いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

明日はまだ誰も

このブログで何度か書いている父方の祖母は、実は今年で100歳を迎える。これまで記してきた歳は私の計算違いだった。聞けば祖母は大正12年生まれらしく、ならば今年で一世紀分生きたことになる。

この祖母を思い出すにつけ、考えさせられることが沢山ある。高齢で外出や日常動作がままならなくなったとき、身内以外に頼める制度やサービスを知っているか。身内以外の他人との社会的繋がりはあるか。配偶者を亡くして独りになっても、一人で楽しめる趣味や、自分から他者とつながろうとする行動力はあるか。経済的に余裕があって生活に困らずにいても、その膨大な時間を持て余さず残りの人生を楽しむだけの力量が持てるか。

祖母は手芸が好きで、家の中は自分で作った小物で溢れている。でも若い時から「捨てられない」人で一時期は屋内をゴミ屋敷同然にしてしまった。父をはじめ私たち親族は何度もモノの処分や掃除を試み、半ば実力行使で屋外の物置に移動させたモノも一部ある。祖母に限らず物の乏しい時代を経験した世代は、不用品を捨てるという発想がなく、何でもかんでも溜め込みがちな傾向があるという。

だが祖母も動揺していたのだろう。祖父が入退院を繰り返しやがて施設へ入居した頃、彼女にとっては自分の夫が加齢とともに自分の知らない側面を見せ始め、自分の手には負えなくなり、子どもたちからは叱責がとんでくる。祖母にしてみれば「今までどおり」を通したいだけなのに、高齢となった自分はだんだんと家事も身の回りのことも満足にできなくなっていく。歳をとったことによる変化―配偶者の、身内を含む周囲の、何より自分の心身の―に戸惑い、傷つき、困惑したにちがいない。

3.11で被災した数日後、ようやく四国の両親そして祖父母と電話がつながった時のことを思い出す。「明日がどうなるのか分からない」という感情が決して比喩でなく、そこかしこで生き残った人たちを浸し始めていた。マスメディアは「未曾有の」「想定外の」という言葉を頻繁に発し、どうやらこの災害が「千年に一度」の規模であり、これまで誰も経験したことのないタイプの困難であることがおぼろげに共有されつつあった。

そんな時、祖母は言った。

「おじいちゃんはね、今年はじめて94歳になるの。おばあちゃんもね、今年で88歳になるの。(いわきびも)初めて経験する地震で大変だろうけど、その歳を生きるのはみんな初めてだから。だから、大丈夫だよ」。

そんな大意だった。その年にちょうど30歳の節目の年齢に達する遠く離れた孫を、慰めようと祖母は懸命だったのだと思う。

考えてみれば、私たちは皆その歳を生きるのが初めてであるどころか、明日を生きることさえそうなのだ。何歳になると心身にこういう変化が起きやすく、社会的にはこれらのことが許されまた課され、ある役割を期待される―、自分より年上の先輩たちが生きた記録は歴史や文学などで知ることができ、だいたいの傾向をつかむことはできるけれど、いざ自分がその立場になったら、そして先人たちが誰も生きたことのない変化や困難の中を生きることになったら、やっぱり手探りの「ぶっつけ本番」で生きるしかないのだろう。

明日はまだ誰も生きたことがない。これは不安の根拠であると同時に希望の源でもある。一夜にして秩序が逆転したり、全財産を失ったり絶命したりする可能性とともに、これまで想像もつかなかった新たな途の始まりが拓けるかもしれない。同じ24時間のくり返しの中に、なんと不可知の、対極の価値がうごめいているのだろう。

高齢期もそうした一日の積み重ねの先端にある。身体や心の変化に気持ちが着いていけない戸惑いは思春期を迎えた子どもによくあると言われてきたが、これは高齢期にも当てはまるのではないだろうか。しかも生きた年数が少なく経験値の浅い思春期と違い、高齢期はそれまでの時間の積み重ねがあまりに膨大で、かつ個人差が大きい。

超高齢社会はたしかに人間の歴史上出現したことのないものだろう。しかしながら明日を知れぬ個々人の集まりが、老いて変わりゆく心身の変化にとまどい葛藤しながら一日ずつ進んでいく歩みに合わせて作られる制度や価値観が、人間の尊厳に裏打ちされたものであるようにと願う。

時間を忘れる

現在の仕事はとにかく〆切に追いまくられる生活で、そのために残業や休日出勤して間に合わせたり、明確な〆切の無いものは後回しで積もりに積もってどうしようコレと今月や来月を脅かす一因になっている。

 

そんな日々を過ごしていると、「余暇時間」にとにかく好きなこと、有意義に思えることを詰め込むようになる。実際そうしてきたが、時間には限りがあるのでとても土日(土曜出勤した日は日曜午後だけ)だけで消化できはしない。

 

夜遅く帰ってきて遅い夕飯をとり、弁当を詰め、風呂に入る前と上がった後にストーブ前でボーっとする。スマホSNSに見入っている。

 

どうしてこの「遊ぶでも休むでもない」(もちろん仕事や勉強や家事もしていない)時間をダラダラもうけてしまうのだろう。

 

一つには、仕事から帰ってまた手間のかかることに取り掛かる気が起きないせいだ。家事なんか丁寧にやろうとすればキリがない。特に冬は着る物も持ち物も多くなりがちだから、モノの手当てや始末だけで時間と手間を食う。

 

いま一つには、いつも期限や〆切に追われる仕事なので、時間区切りの制約から離れたい願望からくるのだろう。それは「限られた時間の中で程よく楽しみを見つける」ことではない。〆切があること、何時までに何をして、その次はこの順番でこれこれをして…という制約そのものからフリーになりたいのだろう。

 

「意識的に自由時間を確保してその範囲で(ほどほどに、「周囲に迷惑をかけずに」が暗に入り込んでいる)自分の好きなことを楽しむ」などという、いい子ちゃんな発想をまず蹴り飛ばしたい。

そんな心がけは劣悪企業の前では通用しないし、ひとの善意を侵食する。

 

自分にとって、自分の裁量や段取り、主導権その他、自己決定だけで物事を進められない状況ばかりに囲まれるのはかなりのストレスだ。

 

だから自分の、自分をとりまくあらゆる有限性から離れるか、突き放したい。

 

自分の無力さを忘れたい。

 

ひいてはそういうことなのだろう。

 

日常の、どんなに些細なことでも自分の工夫や主体的な働きかけで何かが変わり、手応えを味わうという経験は、きっと個々人の尊敬と密接に結びつくのだ。

 

子育てや介護など、他者のケアを中心に生活を回さなくてはならないことを担う人たちはその点偉大だと思う。その人たちにどうか自由と尊厳を。

 

どんなに制約の多い環境で生きる人でも、決して無力であってよいはずはないのだから。

 

 

 

 

体調不良の基準

2023年5月から、新型コロナウイルス感染症法上の分類が2類から5類へ変更されることになった。これに伴い、公的な感染対策は緩和される。市中感染はこれまで以上に増えるだろう。また発熱外来中心ではなく一般の医療機関でも患者を受け付けるとなれば、感染者とそうでない者の線引きは曖昧になり「病院を受診してコロナに罹患した」患者も出てくると思われる。

何より決定的なのは、感染患者は最大7日間、濃厚接触者は最大5日間と決められていた行動制限がなくなることだ。行動制限―、検査・隔離を徹底しないまま感染爆発の波をいくつか経験した国内のコロナ対策はそれ自体不十分なままでありながら、患者・濃厚接触者の外出・出勤・登校を禁止するルールはとりあえず患者に最低限の療養期間を保障した。が、5類移行後はそれも原則ではなくなる。

昨年の終わり、自分がコロナに感染してから痛感するのは世間が認める「体調不良」には何となくおぼろげながら変な線引きがあることだ。年明けに出勤・外出するようになってよく人から聞かれたのが「熱は何度くらい出たか」である。自分のばあいは検温して7.5度以上あったらすぐ解熱剤を飲んだせいか38度を上回ることはあまりなかった。それよりも酷かったのは喉の痛みである。

発熱の有無。コロナ禍のごく初期に「37.5度ルール」が押しつけられたせいか、行動を控えるかどうかの基準を発熱に置く考えはけっこう行き渡っている。しかし、かつてある冬には熱なしの肺炎が流行ったこともあり、コロナも元々肺炎として恐れられてきたのだから発熱が無くても「ただの風邪」ではないことを疑うのが妥当なはずだ。

たしか映画『思ひ出ぽろぽろ』に小学生の主人公が風邪をひき咳も出て明らかに具合が悪いのに「熱はないんでしょ」と学校へ登校させられる(体育の授業だけ見学)シーンがあった。ああ昭和だなあ…、とため息が出る思いだ。コロナ禍が終息せず、第8波であれだけの死者を出したにもかかわらず5類になどしたら、「体調不良のときは学校や会社に行かない」というやっと根付きはじめた規範も崩れ、上記のような「熱がなければ行く」慣習がまたぞろ復活するのではないか。劣悪企業なら「少々具合が悪くても来い」という文化がいまだのさばっているだろう。

そもそも体調不良の症状が心身のどこにどう現れるか、それは本当に人それぞれ異なるのだ。風邪でさえ喉に来る人、胃腸に来る人、高熱を出す人等々に分かれる。基礎疾患があれば、疲労や悪条件はまずその患部に症状が出る。自律神経に出る人もいれば、肩こりや関節痛など整形外科の領分に出る人もいる。脳、心臓疾患は突然来る。これといって前兆もなくいきなり不調をきたして運が悪ければ死に至る。そして身体ではなくメンタルをやられる人もいる。

悪条件が重なれば、暑さや寒さが原因で人は死ぬ。ここ10年来、気候変動の影響で国内の夏の暑さは尋常でなくなっている。2018年7月には愛知県の小学生が校外実習のあと熱中症で命を落とす事例があった。つい最近では、断熱性の不十分な日本家屋で高齢者が低体温症で亡くなった。

コロナ後遺症としてよく挙がる倦怠感も、数値化できないせいか「甘え」「気持ちの問題」で突き放されるケースがあるという。しかしそれは間違いで、数多く報告されている症状の一つであって、手当と治療の対象である。他にも後遺症には本人にしか分からない辛い症状が多い。

こうして振り返れば、命を脅かす不調の目安が発熱だけでないことは明らかだ。コロナが私たちに突きつけたのは社会的な対策と同時に、個々人の心身の多様さに目を向ける重要性かもしれない。熱などなくとも体調が良くなければ休む、この選択ができることこそが真の自己管理である。

ぬるま湯の時間のなかで

日曜の夕方は小雨でも傘を差して散歩に出る。残業や休日出勤に追われる生活をしていると、休日の終わりに何かわずかでも仕事とは無関係な、否何らかの「用事」ではない時間を意識して持たないととめどなく仕事や世間の常識に吞み込まれ包まれて潰されてしまいそうだからだ。

家から数分の水路に沿って山沿いの近くを歩く。柑橘畑の下や土手には真冬にも青草が生える。残菊も鮮やかで、水仙や菜の花が四分咲きで、山茶花が散る代わりに姫椿が咲き始めた。早い枝なら梅ももう蕾が開きかけている。ロウバイは満開だ。

北日本なら色のない世界に閉ざされてしまう季節にも、地元にはいつも彩りがある。知的文化的な情報・インフラは大都市圏に到底及ばないものの、旬の味を楽しむとか丁寧な日常の暮らしを送りたいなどの志向を持つ人なら十分満たされた生活が約束されるような気がする。

この穏やかな気候風土ゆえの危機感のなさ、ぬるま湯のような体制順応の意識に歯噛みすることは多々ある。そうして何とか暮らせてしまう、やり過ごせてしまう―、そのこと自体に危機感をおぼえなくもないが、では気候風土ゆえに命を脅かされる土地へ、ある季節を生き抜くために膨大な労力を割かないと暮らせない土地へ今さら移りたいかと言われればべつにそうは思わない。

山道の急勾配に建つ民家のあわいに、数年前オープンした高齢者入居施設が現れる。そこから道路を挟んだ向かいにはもっと古い大規模な介護老人保健施設がある。自宅のはす向かいに住んでいたご夫婦が高齢とご病気のためどこか施設へ入所された、と聞いたのがもう一年近く前である。近所がどんどん空き家になる。全人口の圧倒的多数が高齢者という、未曾有の高齢社会は地方も大都市も関係なく事実として着々と広まっている。

施設は静かで整然としていて、仄明るい。その穏やかな外観を見ながら私はかつての職場の上司との会話を思い出す。上司といっても自分より若い、当時三十代後半の人の呟きである。

―(自分の夢のための貯金とは別に)三千万くらい、両親二人を老後施設に入れるだけの資金を貯めて、親の面倒をみられたら、自分の仕事は終わり。

ちょうどこのブログを始めたときに就いた職場での話だ。この若さで親の老後まで見据えて貯金を作っているとは凄いなあと感心した。当時の私は残り120万程度となった借金(奨学金)の完済に躍起になっており、時給いくらの事務補助員では立ち行かないからとそこへ未経験異業種ながらそこへ転職したばかりだった。前より増えた手取りと賞与を想定すると、おそらくあと半年少しで完済できるだろう―、そんな試算を繰り返していた。

その状態で当時の仕事に必須だった自家用車の購入と、今思えば実行に移した途端蓄えはおそらく無理だろうと予測される一人暮らしまで念頭に置いていた。そこにこの話を聞いて、自分の抱えた負債と、自分の未来と、現在の仕事のために必須といえる車の購入のうえに、親の老後という懸念まで加わったかたちになり、自分の立ち位置が解らなくなった。とはいえどんなシミュレーションをしても、月々の返済額を変えても、毎月もらえる月給額に変わりはなく、1日が24時間なことも、問題が瞬時に解決しないことも変わらなかった。

借金の怖さは、その金額の多寡や金銭感覚が不明瞭になること以上に、自分の今後を考えるうえでの時間軸が決定的に狂いかねない点にある。借金はいわば未来の金や時間の先取りだが、負債を抱えた状態ではどんなに高額の収入や手元キャッシュがあっても純資産はごくわずかか、殆どないことが多い。それは自分の自由になる時間、未来に残された未知の時間についても言えることだ。少し先の、自分にとって未知で新たな未来に思いを巡らせるときも、負債がその選択肢を狭めてしまう。負債が与える懸念事項を含めたうえでの思考となるから、まっさらな何もない状態よりも複雑になる。なのに、時間は残酷に確実にひとを老いへと日々近づけていく。

奨学金という名のローン―借金であり負債である―を抱えて社会人生活を送る若い人はこの十数年で主流といえるほど増えた。正社員で働く人も、非正規の人も、働けない人もいる。経済成長を前提とした企業内福利厚生中心の脆弱な社会保障制度も、長時間の基幹労働に従事する正社員の夫と専業主婦もしくは家計補助労働の妻という家族モデルも、とっくの昔に実態に合わなくなっている。これまでどうにかギリギリで働き暮らし、生活を回してきた人たちが、目に見えるかたちで破綻しつつあるのがとりわけコロナ禍以降だろう。

どれほど科学技術が発展しても現段階では時間を巻き戻しや早送りはできない。残酷なほど、個人が制御することのできない時間のリズムや幅のなかで、誰もがその場所や年齢固有の景色を味わいながら淡々と生きてゆける条件整備や思想の土台を作らなければならない。

災害と嗜好品

休日にふと思いついてトーストにバターを塗って食べたらとても美味しかった。パンもバターも昨年から値上がりし、どの食料品も買うとき一瞬の迷いが生じる。それでも美味しいものの力は凄い。生活の満足度が違う。

食パンにはちょっとした思い出がある。東日本大震災の数週間後、セブンイレブンの棚にPBの5枚切食パンが並んでいるのを見つけて買った。深刻な物流麻痺があちこちに残り、自分の居住エリアでは電気は通ったもののガスの復旧は大半がまだで、所によっては断水も続いていた。

それでも、全国展開のコンビニで食パンが買えた!むろんパンなら火を通さずに食べられるが、これをトースターで焼いてマーガリンを縫って、コーヒーを淹れたらどんなに好いだろう。それまでも朝食はいつもパンだったが、コンビニのPBをあえて買うことはなかった。でも自室で焼いたトーストも粉を溶いただけのインスタントコーヒーも香り高く美味しくて、心の底から安堵を味わえた。それは物流回復の証であり、日常の回復と復興の兆しだった。

これともう一つ、忘れられない光景がある。ほぼ同じ時期、仙台市の中心街にあるチェーン店のカフェは満席だった。店は開いていたが時短営業で、物流の関係でメニューもごく限られたものしか提供していなかったのを覚えている。まだ水汲みやガソリン・灯油やカイロ、すぐ食べられる食品の買い出しに追われる時で、おそらく皆そのために街へ出てついでにここを見つけたのだと思う。大災害直後に必需品とは思われていなかった、砂糖やミルク入りの熱いドリンクを飲み、雑談する。ここに集う人たちが求めていたのはまぎれもない生活の潤いだった。

あれから12年経ち、国内の貧困問題はより深刻化した。大震災と原発事故が顕わにした問題群も、コロナ禍が浮き彫りにした課題も、「派遣村」の時代から変わらず、冷笑とより劣悪な条件を標準化する声に覆われようとしている。貧困問題が語られるとき、私が想起するのは上記二つのエピソードだ。憲法二十五条にある「健康で文化的な最低限度の生活」の「文化的」にはどれほど人としての尊厳への希求が込められていることだろう。

人はパンだけで生きるのではない。バラの花に象徴される人間の尊厳が不可欠であり、また人の世の約束事を超越する価値である御言葉も必要だろう。いつの時代も個人が―その生き方がどんなに拙く、態度が粗暴で、コミュ障で、外見が美しくなくとも―その生をただ生きることを凌ぐ価値などあるだろうか。その個人がたとえ多くを求めなくとも、幸福を望む言葉を持たなくとも、どの人にも生活の潤いが伴うように願う視座を決して棄ててはならない。

ダブルケア時代の選択

今年97歳になる父方の祖母が施設へ入所して7ヶ月になる。足腰は歳相応に弱ったものの、口達者で認知症などはなかった祖母は、毎朝夕に車で30分弱のところに住む娘(私にとっては叔母)に食事等の世話に来てもらいながら長く自分の家で一人暮らしをしていた。モノを捨てられない人で一時期自宅はゴミ屋敷同然となりかけたが、祖父が死んだあとは仏壇等を置く都合で少しはマシになり、趣味の手芸をやりながら静かに暮らしていた。

 ここに至るまで色々あった。父方祖父が103歳で亡くなる2年前まで身内は祖父の介護にかかりきりだった。祖父は最期の10年前から入退院を繰り返すようになり、その間叔母や私の母や父が交代で
病室に寝泊まりし、つきっきりで世話をしてきた。完全看護の病院で、である。

 病院での祖父はどんどん粗暴になっていった。相手が身内となるとそれはもうわがまま放題で、自力で食事をとれるのに叔母や母に口まで運んで食べさせるよう指示したり、点滴チューブを外そうと暴れたり、ちょっと孫の手に負えるふうではなかった。

 周囲からは「(完全看護の病院なのに)なんで泊まりこむの?」とよく聞かれた。介護職をしている母の妹も、私もそう思った。母も疑問だったと思うが、長男の嫁という立場で「そういう家風だから」と割り切って宿泊看護に務めていた。そして部外者が口を出せる雰囲気でもなかった。

そんな日々が断続的に何年も続き、母も叔母も何度か体調を崩していよいよ病室泊に疲れ切った頃、叔母の夫(私にとっては義理叔父)が祖父を施設へ入れる提案をしたのだった。義理叔父の勧めがなければ、看護する子世代が先に過労死しても何ら不思議はなかった。

施設へ入居後の祖父はとても穏やかだった。大規模で大勢のスタッフの目や手が行き届いており、また施設との相性がよかったこと、何より周囲が他人ばかりという環境で外聞を繕う意図もあったと思う。亡くなるまでの3ヶ月間は別の病院に入院したが、コロナ禍が始まったその時期には家族が病室に泊まるなど固く禁じられた。

なぜあんな介護が続いたのだろうか。今思うと叔母は、実親の介護に「全集中」できる条件が奇跡的に整ってしまったのだ。叔母夫婦はDINKSで、二人とも定年まで正規職で働き退職金は潤沢にもらうことができた。夫の両親は早くに(祖父がまだ元気なうちに)他界し、孫育てもなく、たまに通院する叔父と二人暮らしで、退職後は時間のほぼすべてを元々親密だった実母の介護に注ぐことが可能だった。

こうした条件は誰にでも整うものではない。介護には時間、お金、体力、人員がふんだんに必要だが、大抵の人はこのどれかが不足して早々に何らかの形で外部や制度に助けを求めるだろう。また実親に介護が必要になる頃は、結婚していれば義理の親もまた介護を必要としたり、そもそも介護する側も歳なので自分か配偶者に体調不安を抱えていたりする。しかし叔母は当時元気だったし、彼女の夫である義理叔父も義両親である祖父母に理解が厚く、妻が老後の時間の大半を実親の介護に捧げることを妨げなかった。

育児と介護はよく「ケア」という括りのもとに同じ再生産活動の次元で語られる。もちろん、食事やトイレの介助など一つ一つの行為の中身は同じかもしれない。しかしその行為が向かう時間のベクトルは全く違う。

子どもは成長するにしたがって徐々に親の手を離れ、親以外の人と関係を築き、社会に参加していく。たとえ重い障害があっても身内以外の人とつながり、福祉や医療の制度や技術を使って自らの人生を築くのが理想だろう。しかし高齢者は、少なくとも私の父方祖父母は、実子とくに娘だけを頼り、依存し、医療や福祉の人を含めて身内以外の者との交わりを避けた。それは子どもが社会化していく過程とちょうど正反対の方向へ向かっていたように思う。

 また育児も介護も経済的に大きな負担を伴うとはいえ、子どもに対しては未来を考慮するゆえに出費を抑えることがある。たとえば成長期の子どもにぴったりの服や靴を見つけてもすぐサイズアウトすると予測して買わない、子の喜ぶものを買ってやりたいが半年後進学費用がかかるから程々に抑える判断が該当する。これに対して高齢者の場合、一見限られた期間や「今」に際限なく金銭や労力を注ぎ込む結果になってしまうこともある。なぜなら高齢者の「今」や「その時々」とはそのまま「この世に居られる間」を指すからだ。そしてこれは親子関係が良好なケースこそ注意が必要かもしれない。

樋口了一「手紙~親愛なる子供たちへ~」に

「あなたの人生の始まりに私がしっかりと付き添ったように
私の人生の終わりに少しだけ付き添ってほしい」

という歌詞がある。しかし今、介護が「少しだけ」では終わらないケースもいくらでもある。それどころか20年、30年と、新生児が成人して次の子どもが産まれるまでに相当する期間を、成長というよりはむしろ退行を、向上というよりも「劣化」を見守るかたちで寄り添わなければならないのだ。

さらに晩婚化・晩産化が進めば育児と介護が同時期に重なることは十分あり得る。そんな時、親をとるか子をとるかという究極の選択を迫られるケースもあるのではないか。そうして子ではなく親つまり高齢世代を取ればその孫や孫世代がヤングケアラーと化していく―、現行の年金をふくめた社会保障制度はそんな構造になっている。

ところでこの介護期間中、父の弟にあたる叔父はわりあい祖父母宅の近くに住んでいるにもかかわらず、介護への関わりは希薄だった。この時期彼らには近くに住む娘に4人の孫が次々生まれ、その世話をしていたせいもあってか、介護参加は義理叔母がごくたまに叔母と交代で病室に泊まる程度だった。叔父夫婦が介護にノータッチだったのは、祖父母に無関心だったからというよりも、目を離すと一瞬で死ぬ可能性がある乳児の世話を優先しただけなのかもしれない。入院中とはいえ認知症でもなく看護者の少しのサポートがあれば自力で車椅子から乗り降りできて食事も自分でとれる祖父のことは、完全看護の病院に任せられたはずなのだから。

これから高齢期を迎える私たちは、せめて感情くらい身内のケアに頼らずにいられないものだろうか。制度や資源分配の整備は政治的行動で変えられるとして、晩年期の社会化とは、社会と繋がるとはどういう手段や形態があるのかを、手探りながら各人が求めていかなくてはならない。

逆行する時間を生きる―『港町』に交差する生と死―

もう7年ほど空家となった隣家の庭は今夏も勢いよく緑に包まれた。ムクゲが咲き、夏草が茂り、今はそれも終わって真ん中に生えたレモンの木は黄色い実をつけている。誰も獲らないこのレモンは、たしか昨年も3~4月頃にその数か月前から果実をたわわに実らせたまま花を咲かせていた。

こういう木は近所でもよく見かける。家庭で栽培する果樹や野菜が十分収穫し終わらないうちに、実や種をつけたまま枯れ、その株が新たな芽を吹き次の実が生るのだ。
こうした植物の世界ではたして命の循環はうまくいっているのだろうか。こうした庭木を見ると、世代交代が機能しなくなった日本の高齢社会が想起される。

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想田和弘監督のドキュメンタリー映画『港町』が映すのは、岡山県瀬戸内市牛窓地区の海辺に暮らす住民と近隣の生き物たちの生である。とりわけ人々にとって大切な生業である漁業と、獲れた魚介をさばき売り、買い手のもとに届くまでの様子がとても丁寧かつ仔細に撮影されている。

地区は高齢化が進み、若い働き手はごくわずかのようだ。鮮魚店でさばいた魚を軽トラに積み、険しい坂道を運転し巡回販売するはつらつとした女性は後期高齢者である。作品の冒頭に出てくる船上で魚を網に掛ける男性も、漁は採算がとれないのでやっていけないという内容のことをもらす。市場の競りも少人数で淡々と進む。伝統的な生活様式はたしかに脈々と受け継がれてきたが、今はとても小規模となっている。

このような暮らしの中でたびたび意識を向けられるのは過去の時間である。高台の墓地で掃除をする女性の話はそれを象徴するかのようだ。毎年各家が代々の墓に菊花を生けて祖先を祭る「菊並べ」の時期にお墓の手入れをしながら、女性は自らの遠い先祖の話をする。高地から穏やかに霞む瀬戸内海の彼方を見渡しながら思いを馳せるのは、祖先の伝承や昔の暮らし、すなわち過去である。

一方、こうした人間たちと対照的なのは猫たちだ。作品中には頻繁に野良猫が、それも親子が映っている。ある猫は人が獲った小魚をかすめ取り、まだ動くそれを草陰で子猫に与える。また、移住してきたご夫婦は引越し当初から付近の野良猫に餌を与えるうちに「一気に子ども産んで殖えちゃった」と語る。映画は給餌の様子も映す。集落の魚屋でもらったアラを大鍋で煮込んでぶつ切りにし、冷や飯にかける。凄まじい勢いで餌に喰らいつく猫たちの旺盛な食欲と繁殖力が否応なく伝わってくる。

猫たちは魚によって新たな命を養い殖やす。魚は子猫の餌となり、未来へと命を繋ぐ糧として機能している。対して人間は魚を漁り、さばき、商い、干物や料理を作っても届け先は高齢者である。人間において魚は死に近づいた生命、すなわち過去へ連なる存在のもとへベクトルが向かっている。

しかし猫たちの繁殖は幸福に繋がるとは言えない。なぜなら彼らは全て人間に飼育されてはいない「野良ちゃん」だからである。野生動物でない彼らに路上は過酷な環境である。生後6か月にして繁殖可能な身体に成長し年に3回も出産可能という猫の繁殖スピードは、いずれ住民の給餌キャパを上回るだろう。猫たちが繋ごうとする未来の命に対して十分な受け皿はおそらくない。

作品の終盤、本編の案内役ともいえる女性がさばいて干した魚を知人に届けるためにカゴに入れて歩く。途中であちこちの家を指して「ここも空き家」とつぶやく。届け先のお宅は留守だった。その近隣もいずれ空き家となるだろう。魚は人間において徐々に届け先を失い、猫においては必ずしも幸福な未来に繋がらない命の糧となっている中、漁と商いの様子はただ食物を媒介に循環する命の厳かな過程を浮き彫りにする。

繁殖し命のサイクルを作る猫と、高齢化とともに共同体の規模とサイクルを縮小してゆく人間との鮮やかな対比を通して、カメラは生命連鎖の逆行をたどる。来たる命と逝く命が交差する場こそが港町なのだ。「生きて、死ぬ。死んで、生きる。」という本編のキャッチコピーはここに結実する。

さらに彼女は自ら情愛を注いできた「子どもを奪われた」経験を吐露する。彼女の叫びは社会的排除を被った者の、ひいては生命連鎖のループから外された者の叫びともいえる。カメラがそうしてたどり着くのは、食物をとおした生命の循環網から外れ/外されてゆく人間の姿であり、高齢社会の日本の縮図である。

魚のゆくえを軸に牛窓に住まう人々と猫の様子を映した本編は、生命の循環網および連鎖から外れた命の克明な描写といえるだろう。遠い祖先や過去へ向かう心のベクトルの下に人々は逆行する時間を生きている。未来の命に対する受け皿を失った土地で、海だけが変わらず波を寄せ返し、生死の行き交うこの世の時間を刻み続ける。

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