いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

広場があること

 

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 夏過ぎから、退勤後には中心街の広場を通って帰るようになった。敷地の隅には美術館も図書館もある公共の広場だ。地元は城下町で、お城のふもとに廻らされたお堀と森に囲まれて、散歩やジョギング、運動にはげむ人たちが毎日行き交っている。

 

 新コロ対策で室内に集まる気晴らしが禁じられたのを機に、屋外に繰り出すようになった人もいるだろう。広場は芝生があって球技やダンスの練習に興じる人も多い。子どもを遊ばせながら自身も外の空気を味わう親たち、ベンチでくつろぐ人、談笑する人。動画を撮影する人もいる。スマホの自撮り棒やタブレットをかざして、思い思い画面に語りかける。カメラを構える人。犬を散歩させる人。めいめいが気の向くままに行動している様子を眺めるのは心地良い。

 

 こういう広場に自由と解放感をおぼえるのは、そこがとくに目的を定めず居られる場所だからだ。もちろん禁止事項はあるが、「ここは何々する場所」という縛りがなく、ルールを守れば無料で好きなだけ居てよい所って案外少ないのが現状だ。カフェだって基本は有料で飲食する場であり、あまり長時間の勉強・読書はご遠慮下さいという姿勢である。その点では公共の図書館も似たような性質を持つ。家以外で、大人が長時間無料で勉強できるスペースがほかにあるだろうか。

 

 コロナ禍は、安心できる所属を持たない人の居場所の問題をもあぶり出した。住居のない人はもちろん、家庭が安全でない人や家庭に居場所のない人、ケア役割を強いられ一方的な献身を求められる人は沢山いて、彼/彼女らはステイホームと言われても行き場がない。同時に、フリーランスで働く人が第一波の初期に住居確保給付金の申請条件にうまく合致しなかったのも、彼/彼女らが収入や福利厚生の面倒をみてくれる所属先を持たなかったからだ。本来福祉国家が担うべき機能を、企業内福利厚生で代替させて再分配やセーフティーネットを公共セクターに求めてこなかった日本社会の矛盾がこの人たちにおいてあらわになったのだ。そしてもちろん、非正規雇用労働者にも全く同じことが押し寄せている。

 

 いま一度、公共空間の再興を要求したい。どんな立場の人も排除されず、とくに何もうしなくてものんびり居られる場所を。社会のあちこちに今こそそんな空間が命綱として切実に必要なのではないかと痛感する。