いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

明日はまだ誰も

このブログで何度か書いている父方の祖母は、実は今年で100歳を迎える。これまで記してきた歳は私の計算違いだった。聞けば祖母は大正12年生まれらしく、ならば今年で一世紀分生きたことになる。

この祖母を思い出すにつけ、考えさせられることが沢山ある。高齢で外出や日常動作がままならなくなったとき、身内以外に頼める制度やサービスを知っているか。身内以外の他人との社会的繋がりはあるか。配偶者を亡くして独りになっても、一人で楽しめる趣味や、自分から他者とつながろうとする行動力はあるか。経済的に余裕があって生活に困らずにいても、その膨大な時間を持て余さず残りの人生を楽しむだけの力量が持てるか。

祖母は手芸が好きで、家の中は自分で作った小物で溢れている。でも若い時から「捨てられない」人で一時期は屋内をゴミ屋敷同然にしてしまった。父をはじめ私たち親族は何度もモノの処分や掃除を試み、半ば実力行使で屋外の物置に移動させたモノも一部ある。祖母に限らず物の乏しい時代を経験した世代は、不用品を捨てるという発想がなく、何でもかんでも溜め込みがちな傾向があるという。

だが祖母も動揺していたのだろう。祖父が入退院を繰り返しやがて施設へ入居した頃、彼女にとっては自分の夫が加齢とともに自分の知らない側面を見せ始め、自分の手には負えなくなり、子どもたちからは叱責がとんでくる。祖母にしてみれば「今までどおり」を通したいだけなのに、高齢となった自分はだんだんと家事も身の回りのことも満足にできなくなっていく。歳をとったことによる変化―配偶者の、身内を含む周囲の、何より自分の心身の―に戸惑い、傷つき、困惑したにちがいない。

3.11で被災した数日後、ようやく四国の両親そして祖父母と電話がつながった時のことを思い出す。「明日がどうなるのか分からない」という感情が決して比喩でなく、そこかしこで生き残った人たちを浸し始めていた。マスメディアは「未曾有の」「想定外の」という言葉を頻繁に発し、どうやらこの災害が「千年に一度」の規模であり、これまで誰も経験したことのないタイプの困難であることがおぼろげに共有されつつあった。

そんな時、祖母は言った。

「おじいちゃんはね、今年はじめて94歳になるの。おばあちゃんもね、今年で88歳になるの。(いわきびも)初めて経験する地震で大変だろうけど、その歳を生きるのはみんな初めてだから。だから、大丈夫だよ」。

そんな大意だった。その年にちょうど30歳の節目の年齢に達する遠く離れた孫を、慰めようと祖母は懸命だったのだと思う。

考えてみれば、私たちは皆その歳を生きるのが初めてであるどころか、明日を生きることさえそうなのだ。何歳になると心身にこういう変化が起きやすく、社会的にはこれらのことが許されまた課され、ある役割を期待される―、自分より年上の先輩たちが生きた記録は歴史や文学などで知ることができ、だいたいの傾向をつかむことはできるけれど、いざ自分がその立場になったら、そして先人たちが誰も生きたことのない変化や困難の中を生きることになったら、やっぱり手探りの「ぶっつけ本番」で生きるしかないのだろう。

明日はまだ誰も生きたことがない。これは不安の根拠であると同時に希望の源でもある。一夜にして秩序が逆転したり、全財産を失ったり絶命したりする可能性とともに、これまで想像もつかなかった新たな途の始まりが拓けるかもしれない。同じ24時間のくり返しの中に、なんと不可知の、対極の価値がうごめいているのだろう。

高齢期もそうした一日の積み重ねの先端にある。身体や心の変化に気持ちが着いていけない戸惑いは思春期を迎えた子どもによくあると言われてきたが、これは高齢期にも当てはまるのではないだろうか。しかも生きた年数が少なく経験値の浅い思春期と違い、高齢期はそれまでの時間の積み重ねがあまりに膨大で、かつ個人差が大きい。

超高齢社会はたしかに人間の歴史上出現したことのないものだろう。しかしながら明日を知れぬ個々人の集まりが、老いて変わりゆく心身の変化にとまどい葛藤しながら一日ずつ進んでいく歩みに合わせて作られる制度や価値観が、人間の尊厳に裏打ちされたものであるようにと願う。