いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

そこに不在を感じるから

 COVID-19感染対策の一環で、仕事や学業をはじめ生活においてオンラインによる交信はいまや不可欠となった。youtubeなどの動画配信、ZOOMやSkypeといった映像の同時通信、メールなどテキスト通信等、タイプはいろいろだが一つ留意が必要だと考えている。

 それはこれらのコミュニケーションは対面通話とは全くタイプがちがう手法であり、もたらされる感触も対面通話に期待するものの代替にはならないということだ。接触感染を避けるためになされるオンライン通信は、何らかのメディアを介したやりとりである。とくに映像をともなうやりとりは対象者の身体性が置き去りにされるか、対面通話なら問題なく把握し得たはずの身体性に変化を与えずにはいられない。

 

 かつて親友のアパートで見た奇妙な光景を思い出す。彼女は当時、半年以上同棲していた彼氏と離れて暮らし始めたところで、部屋にはちょうど彼の顔写真が一枚飾ってあった。ツーショットでなくいわば肖像写真のように胸から上を写したそれは、私には何だか遺影のように見えたのだ。彼女としてはそれまで同じ部屋にいたはずの彼を少しでも身近に感じたくて、手元に写真を置いただけだろう。だがその彼というのは同じ市内に住んでいて、学業や仕事で多忙をきわめるといえど会おうと思えば週イチペースで会える距離なのだった。

 

 イメージはつねに対象の不在を前提としている。愛する者の姿を写真にして手帳やペンダントに入れたりデスクに立てたり、携帯電話の待ち受け画面に登録したりすることは、たいてい物理的に離れた相手に対してする行為だ。勤務先のデスクや出先から家で待つ家族の画像を見る。単身赴任や遠距離恋愛ですぐには会えない相手をメディアを通したイメージで把握する。あるいはすでにこの世にいなくなった相手を写真や映像に納まった姿から思いをめぐらせる。相手が手を伸ばせば触れられる距離にいたり同じ空間を共有しているときに、相手を差し置いて実物ではない相手のイメージに見入ったりはおそらくしない。

 

 ビジネスやたんなる所用で関わる相手ではなく、特別親しい関係をもつ相手とはZOOM等を用いた映像の同時やりとりに違和感を抱く、という声がSNSに散在する。おそらくその原因は、イメージを介したオンライン交信が相手の不在をいっそう強烈に認識させるからではないか。ビジネスライクな関係ではない、特別な親しみや価値をもつ交わりであればこそ、そのやりとりに身体性が不在であることで何が欠けるのか、何を意識して工夫を付け加えるべきなのかを真剣に考え具現化していかなくてはならない。