いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

老後は1世代

この半年ですっかり家にいる時間が長くなった両親を見ていて思う。どんな立場の人でも「老後をどう過ごしたいか」はあるていど意識し、できれば言語化できるようにしておくのが望ましい。少なくとも仕事を定年退職したからといって、社会に対する責任が全く無くなるわけではないことを自覚してもらいたい。なぜこう思うかというと、先月の四連休で実家の片づけに精を出したい母とそれに無頓着な父との間でまたいさかいが起きたからだ。
 実家の2階にある父の自室は約8畳分の板間でそこそこ広いにもかかわらず、一時は足の踏み場もないほどモノで埋め尽くされていた。転勤族で単身赴任も多かった父と私たち家族は異動のたびに家電や家具を買い足し・買い替えをしてきた。また子どもが家を出たために以前使っていた子どもの布団やら机やら私物がそのまま(私の分は私がすべて処分した)だったりする。そこへ祖父母の介護があって実家のことは後回しになり、加えて時代もまたモノの持ち方も変えていった。客用布団や法事用座布団、晴れ着のようにかつては各家庭で所有していたモノがレンタル可能になり、今では持つ必要がなくなったモノたちが押し入れや隙間を占拠している。また父自身がモノを捨てない人である。まあそれからやっと祖父母の介護も落ち着き、父も完全に退職して時間ができた今年から母がさんざん促し手伝い不用品を捨て、ようやく部屋も片付き始めてラストスパートかと思いきや、父がしぶり始めた。それにいら立った母がじゃああの部屋をずっとこのままにしておくのかと問い詰めたときに返ってきた捨て台詞がこれ。
「そうよ、どうせあと30年のことや」

 30年!たしかに人生100年時代とすると今70歳の人にとって死ぬまでの期間は本当に余生で「たかだか30年」と言いうるのだろう。しかし30年、それは彼らが考えるよりはるかに長く意義深いはずだ。
 考えてもみてほしい。30年といえば、赤ちゃんが成長して成人し、生産人口となって自活し家庭をもち、自分の子をもうけて育てるようになるまでの期間である。子どもが様々な葛藤を経て社会化していく過程で社会の方も変わっていく。技術革新あり、政変あり、親世代には想像もつかなかった道具や制度が子世代には当然で生活必需品なんてことはこれまでの歴史にも多々あった。それくらい30年とは濃密な「1世代分の期間」なのだ。
 だから、高齢者も社会的責任をはっきり自覚する必要がある。完全にリタイアして隠居生活に入ったとしても組織の舵取りや基幹労働から身を退く立場となっただけで、「どうせあと30年の余生なんだから社会や次世代のことなど知らん、好きにさせろ」は通用しない。国民の「4人に1人」を占める人口がこんな考えで日々を過ごしているなら、そしてそれがあと30年続くなら、財政・経済を差し置くとしても国家や社会は維持できない。そのうえ「自分の機嫌を身内にとってもらって当たり前」という気持ちでいるならば、若い世代は次の世代を産み育てることなど物理的に不可能だろう。
 これに関連して隠居・隠遁生活にも徳が必要なんだなあと思う。よく既存の社会体制から足抜けして山奥で自給自足および独自の共同生活を営むのがオルタナティブみたいに語られるが、こういうのも既存社会の矛盾や共同体の方針・ルールを決めて各自が役割を意識していないと一気にカルト化するだろう。「ポツンと一軒家」に出てくる人たちだって、物理的には社会から隔絶した場所に暮らしていながら人間社会が織りなす意味や価値の中で各々の役割や意義を信念に生活しているのだ。
 老後は1世代分の期間である。近代国家の権力性を自覚しつつ、社会政策や政治にはつねに関心をもって働きかけないと心身ともに弱ったときに身内や次世代が犠牲になってしまう。