いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

ダブルケア時代の子育て懸念

 自転車通勤の帰り道、市街地の大型スーパー付近を通ることがある。ちょうど退勤ラッシュであり、買い物に勤しむ人も多く、子どもを連れて帰路につく人もたくさんいる。そんな人混みを自転車で進んでいくと、いくつか気づくことがある。

 学校や学童の子どもを迎えに行った後なのか、子連れで歩道を行く人がある。子どもを連れているのは意外と高齢者が多い。たぶんその子の祖父母だろう。仕事帰りの大人が一日の疲れを引きずってげんなりと歩むのに対して、子どもはよく動く。学校が引けても一日の興奮冷めやらずな様子の子もいる。見るものすべてが生まれて日の浅い子どもにとっては珍しいのかもしれない。そうして子どもは突発的な動きをする。

 私のすぐ横で自転車を押す60代位の男性と一緒に歩いていた幼児が突如、歩道の脇へ飛び出してきた。歩道の隅はちょうどガードレールの切れ目で、けっこうなスピードを出した車が走っている。その子が車道の際へ出かかったところで男性の叱責がとんだ。私は狭い歩道でブレーキをかけ、他の歩行者もどうにか避けることができた。子どもは歩道の際で立ち止まり、再び自転車を押す男性の下へ戻っていった。危なかった。この祖父とおぼしき男性がもう少し歳をとり認知力が低下していたら、子どもの動きに気づくのが遅れたかもしれない。子どもの多動や予測不可能な動きを高齢者は止められない。

 保育所の拡充をしぶる主張のひとつに、子どもが生まれたら自分の親に預けて働けばよいという代替案がある。三世代同居すれば子育てや介護の人員が確保できるし家賃も浮くから若者や子育て世帯への公的支援は必要ない、という言い分と大抵はセットである。

 しかしそれは危険だ。子どもの祖父母はいまどんなに健康で有能でも、これから歳をとれば一人でできないことやさせてはいけないことが増えてくる。つまり彼/彼女らはそう遠くない将来にケアを受ける側に回るのだ。誰かの手助けや見守りが日常生活に不可欠となり、その負担は対子どもと同様かそれ以上の重さだろう。晩婚化と晩産化が進んだ今の国内でアラサー・アラフォーたちが懸念するのはダブルケアである。たとえ親が元気でも、親との関係が良好でも、子育てを家族という私的領域だけで囲い込むことは危うい。近代に誕生した限られた時代だけに通用した家族の在り方にすぎない。

 若い人が自分たち世代のことに、そして次世代を育む仕事にしっかりと傾注できるよう、家族と市場以外のセクターでインフラを整備しなくてはならない。

無条件の信頼

 屋外はすっかり人が戻った。市中すぐ横を流れる河川敷付近には小さなテニスコートやグランドがあり、スポーツ練習に興じる人も多い。遊具をそろえたスペースもあって、そこは多くの家族連れが集まっている。小さな子どもはもちろん、犬もいる。

 

 よく晴れた初夏の日曜、真っ赤に夕日が沈もうとして皆ようやく帰り支度を始めた頃である。ある夫婦が、柴犬を抱き上げて自分たちの自動車に乗せようとしている。夕日の逆光のなか、ドア越しにその犬の小さな足がヨジヨジ動くのが見えた。

 なんと無防備な姿だろう。

 なんとあどけないしぐさだろう。

 柴犬は抱かれるままに、仮に落とされても身を守れない体勢で体を飼い主に預け切っている。この犬は飼い主を信じ、自分を取り巻く環境もまた疑うことなく生きている。まだ子犬のせいもあるだろう。飼い主はきっと心からこの子を大事に育て、守っているにちがいない。

 その犬が抱いているのはおそらく世界に対する無条件の信頼だろう。世界は自分を優しく包み込んでくれて、鼻を向けても足を踏み入れても面白く、危険があっても自分は守ってもらえる。そのことに疑いやよこしまな意図が付け入る隙はない。

 それはむろん、飼い主が最新の注意と配慮をその子に傾けているからにほかならない。それは幼い生き物が育つために不可欠の条件だ。幼いうちは外的環境や他者に対して無条件の信頼に浸かる。やがて成長するにつれ、世界の危険と自己の脆弱さを知り、自己と他者への信頼は自らが意識的な努力によって築きなおすものであることを知る。

 私はすべての生き物ーいうまでもなく人間の子もーがその甘やかな豊かな幼少期を享受することを望む。だがそれは親や血縁のある保護者だけでなし得ることではない。幼い生命が安心してつまずきや不可逆でない傷つきを経験して成長できる環境の整備は、すべての大人が物心両面で多様な形態でもって実現していかなくてはならない。

 

風の抜ける場所

 外出自粛が緩和されたからというわけでもないが、夕方の仕事帰りに自転車で散歩するのが目下私の楽しみとなっている。
 コースは職場から自宅付近までは直帰して、さらに東南方向へ迂回するエリアが気に入っている。どちらかというと温泉街付近にかかるのだが、木造住宅やしゃれた戸建てが多く並ぶ閑静な生活圏の小道を縫うように走る。

 自転車をこぐ動作が作り出す景色の流れ方は格好の気晴らしになる。自動車だと風景の享受は視覚中心になり、徒歩だと全方位から来る情報や感触を身体全体で受けるためコースを選ばないと淀んだ雰囲気の場所からは負の影響をまるごと浴びてしまう。その点自転車は風景を眺めるスピードを自分の身体でコントロールでき、同じコースでも天候や季節、生えている植物や水路の流れ方によって違う絵を見ることができる。

 自転車乗りは私にとって最適解の運動だ。一日働いた分の疲れやモヤモヤした気分、終日在宅した休日の漠然とした閉塞感が、自転車で走ることで手放せる。これも不思議なことに、心身に澱んだエネルギーがきれいに発散できるコースやアングルが存在する。

 一つは「流れ」を意識させてくれる場所だ。山辺を切り拓いたバイパスや蛇行する宅地の小道でもそれがより広い通りや豊かな山に連なっていることがわかる空間に立つととても安らぐ。勢いよく流れる用水路の淵も同様だ。

 もう一つは目を惹く街路や庭の一角である。濡れるような柿若葉が屋根に影をつくるとき、緑の艶を増した泰山木が花を開くとき、まだ若葉の色をした芙蓉の葉が伸びる傍らに生えたばかりのヒルガオの蔓が絡むとき、季節のほんの数日しか味わえないような光景をとらえたとき。心身と外的環境が巧みに調和する一瞬がある。

 ある小学校のプール周辺はオフホワイトの壁とターコイズブルーの柵・屋根の対照が美しい。その横の舗道はコンクリートで覆われているが水路がほとばしる音がよく聞こえ、立ち並ぶ戸建ての庭木は健やかなのがわかる。そういう場所はいわば気の流れが良いのだろう。人の流れや動線をスムーズにし、見通しが良く障りのない環境は、都市設計などで技術的に作り出すほかに、住まう人の意識的な努力と、通る人の意図的な良い風景への渇望から立ち現れてくるにちがいない。

裾野は層を圧し上げる

 少し前に、仏検が存続の危機に直面しているというニュースを知った。

【緊急】「仏検」存続のためのご寄付のお願い | 仏検のAPEF/公益財団法人フランス語教育振興協会

 
 やはりCOVID-19の影響で試験の開催中止による大幅な事業収入減が影響している。が、この十年続く受験者数の減少も効いているらしい。

 この知らせに対してTwitterではこうした検定に「もともと使えない」「なくてもよいのでは」などという声が上がっている。
 仏検に限らず英検、TOEICほか「日本国内でしか評価されない」語学検定はかねてからやり玉に上がってきた。むろんこれらで高得点を上げたからといって現地での円滑な意思疎通や意味しない。海外留学・就職には英語でもそれ以外の言語でも基準とされる試験が課されている。ドメスティックなガラパゴス検定を批判的に見る人たちは実戦に使える評価を基準に考えているのだろう。

 だが語学試験や語学学習は留学や就労、現地移住目的でなければ意味がないのだろうか。現地へ行く予定もなければ何らかのビザ取得を考えているわけでもない層にはどんな人がいるのか目に入らないのだろうか。

 「使える」語学試験はそう気軽に受けられない。たとえばIELTSなら1回3万円近く受験料がかかる。受験会場も大都市圏がほとんどで、辺鄙な地方に暮らす人にとってはそこへ行くこと自体かなり時間的経済的負担がかかる。だから上記の検定は手軽なスコアチェックとしての用途も兼ねているだろう。

 それに検定試験や資格が「幅をきかす」度合は主催団体が置かれたパワーゲームや雇用・市場状況に左右され、純粋にその中身で価値が検討されているとは言い難い。

 母語以外の言語を学ぶことは自分が根を下ろす生活圏以外への扉を開いてくれる。異なる言語で情報をとり、文献を読み、異なる文化や土地の人とコミュニケーションする回路が与えられる。それを素晴らしいとも豊かだとも思わない人たちの主張には、新自由主義改革で叫ばれた「選択と集中」の理念が伏在している。

 けれども留学や仕事とは無関係に楽しみで学ぶ人々がいなくなれば、学習者の層は一気に脆弱化する。この傾向は語学検定に限らない。

 スポーツなら競技人口ガタ減りの種目に大物選手は台頭しないだろう。
 学術研究なら趣味・知的関心を契機に学術書にアクセスする層が消えたら学問は担い手・支え手ともに消失する。それは在野研究者がアリかナシか以前の問題だ。

 知的文化的情報や機会が平等に保障されるべき根拠となるのは、辺鄙な地や貧しい層にも天才が埋もれているかもしれないから、ではない。ある領域に多様なレベルや目的の者が多数存在すること、その裾野の広さが担い手と支え手を拡充し、その領域の層を圧し上げるからである。

 このブログは地方暮らしの生きづらさをつづることも目的のひとつになっている。コロナ災害をきっかけに始まった遠隔授業や公演・試合のオンライン配信が、どうか機会を閉ざされてきた層へのアウトリーチとなることを心底ねがう。
  

食を考える映画たち~amazon、Netflixにて視聴可~

 STAY HOMEで自炊にハマったり日々の食事を見つめ直すことになった方も多いかもしれない。そこで、COVID-19がどうなろうと続いていく日常の食について再考する情報を与えてくれる映画を紹介する。


 2004年公開の「スパーサイズ・ミー」
Amazon.co.jp: スーパーサイズ・ミーを観る | Prime Video

でおなじみモーガン・スパーロックによるドキュメンタリー。

スーパーサイズ・ミーホーリーチキン」

www.amazon.co.jp

 今回はスパーロックが自らチキン料理のファーストフード店を立ち上げ、その過程で食肉・ファーストフード業界の実態に迫る。私が見どころだと思うのは、今日の自然志向・健康志向が広告業界のキャッチコピーによる印象操作にすぎないことを仔細に示すシーンだ。ヘルシーさを求めているように見えながら、客はグリルよりフライドなチキンを食べたがる。油で揚げたものは不健康というイメージにもとづき、チキンを「フライ」ではなく「クリスピー」と呼ぶたくみな言い換え。ホルモン剤フリーは殺処分後の処置に対してだけ該当すること。本編で明らかにされる「放し飼い」の定義には拍子抜けしてしまう。

 なお、上記の鶏の飼育法を含め、食肉産業の機構や農産物生産がもっとシビアかつ広範に示されているのが「フード・インク」。
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食品業界を支配しているのがたった数種類の穀物であること。それが家畜の飼料となり草食動物である牛の胃腸内で異変を引き起こし、O157の被害が拡大したこと。コーンから作られる高フルクトース・コーンシロップがあらゆる食品に行き渡っていること。食肉加工や作物収穫に貧困にあえぐ不法移民労働者の使用が構造化していること。硬派な作品を観たいならこちらもぜひ観てほしい。

 ほかに日常飲料の矛盾を突いた映画として「おいしいコーヒーの真実」がある。
Amazon.co.jp: おいしいコーヒーの真実を観る | Prime Video


 また、Netflixでは「食品産業に潜む腐敗」が網羅的で役に立つ。

www.netflix.com

なぜ一つの食材を契機として町に武装した人間が配置されるのか(「アボカド戦争」)、巨大資本がある土地の収奪と労働者の搾取をどれだけ構造化するか(「甘い汁」)、食をめぐる市場とは誰も無関係でいられないことを知らされる。


 以下の作品は未視聴だが、忘備録として挙げておく。

www.netflix.com

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 一般に流通している食品がどう作られ、どんなシステムで自分のもとへやってくるのか、その過程が遠くの誰かの生存基盤を掘り崩していないか。知ることはより良い善い生の第一歩である。


 

そこに不在を感じるから

 COVID-19感染対策の一環で、仕事や学業をはじめ生活においてオンラインによる交信はいまや不可欠となった。youtubeなどの動画配信、ZOOMやSkypeといった映像の同時通信、メールなどテキスト通信等、タイプはいろいろだが一つ留意が必要だと考えている。

 それはこれらのコミュニケーションは対面通話とは全くタイプがちがう手法であり、もたらされる感触も対面通話に期待するものの代替にはならないということだ。接触感染を避けるためになされるオンライン通信は、何らかのメディアを介したやりとりである。とくに映像をともなうやりとりは対象者の身体性が置き去りにされるか、対面通話なら問題なく把握し得たはずの身体性に変化を与えずにはいられない。

 

 かつて親友のアパートで見た奇妙な光景を思い出す。彼女は当時、半年以上同棲していた彼氏と離れて暮らし始めたところで、部屋にはちょうど彼の顔写真が一枚飾ってあった。ツーショットでなくいわば肖像写真のように胸から上を写したそれは、私には何だか遺影のように見えたのだ。彼女としてはそれまで同じ部屋にいたはずの彼を少しでも身近に感じたくて、手元に写真を置いただけだろう。だがその彼というのは同じ市内に住んでいて、学業や仕事で多忙をきわめるといえど会おうと思えば週イチペースで会える距離なのだった。

 

 イメージはつねに対象の不在を前提としている。愛する者の姿を写真にして手帳やペンダントに入れたりデスクに立てたり、携帯電話の待ち受け画面に登録したりすることは、たいてい物理的に離れた相手に対してする行為だ。勤務先のデスクや出先から家で待つ家族の画像を見る。単身赴任や遠距離恋愛ですぐには会えない相手をメディアを通したイメージで把握する。あるいはすでにこの世にいなくなった相手を写真や映像に納まった姿から思いをめぐらせる。相手が手を伸ばせば触れられる距離にいたり同じ空間を共有しているときに、相手を差し置いて実物ではない相手のイメージに見入ったりはおそらくしない。

 

 ビジネスやたんなる所用で関わる相手ではなく、特別親しい関係をもつ相手とはZOOM等を用いた映像の同時やりとりに違和感を抱く、という声がSNSに散在する。おそらくその原因は、イメージを介したオンライン交信が相手の不在をいっそう強烈に認識させるからではないか。ビジネスライクな関係ではない、特別な親しみや価値をもつ交わりであればこそ、そのやりとりに身体性が不在であることで何が欠けるのか、何を意識して工夫を付け加えるべきなのかを真剣に考え具現化していかなくてはならない。

 

 

シームレスであること

 

 埃というのは凹凸のあるところに溜まる。表面がデコボコで段差のある平面は汚れやすい。清潔を保つにはしょっちゅう気に留めて掃除しないといけない。

 

   この凹凸はモノが増えるとおのずとできやすい。またタスクをたくさん抱えた状態でもそうなりやすい。とりあえず取っておく、引き受ける、放置する、そして時間がたちモノとモノの間に埃が溜まっていく。

 

 モノが増えると手間も増える。食材でも衣類でも情報でも。「何がどれだけあってどんな状態か」を把握・記憶し、良好な状態を維持する労力が在庫管理の内実である。だから、試行錯誤のはてに各々自分に見合ったモノの適量とその維持コストを知って実践することが快適な生活のコツとなる。

 

 モノの量以外に一般家庭に多く、かつ皆が無自覚だと思われるのは、不要な段差だ。室内に敷物がやたら多くないか?椅子のキャスターはその段差に動きを制限される。局所ごとにマットを置くとつまずきに注意が必要で、スリッパの上げ下げや着脱も神経をつかう。アルミサッシ窓枠の部屋や隙間風だらけの木造家屋ですごす冬には、「部屋全体を暖める」という発想がないとコタツや火鉢や湯たんぽといったアイテムばかり増えていくことになる。

 食卓を彩るはずのランチョンマットもテーブル上に段差を作る。献立が多ければマットの中にそれらを収めるために食器の配置に気を配らなければならない。生地によっては汁椀の底がひっかかることもある。食卓に変な枠ができてしまい、まるで何らかの制限を課されたようだ。

 

 STAY HOMEであらためて自分の暮らす部屋の仕様に目が向いた人もいるだろう。加えて在宅で仕事をするなら、家の中をいかにストレスフリーな環境にするか、室内で自在に行動できるかが要となる。これは自尊心にも直結する。

 

 ネットはもともと距離という物理的制約を超えて人々をフラットにつなげ得るツールだ。人との間に余計な垣根を作らずにすむ使い方が可能だ。

 

 物理的にも心理的にもシームレスであること。内も外もそうすることが快適への第一歩である。

 

 だから、何かを取り除くことによって何もない空間を作り出す。

 何をするかよりも何をしないかを注意深く吟味する。

 行動しない。それよにって、空間を回復させ、潜在力を状態を整える。

 

 今回のコロナ禍では、人間の経済活動の停止が自然環境の回復に効果的なことが証明された。社会生活においてもこれまでの過剰をそぎ落とし、シンプルでより善い生存を実現していけるはずだ。