いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

協働作業の動線

 先月半ばから休日出勤して戸外でイベント対応や、職場倉庫に眠る図書の移動と、仕事では身体を使う作業が続いている。貧血治療の甲斐あって代休なしでも疲労で体調を崩すことなくやれているが、自分はつくづく現場作業&チームワークに不向きだと痛感する。手や身体を使うタスクはこれまで仕事・プライベートともにやる機会は多々あったが、この手の作業を得意だと思ったことは一度もない。楽しさもやりがいも感じない。目的のイベントや作業が無事成功すればホッとするだけだ。そしていつも、チームワークが成り立つことの奇跡、物事がトラブルなく実現することが決して自明でも簡単でもないこと、難しさを痛感する。

 

 生まれつき器用な人、人慣れして共同作業や集団行動が億劫でも苦痛でもない人にはこの難しさは不可解かもしれない。思うに不器用な人は、器用な人には決して立ち現れることのない世界の現れを常に経験しているのかもしれない。

 

 モノの運搬ひとつとっても、事前に計画した段取りどおりにはなかなかいかない。年度初めの職場に大量の物品が届いた時、オフィスにはエレベーターが無いので3〜4階までみんなでバケツリレー方式で荷物を運んだことがある。

 

  玄関、フロア、階段入り口、階段の中、踊り場、に並ぶ人数とその間隔。

 どこに、何人、どのくらいのテンポやペース配分で運ぶのか。

 

 間隔が詰まってきたら「ゆっくり運んで下さい」。

 終わりが見えてきたら「あと何個です」「 これでラストです」。

 

 その声がけの内容やタイミングも全体を見ている者なら適切にできる。

 

 ある部屋から別の部屋へのモノを移動させる場合、もっと考慮すべきことがある。

 

 大きな棚を運ぶなら置いてある部屋の扉を最大まで開けて固定すること。扉止めのブロックがなければそばの石やコンテナや植木鉢でガードする。数人がかりで運び出すか、それともバラして部品を各人が運ぶのがよいか判断する。

 

 ある程度重量のある小物を運ぶ時は台車とコンテナを使う。台車のありかを思い出し、いくつ必要か予測し、持ってきたら小物を置いた部屋の戸口と、別棟入り口の廊下、階段の踊り場に置く。

 

 小物を入れるためのコンテナの置き場を確保し覚える。目的地の部屋で空のコンテナが視界に入ったら帰りはそれを取っていくこと。

 

 これも終わりが見えてきたらメンバーとすれ違いざまに「もう終わりました」「あと何個だけでいいです」と伝えなければならない。

 

 現場を指揮する者はもちろん、作業参加者でもこれくらい注意を働かせて集中力を使う。「単純作業」などとどうして呼べるだろう。

 

 一人ではやすやすと出来ても、数人がかりだと途端に段取りや自分の役割を考えなければならず気詰まりと気後れが生ずる作業もある。

 職場では金曜の午後に各部屋へ順番に掃除機が回ってきて、同室者みなで掃除する習慣がある。四隅のうち、どのコーナーからかけるかわかったらすぐさま近くのコンセントへコードをさし、椅子やごみ箱を除ける。除けるモノたちをどこにどれくらいの範囲で移動させるか。掃除機をかけ終わって戻すタイミングも、掃除機がそのコーナーの机や棚などの奥まできれいにし終わったのを見計らってからだ。

 次のコーナーはどこか、誰が掃除機を持つのか、重い本体を転がして持つ人のそばにつける役は誰か、今度は何を除けなくてはならないのか。掃除機のマズルの行方だけ見ていればよいわけではない。 

 

 休日の戸外イベントでは会場から離れた、しかし確実に会場を囲む地点で案内板を持って立っていた。来訪者の車を決まった方向に誘導するだけなのだが、みんなここに通路があるとは思わず下手をすると通り過ぎて行ってしまう。

 眼前は麦畑で、ちょうど刈り入れの真っ最中だった。畑のそばへ立つにあたって軽く挨拶し、車の来ない間はじっと麦刈りを眺める。刈り取り機はまるで角ばった渦巻のフォームを描きながら、ゆっくりと熟れた麦の穂を刈ってゆく。

 

  わたしたちの協働作業もきっと、遠くから見ればきっと美しく秩序あるラインになっているだろう。チームプレイは過不足なくうまく実現すれば、本来それくらい見事な動きを形づくるのだ。それは言うまでもなく携わる者が抱く様々な注意と配慮の賜物である。

 

 こういう協働作業を終えるたび、「誰にでもできる仕事」なんて世の中にないのだとひしひしと感じる。雇用破壊と賃金差別が進んだ三十年の失策を認め、すべての労働者に賃の引き上げと休息の保障を与えなければならない。