いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

乳牛と労働者~『家族を想うとき』にみるケアのゆくえ

longride.jp

ケン・ローチ監督『家族を想うとき』(原題 Sorry Missed You)は、グローバル資本主義下に台頭したギグ・エコノミーの労働問題と、不安定雇用に揺さぶられる家族のゆくえが中心的論点とされてきた。物語は不安定な生活から脱してマイホームの購入をめざしフランチャイズの宅配ドライバーとして独立した一家の父・リッキーと、その家族の様子を描く。ただし本編を貫く問題の場は家族にとどまらない。GAFAに代表されるICTシステムに覆われた資本趨勢のなかを生きる個々人のケアはいったい誰が担うのか。これが本編に終始伏在するテーマである。

1.高齢者、障碍者のケア

本編でリッキーの妻・アビーが訪問介護の職に就いていることは決して設定上の偶然ではない。アビーが日々関わるのは、自力で身の回りのことができず日常生活に他者からのケアを必要とする高齢者や障害者である。人は生きるために日々ケアを必要とする。かつて家事、育児、介護などのケアや再生産領域の活動はほぼ家族が全面的に担ってきた。だが資本主義の進展、福祉国家の確立と解体を経て、ケアの負担は家族・国家・市場いずれの領域においても脆弱化した。その矛盾が鮮烈に現われるのは、物理的に自分で自分の身の回りのことができない障害者や高齢者、子どもにおいてである。
細分化された業務スケジュールの中パートタイムの介護福祉士として働く彼女は、細分化された業務スケジュールの中より良いケアを提供しようと腐心する。しかしリッキーがドライバー業務に必要なバンを買おうと唯一の財産だった自家用車を売却したために、彼女は訪問先までバスを乗り継ぎ業務に必要な移動に膨大な時間と費用がかかるようになってしまった。雇用先はこの交通費も労働コストとして反映させず、利用者に汚された服の着替えさえ負担しない。かくして彼女は以前より自分の家庭に居る時間を削られることになる。
もちろんケアは身体介護のみを指していない。むしろ精神・感情面の配慮を中心としたやりとりがケアを受ける側にとって不可欠であることが作品中たびたび出てくる。アビーは介護者の手を焼かせる利用者について上司にこう叫ぶ。
「彼女は問題のある利用者じゃない、繊細なケアが必要な人なの!」
「繊細なケア」を必要とするのは介護サービス利用者だけではない。アビーらの子どもたちもまたティーンズとして様々なケアを欲している。

2.思春期の子どもたちのケア

多感で難しい時期にある16歳の息子・セブは学校で次々に問題を起こす。とはいえそれらは思春期特有の社会や大人に対する疑問にもとづく行動で、保護者役割をもつ大人がその都度向き合ってやればよいだけにも見える。物理的なケアが世話の大半を占める乳幼児とちがい、10代の若者に必要なのは精神面でのケアであり対話である。ときに対峙する壁となり、ときにフォローする役目を果たし寄り添うことが要求される。だが両親はそれぞれの仕事が忙しく十分にその時間が取れない。セブの態度に苛立ったリッキーは思わず彼を怒鳴ってしまう。そして学校側は保護者を呼び出しルールと厳罰で対応し、セブはとうとう警察に引き渡される。セブを補導した警官の言葉が印象深い。
「君には心配してくれる立派な家族がいるんだ。」
この立派な家族を悲しませないよう君はまっとうな道を歩まねばならない―、警官はそのように諭すが、日々の労働に追われるリッキーとアビーはもはやそのキャパシティを失いつつある。
久々に家族で食卓を囲む休日の夜さえ、アビーには勤務先から非番の呼び出しが入る。ある利用者が親戚の結婚式から帰宅したもののトイレ介助をする者がおらず下着を汚してしまったという。冠婚葬祭という非日常の場に家族が集まることはできても日常生活の場でケアを提供する人はいない。利用者の家族もそれぞれ生活があり、ケアを家族だけで抱えこむことができないゆえにこの高齢女性は訪問介護を受けている。家族の外部がケアを担うことができるように整えたシステムがまさにアビーの従事する訪問介護事業だが、市場化されたケアサービスは利用者の生活を十分包摂することはできない。そればかりかケアを提供する労働者がその家族と集うこともこの働き方は難しくする。呼び出されるアビーは自分の家族との時間を犠牲にして利用者のもとへ駆けつけている。
このようにケアをめぐるひずみは、ケアの全面的な担い手であった家族においてより顕著に現れる。行き届いたケアへの切望は、本編中において過去や現在の家族に対する思いとして頻出する。この意味で『家族を想うとき』という評判の悪い邦題はあながち的外れとはいえない。


3.乳牛のたとえ

セブのことに心を痛め対処するために仕事を休ませてほしいと頼むリッキーを、管理職・マロニーは突き放す。「私的な事情だと?俺はお前のカウンセラーか?」従業員の家族が重病で倒れても、従業員自身が心身の危機に陥っても、それらは彼にとって業務上の配慮の対象ではない。従業員のプライベートへの配慮は自分の仕事ではない、いわば自己責任で処理しろと言うのだ。
 休まず働くことについて象徴的なマロニーの台詞がある。
「俺の親父は乳牛を飼っていたが一日も世話を休まなかった。」
それは家畜が財産であり生活の糧およびその源泉であり、世話をしなければ死ぬ存在だからだ。ひるがえって現代の労働者―少なくとも彼のもとで働く者たち―はいつでも代替可能な労働力にすぎず、家畜ほどのケアさえ受けられず働かされている。
何よりマロニーの言う乳牛の世話は、厳格な家父長制による支配の行き届いた家族構成員の無償労働によって成り立っていたはずだ。そこにはケアの手間と時間と細心の注意に伴う心労も含まれる。そうした家族が生きていくための有形無形の社会的バッファは、福祉国家の盛期には制度によってその一部が担われる一方、大半は私的領域やコミュニティのインフォーマルな慣習に埋め込まれていた。そしてこのケア労働は、家父長制下の家長および資本制下の経営者層にとってあたかも無尽蔵の天然資源のようにみなされ、あえて意識されることさえなかった。この台詞は、かつて労働環境と処遇の改善を訴える保育士たちに対して「お母さんには休日はない」と一蹴した園長を彷彿とさせる(山森亮ベーシック・インカム』光文社、2009)。


4.私たちは自分の世話さえできない

上記のような過酷な労働環境に日々晒されるリッキーは思わずアビーにこぼす。「俺のこともケアしてくれ」。だがリッキーの選んだ働き方は、労働者を食事・睡眠・排泄といった自らの身体ケアさえ安心してできない環境に追い立てる。作品冒頭でリッキーが熟練ドライバーから車内に常備するよう助言される空のペットボトルが、なぜ配達員にとって不可欠の持ち物なのか。それは本編を観ればわかる。それを使うとき配達員は最も無防備かつ危険な状態にさらされる。業務中のドライバーは、自分で自分の世話すらできない。私たちはいまや社会的再生産やエネルギー補填のための時間さえも資本制に奪われている。
 ここからわかるのは、市場を支える膨大な非市場領域の危機である。資本蓄積は無償でなされる様々な再生産活動から成り立つ。細分化した勤務時間で極限まで働く労働者の心身の健康を支えるのは、家庭を含めた非市場領域の営為である。市場原理の存続を支えているのは無数の膨大な非市場領域(自然資源を含む)にほかならない。家族やケアをめぐる物語を軸に進む本編で浮かび上がるのは、労働者として分断され、自らの心身ケアの負担を家族と分かち合うこともできず、孤立する人々の姿である。