いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

時間を忘れる

現在の仕事はとにかく〆切に追いまくられる生活で、そのために残業や休日出勤して間に合わせたり、明確な〆切の無いものは後回しで積もりに積もってどうしようコレと今月や来月を脅かす一因になっている。

 

そんな日々を過ごしていると、「余暇時間」にとにかく好きなこと、有意義に思えることを詰め込むようになる。実際そうしてきたが、時間には限りがあるのでとても土日(土曜出勤した日は日曜午後だけ)だけで消化できはしない。

 

夜遅く帰ってきて遅い夕飯をとり、弁当を詰め、風呂に入る前と上がった後にストーブ前でボーっとする。スマホSNSに見入っている。

 

どうしてこの「遊ぶでも休むでもない」(もちろん仕事や勉強や家事もしていない)時間をダラダラもうけてしまうのだろう。

 

一つには、仕事から帰ってまた手間のかかることに取り掛かる気が起きないせいだ。家事なんか丁寧にやろうとすればキリがない。特に冬は着る物も持ち物も多くなりがちだから、モノの手当てや始末だけで時間と手間を食う。

 

いま一つには、いつも期限や〆切に追われる仕事なので、時間区切りの制約から離れたい願望からくるのだろう。それは「限られた時間の中で程よく楽しみを見つける」ことではない。〆切があること、何時までに何をして、その次はこの順番でこれこれをして…という制約そのものからフリーになりたいのだろう。

 

「意識的に自由時間を確保してその範囲で(ほどほどに、「周囲に迷惑をかけずに」が暗に入り込んでいる)自分の好きなことを楽しむ」などという、いい子ちゃんな発想をまず蹴り飛ばしたい。

そんな心がけは劣悪企業の前では通用しないし、ひとの善意を侵食する。

 

自分にとって、自分の裁量や段取り、主導権その他、自己決定だけで物事を進められない状況ばかりに囲まれるのはかなりのストレスだ。

 

だから自分の、自分をとりまくあらゆる有限性から離れるか、突き放したい。

 

自分の無力さを忘れたい。

 

ひいてはそういうことなのだろう。

 

日常の、どんなに些細なことでも自分の工夫や主体的な働きかけで何かが変わり、手応えを味わうという経験は、きっと個々人の尊敬と密接に結びつくのだ。

 

子育てや介護など、他者のケアを中心に生活を回さなくてはならないことを担う人たちはその点偉大だと思う。その人たちにどうか自由と尊厳を。

 

どんなに制約の多い環境で生きる人でも、決して無力であってよいはずはないのだから。