電子書籍も進化して普及が進み、いまや新書はほぼ電子媒体で読んでいる。
パソコンから、タブレットから、あるいはちょっと画面が小さいがスマホからでも読める。
ボリュームの少ない新書はもちろんエッセイ集や小説も、電子書籍版は余白を活かして読み易く組んであるのでとてもありがたい。
スマホを取り出してKindleアプリを押せばすぐに読みかけの本のページが現れる。
ちょっとした店内の待ち時間や、信号待ちの間にも見ることができる。
その一方で、紙の本を読む行為だけに特化すれば
読書ってかなりコンディションを選ぶ趣味だよなあ…と実感する。
まず場所を選ぶ。
電子書籍なら外出先、キッチン、防水対策をすれば風呂場にも持ち込める。スマホやタブレットなら平らな場所が確保しにくい場所でも読める。
だが文庫や新書なら、通勤電車で立ち読みがかろうじてできるものの満員で立ちっぱなしでは難しい。
分厚い専門書ならそれも無理だ。確実にまともな机が要る。小さくとも一人で落ち着いて作業できる机が、だ。
つぎに、机に向かう時間を確保することが純粋に難しい。
何か飲み食いしながら、音楽を聴きながらを除いて、基本的に読書は他の用事と同時並行が難しい。
賃労働、家事労働、畑仕事云々をしていれば、生活時間のうち一人で机に向かう時間はごく限られた特別な枠となるはずだ。
職場から離れ、家族から離れ、モノによっては日常生活から離れた時間と空間を確保することー、これが読書に没頭するためには時として必要な条件となる。
さらに、懸念事項がないこともポイントだ。
紙本を取り出し開き文字を追う行為は、心に引っ掛かる懸念や心配事があると中断されやすい。
それからこれは電子書籍でもそうだが、つねに配慮や注意を要する存在をケアしている状態ー介護、育児、煮炊きの最中などーで読書に集中するのは難しい。
読書に没頭して数秒目を離した隙に配慮の対象が死んでいるかもしれない。
(これを考慮すれば「育休中のリスキリング(学び直し)に力を入れる」など簡単に言う側はケア労働を非常に軽んじている。)
なので、ほどよく平穏と孤独を確保しなければならない。
ほかに、単純に疲れすぎていると読書は難しい。
長時間労働や肉体労働でヘトヘトになった心身で硬い本を読むのがどんなに大変か、それは皆さん経験上お解りかと思う。
ベッドに書見台を持ち込んでも眠くなる時は眠くなる。
これらを勘案して、紙の本を机で読めることは現代でもほぼ特権と言ってよい。
識字率がそこそこに達するまでは、読書が出来たのはごく限られた身分と生活様式の者だけだったのもわかる。
そしてこれら読書をめぐる条件は、大人の学習機会の条件と酷似している。
コロナ禍でリモートワークを命じられたとき、そのワークスペースの確保に苦労した方も多いと思う。
なかでも家族同居で子育て中かつ共働きの女性に専用の机がないケースはひときわ不便だっただろう。
そう考えると、大人の自習室確保って社会インフラとして切実な問題なのだと思う。
以前、自習禁止の図書館があることに対してSNSで議論を呼んだことがあった。
なぜ市民に開かれた場であるはずの公共図書館が自習禁止なのか?
自習室があってもキーボードや電卓の使用を禁止するのか?(もちろん許可してたり部屋を分けたりしている図書館もある。)
これらを想起するたび、この国はつくづく学びを妨げる要因に満ち満ちているなあと痛感するのだった。
これについては別の機会に書きたい。