いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

わが机上自由なりき

 11月は暖かな日が続き、月半ばには夏日に近い気温の日さえあった。おかげで職場の事務所外の作業―それも水仕事付きの身体を使うチームワーク―も、水が気持ち良いくらいの気候で順調に終えることができた。

 何度も書いているが、私は手や体を使うタスクも他人との共同作業も不向きだ。複数いる人員の立つ位置、邪魔にならない動き方、タイミングに適った声がけと簡素な言葉選び、運ぶモノの様子やその持ち方、刻一刻と変わる空間の変化に合わせて自分が何をすれば/どう体を使えばよいか、状況を読み取るだけで精一杯である。そんな中統率する担当者とスタッフたさんたちは機敏に体と手を動かし、少々トラブルがあってもその場でフォローや訂正をして気持ちを切り替えて進んでいく。最終日の片づけの時に見た、床でさらった細かな木片、ビニールの破片、散らばった蜘蛛の足をゴミ箱に集め、ゴム手袋で無心にゴミ袋へ移していくスタッフの姿を思い出す。労働とは本来ああいう動作のことを指すのだろうか。

 そんなわけで、作業の後デスクワークに移った時は心からホッとした。パソコン上でやる業務ならあるていど自分の裁量がきく。机上でもパソコン上でも自分の視界にすべての情報を置き、統治できる。上記の作業とちがって自分が自在であることを感じる。刊行用の資料画像のレイアウトに画面上でどれほど苦心してやり直しても、自分の身体が傷つくことはない。これがブロック積みやフォークリフトの荷物積み下ろしだったらすでに多数の死人が出ていると思う。

 そう考えるとデスクワークというのは身体労働とはたしかに異なるスキルや所作を要求する。文章の読み書きやパソコンの画面で作る何かは、現実の重量や実体のあるモノを記号や図や文に置き換えて作業を進めていく。インターネットやDTPに疎い高齢の人々が、少し昔にネットビジネスや机上で完結する仕事を「虚業」呼ばわりしたのはこういう点への非難があったのだろう。けれども話を少し拡大すると、デスクワーク全般にそもそもそういう側面がある。机やパソコン画面を一つの空間として仕切り、実体から切り離されて虚構にひとしくなった文字や記号、数字、線などを配置し、それらと対峙する間は孤独と静寂を要求する。

 だから、識字の普及や読書する層が社会に登場したことは人間の歴史の中で画期的な変化だったにちがいない。近代化が進むにつれ識字と文章の読み書きができることは必須のリテラシーとなり、それに長けた人間が機構の上層に立ち、官僚主義が進んだ。20世紀の終盤からインターネットの登場にともなう技術革新とあいまってそれらは相対化され、私たちはいま新たなメディアの恩恵によってオンライン授業やリモートワークの普及を目の当たりにしている。

 とくに動画による学習や情報伝達の効果は大多数に歓迎され、近代の学校制度や教室での一斉授業の旧弊を嗤う声がSNSには溢れている。軽量化したパソコン、タブレットスマホを駆使すれば机のない場所でも情報の受発信は可能だ。路上、ベッドの中、田畑の畔、時間や場所を選ばずに通信できる―。

 しかし動画で全てを学べるという主張には無理がある。こういうデジタル機器を使いこなす前に、それらを通じて受け取る情報を理解するために必須である読み書きを覚えるには、やはり一人で机に向かって静かに学ぶ機会を必要とするだろう。言葉を使って自己と世界を振り返り理解すること、それができて初めてネットで有益な受発信ができる。省察や反省的思考をするためには文字と言語を学ぶ必要があり、その過程で机が要る。よって、一斉授業かどうかはともかく初等教育で学校が不要になる日は来ないし、それを叫ぶのは危険である。

 こう書きながら、私はつくづく自分の机に対する執心が強いことを痛感する。窮屈な地元実家生活を思えば無理もないかもしれない。自分の机が奪われたとき、それはこのブログを始める半年前の夏だった。今も住んでいる実家を税金対策も兼ねてリフォームすることになり、6~7月の間、暑いさなかに窓を開けられず冷房もつけられず、自室の机で読み書きが難しくなった。のみならず休日昼間には机の正面にある窓に建設業者の作業員が張りつき、しかも野卑な態度や言葉を飛び交わしながら仕事をしている。とても居られたものではない。同時に、当時の職場では業務システム刷新と称して「合理化」のもとに人員や機械、パソコンを減らした。それまでは自分の机があったのに、午前・午後で空いている座席を探してパソコンを使う形態に変わっていく序盤だった。事務職なのに、だ。

 その時期を思えば自宅・職場ともに自分の机がある今の状況はずっと良い。(ただ職場は3月末に契約が終わるけれど。) 読み書きをすることは、特殊な動作を身体に強いる。自閉性をともない、孤独を必要とする。これに関連してデスクワークは机上という小さな空間に総てを収め、自ら考える自由を感じられる。そういうあり方が好きな層が社会には一定数いて、屋外の現場系作業には不向きであってもそれとは違う形で社会貢献をはたしてゆける。それが文明の進歩だろうと私は考える。