いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

マイナスをゼロにする

 外出自粛や在宅勤務、または自宅待機で家にいる時間が増えた人も多いだろう。そんな中、家事の何が辛く、煩わしいのかに気づいた人もいるはずだ。

 

 「籠城生活も楽しい」と言える人はたいてい自分の時間が増えたか、自分の裁量で時間の使い方を決められる人だと思う。ふだん読めない本がゆっくり読める、漫画の一気読みや映画見放題ができる、もともと料理好き、通勤時間がなくなった分他のことに時間が使えるという人たち。

 

 一方、家で家族の世話をしなければならない人、それもふだんは職場か学校に行っている者たちが家にいるせいでお世話の手間が倍加する人たちにとって、家にこもることは負担と犠牲の増加を意味している。

 あるいは同居が不適切な相手(たとえば虐待やDVの加害者)と一緒に居なければならなくなった人たちにとって家は安らげる場ではない。自分の時間どころか自分の身の安全を守るために全ての時間が不安と緊張に満ちているだろう。

 

 自分にとって安心安全な居場所があること、時間の使い方や行動の段取りがある程度自分で決められること。避難所で過ごした経験を振り返っても、快適な屋内生活を送るうえでこの2つは不可欠な条件だ。

 

 その上で、家事の煩わしさが何で構成されているかというと、その大半が「マイナスをゼロに戻す作業」とでも言うべき修復や「後片づけ」、補充、リセット、リカバリーで埋め尽くされているゆえんではないかと思う。

 

 たとえば料理が得意でも流しや台所をそれができる状態までセッティングしなければならない。流しやガス台に前回の食事で使った食器や調理具が汚れたまま放置してあってはいけない。流しのゴミ袋が一杯なら口を結んで別のゴミタンクに移し、新たな袋をセットする。その袋だの洗剤だのが切れてたら、買い置き分を開けて補充する。台所仕事は名前の無い家事でいっぱいだ。

 

 家事は、積んでは崩す、賽の河原の石積みのようだ。

 

 家事は何かを新しく生み出すいうよりは、何かをただ一定水準の状態に維持するためにひたすら手と身体と神経を集中させる行為と捉えられている。そのせいか、きちんと出来ていれば誰も何も言わず気づかずだが、出来ていなければたちまち目につきQOLを左右する。

 

 何かを維持することの労力と大変さに、「生産性」ばかりまくし立てる人間はどれだけ気づいているだろう。資本主義経済が地金を剥き出しにすればするほど、労働者個々人や原料となる自然およびそれを加工する人たちへの「お世話」(乱獲や乱開発、搾取の見直しを含めた維持管理)は誰が担うのかを問わずにはいられない。

 

 家庭は凄く煩わしい一面を持つが、家庭以外に家事やケア役割を外部化・共同化していくならば、生活や事業においてメンテナンスがどういう性質の行為なのかを細部まで吟味し意識化する必要があるだろう。