いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

ダブルケア時代の選択

今年97歳になる父方の祖母が施設へ入所して7ヶ月になる。足腰は歳相応に弱ったものの、口達者で認知症などはなかった祖母は、毎朝夕に車で30分弱のところに住む娘(私にとっては叔母)に食事等の世話に来てもらいながら長く自分の家で一人暮らしをしていた。モノを捨てられない人で一時期自宅はゴミ屋敷同然となりかけたが、祖父が死んだあとは仏壇等を置く都合で少しはマシになり、趣味の手芸をやりながら静かに暮らしていた。

 ここに至るまで色々あった。父方祖父が103歳で亡くなる2年前まで身内は祖父の介護にかかりきりだった。祖父は最期の10年前から入退院を繰り返すようになり、その間叔母や私の母や父が交代で
病室に寝泊まりし、つきっきりで世話をしてきた。完全看護の病院で、である。

 病院での祖父はどんどん粗暴になっていった。相手が身内となるとそれはもうわがまま放題で、自力で食事をとれるのに叔母や母に口まで運んで食べさせるよう指示したり、点滴チューブを外そうと暴れたり、ちょっと孫の手に負えるふうではなかった。

 周囲からは「(完全看護の病院なのに)なんで泊まりこむの?」とよく聞かれた。介護職をしている母の妹も、私もそう思った。母も疑問だったと思うが、長男の嫁という立場で「そういう家風だから」と割り切って宿泊看護に務めていた。そして部外者が口を出せる雰囲気でもなかった。

そんな日々が断続的に何年も続き、母も叔母も何度か体調を崩していよいよ病室泊に疲れ切った頃、叔母の夫(私にとっては義理叔父)が祖父を施設へ入れる提案をしたのだった。義理叔父の勧めがなければ、看護する子世代が先に過労死しても何ら不思議はなかった。

施設へ入居後の祖父はとても穏やかだった。大規模で大勢のスタッフの目や手が行き届いており、また施設との相性がよかったこと、何より周囲が他人ばかりという環境で外聞を繕う意図もあったと思う。亡くなるまでの3ヶ月間は別の病院に入院したが、コロナ禍が始まったその時期には家族が病室に泊まるなど固く禁じられた。

なぜあんな介護が続いたのだろうか。今思うと叔母は、実親の介護に「全集中」できる条件が奇跡的に整ってしまったのだ。叔母夫婦はDINKSで、二人とも定年まで正規職で働き退職金は潤沢にもらうことができた。夫の両親は早くに(祖父がまだ元気なうちに)他界し、孫育てもなく、たまに通院する叔父と二人暮らしで、退職後は時間のほぼすべてを元々親密だった実母の介護に注ぐことが可能だった。

こうした条件は誰にでも整うものではない。介護には時間、お金、体力、人員がふんだんに必要だが、大抵の人はこのどれかが不足して早々に何らかの形で外部や制度に助けを求めるだろう。また実親に介護が必要になる頃は、結婚していれば義理の親もまた介護を必要としたり、そもそも介護する側も歳なので自分か配偶者に体調不安を抱えていたりする。しかし叔母は当時元気だったし、彼女の夫である義理叔父も義両親である祖父母に理解が厚く、妻が老後の時間の大半を実親の介護に捧げることを妨げなかった。

育児と介護はよく「ケア」という括りのもとに同じ再生産活動の次元で語られる。もちろん、食事やトイレの介助など一つ一つの行為の中身は同じかもしれない。しかしその行為が向かう時間のベクトルは全く違う。

子どもは成長するにしたがって徐々に親の手を離れ、親以外の人と関係を築き、社会に参加していく。たとえ重い障害があっても身内以外の人とつながり、福祉や医療の制度や技術を使って自らの人生を築くのが理想だろう。しかし高齢者は、少なくとも私の父方祖父母は、実子とくに娘だけを頼り、依存し、医療や福祉の人を含めて身内以外の者との交わりを避けた。それは子どもが社会化していく過程とちょうど正反対の方向へ向かっていたように思う。

 また育児も介護も経済的に大きな負担を伴うとはいえ、子どもに対しては未来を考慮するゆえに出費を抑えることがある。たとえば成長期の子どもにぴったりの服や靴を見つけてもすぐサイズアウトすると予測して買わない、子の喜ぶものを買ってやりたいが半年後進学費用がかかるから程々に抑える判断が該当する。これに対して高齢者の場合、一見限られた期間や「今」に際限なく金銭や労力を注ぎ込む結果になってしまうこともある。なぜなら高齢者の「今」や「その時々」とはそのまま「この世に居られる間」を指すからだ。そしてこれは親子関係が良好なケースこそ注意が必要かもしれない。

樋口了一「手紙~親愛なる子供たちへ~」に

「あなたの人生の始まりに私がしっかりと付き添ったように
私の人生の終わりに少しだけ付き添ってほしい」

という歌詞がある。しかし今、介護が「少しだけ」では終わらないケースもいくらでもある。それどころか20年、30年と、新生児が成人して次の子どもが産まれるまでに相当する期間を、成長というよりはむしろ退行を、向上というよりも「劣化」を見守るかたちで寄り添わなければならないのだ。

さらに晩婚化・晩産化が進めば育児と介護が同時期に重なることは十分あり得る。そんな時、親をとるか子をとるかという究極の選択を迫られるケースもあるのではないか。そうして子ではなく親つまり高齢世代を取ればその孫や孫世代がヤングケアラーと化していく―、現行の年金をふくめた社会保障制度はそんな構造になっている。

ところでこの介護期間中、父の弟にあたる叔父はわりあい祖父母宅の近くに住んでいるにもかかわらず、介護への関わりは希薄だった。この時期彼らには近くに住む娘に4人の孫が次々生まれ、その世話をしていたせいもあってか、介護参加は義理叔母がごくたまに叔母と交代で病室に泊まる程度だった。叔父夫婦が介護にノータッチだったのは、祖父母に無関心だったからというよりも、目を離すと一瞬で死ぬ可能性がある乳児の世話を優先しただけなのかもしれない。入院中とはいえ認知症でもなく看護者の少しのサポートがあれば自力で車椅子から乗り降りできて食事も自分でとれる祖父のことは、完全看護の病院に任せられたはずなのだから。

これから高齢期を迎える私たちは、せめて感情くらい身内のケアに頼らずにいられないものだろうか。制度や資源分配の整備は政治的行動で変えられるとして、晩年期の社会化とは、社会と繋がるとはどういう手段や形態があるのかを、手探りながら各人が求めていかなくてはならない。