いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

老後の下地をつくる

 

 今年97歳になる父方の祖母は、昨年春に祖父を亡くしてから持ち家に一人で暮らしている。数年前から急速に足腰が弱ってはきたものの、市内にする叔母が毎日訪ねて朝食を買い届け、服薬管理をし、また週末は私の両親がおかずを作り届け、どうにか一人で過ごせている。

 どこのお宅もそうだろうが、この祖母も家の中にすさまじい量のモノを溜め込んでいて、祖父が亡くなる二週間前までは室内はほぼゴミ屋敷と化していた。数年がかりで叔母と父が片づけ掃除し、不用品処分を折を見てはコツコツ続けていたが、何しろ祖母は菓子・総菜のパッケージにいたるまで「捨てる」という発想をもたないうえに掃除を拒み、不用品を捨てようとすると怒り、ちまちましたペースではとても間に合わず、祖父の葬儀を出す直前にモノの断捨離を強行してやっと今数人が座れるスペースが確保できている。

 

 その祖母が身内の顔さえ見れば言い募るぼやきが「一人はつまらん、寂しい」なのだ。祖父が入退院を繰り返し施設で暮らすようになってから、彼女はずっと彼女の自宅で一人暮らしだった。でも叔母が毎朝夕訪ねては食事と服薬管理をし、買い物や病院に連れていき、手続き関係もすべて代行してくれていた。夫である叔父との時間も犠牲にしながら、である。彼女の子は皆県内居住だがそれぞれ家庭をもち、叔父夫婦には孫の世話もある。彼女の要望は身内が頻繁に自分を訪ねて世間話をし自分の嘆きを聞き、孫たちも同様にしてくれることらしい。が、それまで足の踏み場もなかった家でそんなことは不可能であり、孫たちも自分の家庭や仕事がある。かかりつけの整形外科で祖母の話を聞いた医師による「そんな方のためにデイサービスがありますよ」との提案や、介護職をやっている義理叔母の「うちの勤務先のデイサービスへ来たら?」という話には一切耳を貸さない彼女にどんな対策があるのだろう。

 

 加えて年金や保険関係の手続きにも無頓着になり、祖父の他界後に本来なら妻である彼女自身がすべき委任や手続きをぜんぶ子どもたちに投げてしまった。認知症なし、口達者であるにもかかわらず署名さえ「知らん、わからん」で当初は拒否の一手だった。(もともと子どもたちで何をどうするか分担と手順を決めていたので、適当になだめて手続きは遂行できたが。)

 

 そして、加齢であちこち衰えてからは娯楽の幅がかなり限定されてきた。若い頃から手芸が好きで、折り紙や布人形、編み物、広告紙を折って棒状にして編んだ籠や空き箱を利用した物入れなど作っては人にやったり家に飾ったりしていた祖母だが、今の視力と指先の動きはそれらの作業にこたえられないらしい。家じゅうにモノがあふれ、モノを捨てたがらない原因の一つにこの手芸制作がやりたい気持ちがあるのかもしれない。

 

 現在の祖母の要求はだいたいこうだ。

 

 デイサービスで気心の知れない他人と神経使いながら過ごすのはイヤ!

 住み慣れた家を離れるのもイヤ!

 家のモノを減らされたり置き場を変えられることもイヤ!

 たとえ便利でも新しいこと覚えるのはイヤ!

 自分が慣れ親しんだやり方でしか生活を回したくない!

 難しいことはしんどいからやりたくない!

 

 身の回りのことは身内に、とりわけ実の娘にやってほしい!

 なぜなら気兼ねがいらないからー。

 

言い分をまとめるとそんな感じになる。

 

 気持ちはわからんでもない。自分も新しいことに慣れるのは時間がかかるほうで、あと一ヶ月半で終わる現職も異業種未経験だったから初めての作業の連続で、「この歳でコレをやって何になるの?」という徒労感の払拭がいまもつきまとう。コロナ災害でリモートワーク他通信機器を用いたコミュニケーションスキルが労働や生活に不可欠となり、しかもツールやソフトは日々進歩するので自身の意識やスキルの更新がいたちごっこ...。

 

 でも、以前書いたように現代の「老後」はほぼ1世代分に匹敵する長さの時間であり、自分がどう過ごしたいかを自分であるていど明確に思い描いておく必要がある。

 

iwakibio.hatenablog.com

 

  仕事や家庭以外のつながりを、何でもいいから意識的に作ること。

テクノロジーに頼れば、物理的に移動が難しくなっても対面でなくとも他者と交信できること。

たやすいものしか受けつけないという姿勢をやめて、多少負荷がかかってしんどくても自分が有意義だと思うことをやり続けること。

 

 デジタルデバイスの使用、インターネットスキル、ソーシャルメディアへの参加、居住地以外の地域や国外に目を向けること、日本語以外の言語で情報を取ること、その他価値観のアップデートー。これらは時代を生き抜く術という以上に、今では快適な老後の下地作りなのだなあ、と自戒をこめて思う最近である。