的な光景だったといえる。