いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

「同じ」子は二度といない

少し前だが、生命科学もここまで来たかと思うニュースが出た。

globe.asahi.com

www.nishinippon.co.jp


クローン技術によって死んだペットの複製を願う依頼が増えているという。この技術がより安価でたやすくアクセス可能になったら、あの世のペットを蘇らせたいと願う飼い主はどれくらいいるのだろう。
私も15年前に死んだ愛犬にもう一度会いたいが、しかしこの技術を使用して彼を複製したとしても決して同じ性格の犬ではないだろうと思う。
なぜなら故・愛犬は一度飼い主が変わっているからだ。彼の性格を形作ったのは前の飼い主とわが家の、それぞれの環境だろう。

今から20年ほど前、母が勤務先の常連さんから大型犬をもらわないかという話を受けた。聞けばその年7歳になる雄のマラミュートを飼っている知り合いが、高齢のためお子さんの家に引越すことになったがその家は犬を飼える環境ではなく、かつ身内の方が犬嫌いなため引き取り手を探しているらしい。これに母が同意した。当時県外へ単身赴任していた父は躊躇したが、母は私と弟がどうしても飼いたいと言い張ったことにして押切り、犬をその檻ごと迎えることになった。

犬は無駄吠えもせず大人しく見えたが、来て数日後に散歩中リードを思い切り引っ張って母を転ばせてしまった。また給餌のときも人間の指示を待たず食器にフードが入るやいなや凄い勢いで喰らいつき、散歩中に首輪が抜け興奮したまま走り出し、慌てて追いかけた弟がやっと捕まえる顛末もあった。

母は、前の飼い主宅から犬を連れて帰った日のあまりにあっさりした別れ際をいぶかしげに振り返るのだった。その朝前飼い主さんの「じゃ、よろしくお願いします」という挨拶と同時に犬はおとなしく母の車へ乗り込み、鳴くことも恋しがる所作も特にしなかったらしい。
べつに号泣せよとは言わないが、子犬から育てて7年も一緒に暮らしたならもっと別れの惜しみ様があったのではないか?
邪推だが、私たちは次のような推測もした。
―大型犬を飼ったはいいけど思いのほか世話が大変で、飼い主も歳をとりだんだんと手に負えなくなって手放したのではないか?

そこからイチからのしつけが始まった。食事はお座りとお手をして飼い主が許可を出してから。散歩のとき飼い主が主導権を持てるよう、広い場所で犬を引き飼い主のランダムな動きに合わせる訓練をした。食べ物をもらうとき、じれて吠えることがあったので即母が拳骨を食らわせてダメなことを教えた。
おおむね従順な子だったがやはり体格と力ゆえにあわやということは何度かあった。でも、わが家に馴染んでくれて近所の子どもたちにも人気の犬となった。

山道よりも若い人たちが行き交う街中の通りが好きだった。前の家ではコンクリートでできた車庫の敷地内に犬用の檻が置かれ、どちらかというと殺風景な景色を見て育ったからだろうか。人の賑わいに惹かれるようだった。

うちに来て5年目、わが家が近所の今の家へ引越したときに犬の居るスペースはグッと狭くなったけれど、大人しく住んでくれた。そして引き取って7年後の初夏に他界した。

愛犬の体細胞からクローンを作ったとして、全く同じ犬が育つだろうか。前の飼い主さんもわが家の家族もきっと愛犬には同じだけ影響を与えただろう。それぞれの家庭でしかるべき時に起きた出来事が一つでも欠けていたら、犬の性格はまた違ったものになっただろう。

先代と「同じ」ペットが欲しいと思う心理は再現された子が先代と同じ遺伝子をもつことを根拠としている。だがそれは本当に「同じ」子なのだろうか。

2011~2年のある日の朝日新聞天声人語」に、東日本大震災後の結婚機運の高まりが出生数上昇につながるなら震災で失われた数多の命の埋め合わせもできるといった内容の記事があった。(実際には結婚件数の増加には結びつかなかった。)

冗談ではない。亡くなった人たちとこれから生まれる子どもたちは全く別の存在である。子どもの数が増えたとしても亡くなった人たちと「同じ」なわけがない。あれは個々人の代替不可能性を無視した主張である。人でも動物でも、個々の置き換えのきかなさこそ不条理やかけがえのなさの根拠であるはずだ。

技術の進展は私たちの心理をときに置き去りにする。各人の同一性がはたして何を根拠としているのか、それは各人の幸福につながるものなのか。この世から居なくなった命を思うとき、ふり返らずにはいられない。