いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

私の導線(2)

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祝福を。
写真は昨夕の散歩風景。梅雨入りしたのにろくに雨が降らず、例年と比べて全然六月らしくない体感である。そんな中目に入る光景は完全に夏のもので、この付近ではなんともう庭先で花火をやっているお宅があった。傍に犬が寝そべり、横の畑では葉物の収穫と草むしりをする人がいる。ラッパが垂れ下がったようなダツラの花、赤や橙のランタナ、青い実をつけ始めたぶどう棚。どれも平和と豊かさの象徴に見える。

実は、この二週間ほどわが家はあまり平穏でなかった。もうすぐ入院期間が切れる、父方の祖父は施設への入所が決まった。この数年付ききりで介護してきた叔母が体調を崩し、退院後自宅へ戻ってももう以前のようには暮らせないと判断したのだ。それはよいとして、私と母がなんかモヤモヤするのは父方の親戚ー父とそのきょうだいたちーのコミュニケーション不足というか、県内に住む身内なのに親の介護の肝心なことについてハッキリした話し合いが持たれず、いわばナアナアで叔母の一手に負担とイニシアが移り、その叔母が倒れて今回の結果という、何だかなあ…というもの。

父はかなり無口な人で、外面は良いのだが家族に対するコミュニケーションの方法を知らない。団塊世代には普通のことかもしれないが、家の者にはろくに挨拶を返さないし、興味のない話には相槌も打たない。が、家事はよくする・できるほうで、もとが几帳面で器用な人だからか、退職して毎日が日曜日となってからは介護以外は家にいて、家事をやることが多い。が、それは母にしてみれば全部自分ができること・してきたことであり、気が向いた時だけ自分のやり方で手を出して、母自身の時間の段取りを壊すのはやめてほしい、という憤りがあるらしい。

家庭における、自分の導線。どんなに忙しくても、やることを自分で決めて自分の段取りと順序と方法でこなせるのなら、それは自ら家庭をマネジメントしているという自負となり、充実感を持てるだろう。が、それを同居人のせいでできないとしたら、フィジカルよりメンタル面でのストレスはかなり大きい。

父は、モノを溜め込む人だ。これもどこの家でもそうなのだろうが、空き箱からレシートから広告からDMから、とにかく不用品を捨てるという発想がなくて、どこにでも置きっ放し。で、なまじ几帳面な人なのでモノじたいは整って置いてあるように見えるが、必要なモノがどこだか分からず結局探し、あろうことか見つからないのを家人のせいにする。その件で先週は母がブチ切れ、実家は何となく嫌なムードが漂い、地元で家以外の居場所を一つでも増やす重要性を痛感する。

導線を妨げられる不快さ。私もたびたび家では経験する。疲れて帰宅し、水を飲もう珈琲を淹れようと台所へ向かうも、流しには父が立っていて、今やらなくてもよい漬物づくりなどやっている。声をかけて蛇口を回し、コップをとるも、それだけでもうなんか自分の流れを邪魔されている気がして、自室へ入ると疲弊と嫌気が押し寄せる。

家でも、職場でも、街でも、どんな局面であれ自分の人生は自分で舵を執っている感覚が必要だ。どこで何をしていても、地元ではこれが味わいにくい。乱暴な言い方だが、ぬるま湯でどこか平和ボケした空気の漂うこの土地で、わずかな間隙でも自分の主導権を入れておくこと。でないともしもの災害や人生の危機で生き延びることは難しいのでは、と思うのです。