いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

災害と嗜好品

休日にふと思いついてトーストにバターを塗って食べたらとても美味しかった。パンもバターも昨年から値上がりし、どの食料品も買うとき一瞬の迷いが生じる。それでも美味しいものの力は凄い。生活の満足度が違う。

食パンにはちょっとした思い出がある。東日本大震災の数週間後、セブンイレブンの棚にPBの5枚切食パンが並んでいるのを見つけて買った。深刻な物流麻痺があちこちに残り、自分の居住エリアでは電気は通ったもののガスの復旧は大半がまだで、所によっては断水も続いていた。

それでも、全国展開のコンビニで食パンが買えた!むろんパンなら火を通さずに食べられるが、これをトースターで焼いてマーガリンを縫って、コーヒーを淹れたらどんなに好いだろう。それまでも朝食はいつもパンだったが、コンビニのPBをあえて買うことはなかった。でも自室で焼いたトーストも粉を溶いただけのインスタントコーヒーも香り高く美味しくて、心の底から安堵を味わえた。それは物流回復の証であり、日常の回復と復興の兆しだった。

これともう一つ、忘れられない光景がある。ほぼ同じ時期、仙台市の中心街にあるチェーン店のカフェは満席だった。店は開いていたが時短営業で、物流の関係でメニューもごく限られたものしか提供していなかったのを覚えている。まだ水汲みやガソリン・灯油やカイロ、すぐ食べられる食品の買い出しに追われる時で、おそらく皆そのために街へ出てついでにここを見つけたのだと思う。大災害直後に必需品とは思われていなかった、砂糖やミルク入りの熱いドリンクを飲み、雑談する。ここに集う人たちが求めていたのはまぎれもない生活の潤いだった。

あれから12年経ち、国内の貧困問題はより深刻化した。大震災と原発事故が顕わにした問題群も、コロナ禍が浮き彫りにした課題も、「派遣村」の時代から変わらず、冷笑とより劣悪な条件を標準化する声に覆われようとしている。貧困問題が語られるとき、私が想起するのは上記二つのエピソードだ。憲法二十五条にある「健康で文化的な最低限度の生活」の「文化的」にはどれほど人としての尊厳への希求が込められていることだろう。

人はパンだけで生きるのではない。バラの花に象徴される人間の尊厳が不可欠であり、また人の世の約束事を超越する価値である御言葉も必要だろう。いつの時代も個人が―その生き方がどんなに拙く、態度が粗暴で、コミュ障で、外見が美しくなくとも―その生をただ生きることを凌ぐ価値などあるだろうか。その個人がたとえ多くを求めなくとも、幸福を望む言葉を持たなくとも、どの人にも生活の潤いが伴うように願う視座を決して棄ててはならない。