いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

トイレに見る治安

地元にはそこそこ幅をきかせているスーパーがある。

今度イオンと統合が決まり、さて商品ラインナップやサービスがどう変わるやらと、最近はごくたまにしか利用しないため他人事みたいに遠巻きに眺めてきた。

先日、市内でいちばん大規模なその店舗で生活防水を施した靴と、春秋用の売れ残りと思われるルームパンツを買った。

コロナが5類移行し、マスク着用も個人の判断となり、ショッピングモールもスーパーも人混みの賑わいが戻っている。

 

それで思い出した。

 

昨年や一昨年、たぶんコロナ禍真っ最中の頃、仕事帰りにそのスーパーを訪れて利用した折に見たトイレの荒れ方を。

 

荒れ方というと大げさだが洗面所は水浸しで掃除が不十分だったし(頻繁な手洗いを呼びかけられていたせいもあるだろう)、個室内もトイペの芯の残骸や満杯のエチケットボックスが放置され、ペーパーのちぎり方は乱れ、使い切ったペーパーホルダーには新たなペーパーがセットされておらず、床の衛生状態も怪しい。

「トイレットペーパーを持って行かないでください」という内容の注意書きもあったように思う。

 

みんな、余裕が無かったのだろう。

店内の空気もすれ違う人たちも疲弊していた。

自分も当時の仕事の契約の件で(コロナ理由ではなかったが)心がざわついていた。

 

公共の場所、「みんなで使う場所」には使う人たちの心境が現れる。

トイレはとくに世相を映し出していたのだろう。

 

それが今、だいぶ整然とした雰囲気になっている。

食品売り場は週末に家族で楽しむためのセットメニューで溢れ、服飾コーナーもいつもの夏に備えて部屋着を売っている。併設のカフェやチェーン店にも客足が戻っている。

 

むろんコロナ禍は今も終わっていない。むしろこれまで強いてきた自助努力の感染対策を緩めただけのことでもある。

 

とはいえ人の集まる場所の活況に殺伐とした空気が薄れているのは、なかば救いだ。あとは決してコロナ禍の理不尽を忘れずに、当時の歴史を修正するような言説に注意して人間らしい暮らしを取り戻していきたい。

 

コロナ禍、忘れてはいけないこと

インフルエンザの蔓延で学級閉鎖や学年閉鎖が相次いでいるらしい。

当然だろうと思う。

季節外れなのになんで…?と首をひねる向きもあるが、コロナ禍の約3年間学校や人の集まる場ではマスク着用と手洗い、換気、間隔空けがほぼ徹底されていたのを一気に緩め、マスクすら自己判断にしたのだから。

 

新型コロナは5月8日から5類感染症となった。これに伴って県ごとの日々の感染者数を追うことは不可能になり、以前のように厳重な感染対策はたとえ大勢が集まる場でもとらないケースが増えていった。

 

その結果、コロナ以外の感染症が大流行したのだろう。のみならずコロナも。ネットやSNSを見ると第9波はすでに拡大しつつあるらしい。

 

 

GWが過ぎてひと月半経つ今、観光地や飲食店には客足が戻り始めている。

それはとても良いことなのだが、なんだか凄く後ろめたい。

 

なぜなら2020年、コロナ禍真っ最中のしかしコロナ対策がまだ手探りだった頃、感染予防のために「不要不急」という言葉が巷のあちこちに飛び交っていたのを思い出すからだ。

 

ー不要不急の外出はやめましょう。

そんな呼びかけだった。

 

むろん接触感染やエアルゾル感染の防止が目的ではあったが、この「不要不急」のカテゴリーには明らかに観光業や飲食業が放り込まれる傾向があったと思う。

 

GOTO支援への批判の延長もあり、

 

ーこんな時期に旅行に行くなんて。

ーこんな時に店内でイートインなんて。

 

と旅行や外食をする人々に対して冷ややかな視線が向けられた。

 

前にも書いたが、コロナ禍は露骨な職業差別を可視化した。

 

性風俗業には給付金を渡さないという方針があった。

県外から来た人や、県をまたいで移動する長距離ドライバー、その家族への差別があった。

 

一般の生活者はもちろん、医療従事者がマスクすら手に入らない時期があった。

 

医療従事者は病院内で必死の防護をしながら業務に尽力したにもかかわらず、決して大切に扱われたわけではなかった。

感染の可能性が高いゆえに買い物や移動先で入店を拒まれるケースがあった。

 

ブルーインパルスを飛ばしても、賃金や休息など適切な処遇改善はなされなかった。

 

この時期、グレーバーの『ブルシット・ジョブ』という著書が話題となった時期と相まって、エッセンシャルワーカーの権利回復も叫ばれた。

 

でも「エッセンシャル」と「ブルシット」って本で書かれたようにハッキリ分けられるものなんだろうか。

 

GOTOはたしかに大手業者と経済的に余裕のある層にしかメリットは無かった。

 

しかしそれは全ての観光、外食産業が有事の際に否定される根拠にはならないだろう。

 

地元の温泉街はいま活況を取り戻しつつあって、週末は人力車の引き手と会話を弾ませたり、浴衣姿で商店街を歩いたり、いくつか点在する足湯でくつろいだりする観光客の様子があちこちに見られる。

 

ここに観光客として来てくれる人たちは、普段どんな仕事や生活をしているのだろう。

 

決して手放しでは喜べない観光地の賑わいも、訪れる人たちがもしかしたら長く抑圧された日常から束の間の解放を味わっているならば、せめて心から楽しんで心身を休める機会にしてほしい、と思うのだった。

 

 

 

 

連休を彩った緑色のみなさん

GWはとくに県外へ出ることもなく、地元でのんびり過ごしました。

 

日に日に新緑は濃くなり、もう少ししたら黒々とした繁りを見せるはずです。

 

夕方近くになると自転車で散歩に出かけ、だんだん長くなる日没まで賑わいや草木の彩りを楽しむのです。

 

温泉街付近の石畳からはキレハノブドウの若葉が吹き出ています。

 

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私はほぼ在宅の連休でしたが、両親が友人に誘われて茶摘みに行ってきました。

これは、摘んだあと手もみした茶葉をベランダに広げて干している様子。

ゴザの上に新聞紙を引き、その上に茶葉を並べています。

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そして、恐縮にも畑で採れた豆まで頂いてきました。

絹さやとスナップえんどうです。

 

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さらに季節が進み、先日は叔父の畑でできたそら豆をもらってきました。

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毎年季節はめぐるものの、一度として同じ日はありません。

今年の、みずみずしい緑色たちを記録しておこうと思い、ここに記しました。

 

 

 

ひばりの鳴くとき

晴れた午後、机で読書しているとひばりの声が聞こえる。

 

机に向かっても何となく集中できなくて倦怠感に包まれかけたとき、突如その音が上がるのだ。

 

気怠さと疲弊と閉塞感のなかに埋没しかけ、世間の常識や日常の決まりごと、漠然と将来に対して抱く行き詰まり感に絡め取られたままの状態がこの先ずっと続くかと思われたそのときに。

 

鋭く上がるそのひと声で、遠い時間が思い起こされる。

 

一瞬のなかに世間や社会を離れた遠い世界を垣間見せてくれる響きである。

 

たとえば映画の一場面を。

 

エンタメ系ではない、ドキュメンタリーや古典的な名作の一瞬を。(なぜかタルコフスキーの『ノスタルジア』が想起される。)

 

若き名手が爪弾くギターの旋律を。

 

休日の誰もいない空き地に突如吹き渡る風が起こす、草の輝きを。

 

日々濃くなる新緑のなかに、風に揺さぶられた葉の隙間から木漏れ日の射すときを。

 

若い日に何某かを目指して一心にある対象に傾注する態度を。

 

一瞬でありながら永遠を思わせるひとときを。

 

五月は新緑が美しい。

 

昼下がりに、夕方に、そういう一瞬を探すためだけに周りに注意を向けるのもいいかもしれない。

 

 

紙の本という特権

電子書籍も進化して普及が進み、いまや新書はほぼ電子媒体で読んでいる。

 

パソコンから、タブレットから、あるいはちょっと画面が小さいがスマホからでも読める。

 

ボリュームの少ない新書はもちろんエッセイ集や小説も、電子書籍版は余白を活かして読み易く組んであるのでとてもありがたい。

 

スマホを取り出してKindleアプリを押せばすぐに読みかけの本のページが現れる。

 

ちょっとした店内の待ち時間や、信号待ちの間にも見ることができる。

 

その一方で、紙の本を読む行為だけに特化すれば

読書ってかなりコンディションを選ぶ趣味だよなあ…と実感する。

 

まず場所を選ぶ。

電子書籍なら外出先、キッチン、防水対策をすれば風呂場にも持ち込める。スマホタブレットなら平らな場所が確保しにくい場所でも読める。

 

だが文庫や新書なら、通勤電車で立ち読みがかろうじてできるものの満員で立ちっぱなしでは難しい。

 

分厚い専門書ならそれも無理だ。確実にまともな机が要る。小さくとも一人で落ち着いて作業できる机が、だ。

 

つぎに、机に向かう時間を確保することが純粋に難しい。

 

何か飲み食いしながら、音楽を聴きながらを除いて、基本的に読書は他の用事と同時並行が難しい。

 

賃労働、家事労働、畑仕事云々をしていれば、生活時間のうち一人で机に向かう時間はごく限られた特別な枠となるはずだ。

 

職場から離れ、家族から離れ、モノによっては日常生活から離れた時間と空間を確保することー、これが読書に没頭するためには時として必要な条件となる。

 

さらに、懸念事項がないこともポイントだ。

 

紙本を取り出し開き文字を追う行為は、心に引っ掛かる懸念や心配事があると中断されやすい。

 

それからこれは電子書籍でもそうだが、つねに配慮や注意を要する存在をケアしている状態ー介護、育児、煮炊きの最中などーで読書に集中するのは難しい。

読書に没頭して数秒目を離した隙に配慮の対象が死んでいるかもしれない。

 

(これを考慮すれば「育休中のリスキリング(学び直し)に力を入れる」など簡単に言う側はケア労働を非常に軽んじている。)

 

なので、ほどよく平穏と孤独を確保しなければならない。

 

ほかに、単純に疲れすぎていると読書は難しい。

長時間労働や肉体労働でヘトヘトになった心身で硬い本を読むのがどんなに大変か、それは皆さん経験上お解りかと思う。

ベッドに書見台を持ち込んでも眠くなる時は眠くなる。

 

これらを勘案して、紙の本を机で読めることは現代でもほぼ特権と言ってよい。

 

識字率がそこそこに達するまでは、読書が出来たのはごく限られた身分と生活様式の者だけだったのもわかる。

 

そしてこれら読書をめぐる条件は、大人の学習機会の条件と酷似している。

 

コロナ禍でリモートワークを命じられたとき、そのワークスペースの確保に苦労した方も多いと思う。

なかでも家族同居で子育て中かつ共働きの女性に専用の机がないケースはひときわ不便だっただろう。

 

そう考えると、大人の自習室確保って社会インフラとして切実な問題なのだと思う。

 

以前、自習禁止の図書館があることに対してSNSで議論を呼んだことがあった。

なぜ市民に開かれた場であるはずの公共図書館が自習禁止なのか?

自習室があってもキーボードや電卓の使用を禁止するのか?(もちろん許可してたり部屋を分けたりしている図書館もある。)

 

これらを想起するたび、この国はつくづく学びを妨げる要因に満ち満ちているなあと痛感するのだった。

 

これについては別の機会に書きたい。

 

 

 

 

 

明日のコーヒーもきっと

サントリーが出しているボトルコーヒー・クラフトボスの450mlがお気に入りで、仕事中はつねにそばに置き、自宅の机の上でいまもよく飲んでいる。

 

最近あれはカフェイン含有量がすさまじいという投稿をSNSで見かけたので、本当は飲むのを見直すべきなのだろうが、口当たりが良いので外で買うコーヒーは結局これを選んでしまう。

 

コーヒーは眠気覚ましに使われることが多いが、私は寝る前にもよく自室の机に置いたこのボトルから数口飲むことがあった。

 

ボトルを開けて、何度も空気に触れた中身は少しずつ風味も落ちているわけだが、夜遅くやっと風呂を終えてパジャマに着替えて布団に入る前に手を伸ばせばすぐつかめる机上にコーヒーのボトルがあるのは束の間の、儚くも確かな安心だった。

 

何より落ち着くのだ。

 

そして、冬にはどんどん遅くなっていった起床時、カーテンを開けてボトルからコーヒーを飲む。冷たくはなっているが、カフェインのおかげかどんなに睡眠不足でもそれで何とか頭が冴えてくる。

 

トースト一枚も食べ切れないほど慌ただしいほどギリギリの時間まで寝ているが、自分で選んだコンビニの食パンにオリーブ油を回しがけて、家族がコーヒーメーカーで淹れたコーヒーを飲んで出勤する朝は、それでも自分の生活の一部だった。

 

こうしてコーヒーが美味しいとまだ大丈夫、と思える。何が大丈夫なのかと問われたら、うまく答えられないのだが…。

 

コーヒーが美味しいと感じられるうちは大丈夫。

 

明日のコーヒーもきっと美味しい。

明日のパンもきっと美味しい。

 

一瞬の、物理的な快楽とはいえ、明日もコーヒーが美味しいと信じられること。それはきっと自分の人生を納得させる重要な作業なのだと思う。

 

 

 

 

さよならロールパン

遅く起きた休日の食卓でバターロールを口に含む。外は穏やかで、平日の職場の殺伐とした忙しさとは別世界だ。

一袋に5個入りで百円強のロールパン。プレーン以外にも種類があって、私はいつもマーガリン入りの分を買っていた。残業の御供だったからだ。当初は机の引き出しにカロリーメイトのようなバランスバーをいくつか買い置きしてあったのだが、腐らないのはよいとして、包装を解くのが面倒かつゴミが多く出ること、もう少しちゃんとしたものを食べたい気持ちのためにパンを買い置きするようになった。


平日の超過勤務はだいたい月43時間を超えた。多い月には60時間以上。そんなふうだから合間を見て何か食べておかないととても頭が働かない。このロールパンはいわば「残業メシ」で、深夜コンビニで見かけると必ず買うようになった。

職場は他にも団体が借りている建物の一室に在って、最終退出になるときは全ての戸締りとセキュリティをセットして帰らなくてはならない。長い夜になりそうなときは、誰も居なくなった部屋の自席でバターロールの袋を開ける。セブンイレブンで売ってる分にはストッパーのテープまで付いていて少しずつ食べるのに最適だったが、結局いつも一度にひと袋ぜんぶ食べてしまっていた。


マーガリン入りのバターロールも全粒粉でできたバランスバーも、私の好物のうちだ。そのため、それらのイメージが辛く心細い夜の残業の記憶とセットになってしまわないか懸念があった。

たとえば、小さな子が怖い注射のときに安心を得ようとぬいぐるみを握りしめる。苦い服薬の後の口直しまたはご褒美として飴を舐める。それらは
怖くて痛い記憶とセットになってしまい、大好きだったはずのぬいぐるみや飴に忌避感を抱くようになりはしないか。

だが幸いなことにそうはならなかった。なぜなら仕事を変えることにしたから。

そんなわけでバターロールはただの買い置きや朝食のパンとなった。

さようなら非常食としてのロールパン。
もうこれで切迫感をもっておまえを買わなくて済むね。
いつもの食卓や小腹がすいたときに食べられるね。

不思議な安堵と、緊張感が切れたせいと思われる無気力とに包まれる。

好きなものくらい、いつも素直に「好き」という感情でもって食べたいものだ。