いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

何月何日であろうと

 とうとう通勤路のそば屋に「年越しそばご予約承ります」の看板が出た。最近朝が遅くなりがちで自転車をすっ飛ばして職場へ急ぐのだがそんな朝に「ああ来たか…」と胸に迫るものがある。

 

 先が見えない人間にとって暦は想像以上に心身を追い詰める。世の中にはたくさん期限や締切があって、求人応募(年齢制限もある)、コンペの締切、仕事の納期、予算・見積もり・決算の時期、雇用の契約期間、家賃の支払い期限ー。社会の中で生活するからにはそれも仕方ないのだが、世間にはインフォーマルな、慣習にもとづく不文律のデッドラインも多くある。「何歳までに〜しなくてはならない」の類がそれで、たとえば30歳までに「きちんとした」仕事に就いて、結婚して、子どもをもうけて…と今ではごく限られた条件でしか成り立たなくなった、高度経済成長期の標準的ライフコースを前提にしか人生を考えられない見ようによっては哀れな常識を振りかざす人々はいまだにいる。

 

 私は「特別な日」にこだわるのが嫌いだ。冠婚葬祭、記念日など非日常の行事に振り回されて日常生活が疎かになるくらいならやらない方がまし、と思ってしまう。とくに年末年始、ただ年が変わるからと言って焦燥に駆られ意味もなくバタバタ動き、しかもその気持ちや行動を他人にも強要する輩がいる。

 

 あれは2008年末〜09年始の冬だった。私は当時住んでいた北日本から年末に地元へ帰省し実家で過ごしていた。進路が行き詰まってどうしようか追い詰められていた時で、しかも帰省前までひどい風邪で寝込んだあとだった。両親はともに年末年始がかき入れ時の仕事に就いていて、家の中は殺伐としていた。

 

 母の勤めていた飲食店はだいたい12/28〜31までは戦争のような忙しさで、ほぼ徹夜に近いシフトの合間に家へは仮眠をとりに帰るだけだ。父も12月後半から大詰めを迎え元日から出勤せねばならず、遅く帰宅しては、いびきをかいて眠る母を起こさぬよう別室で自分のシャツにアイロンがけをしている。

 

 そんな状態でも正月準備は人並みにやらなければならない!という家だった。夜行バスを乗り継いで帰宅した私を待っていたのは年一度しか使わない餅つき器とバケツに何杯も水漬けされた餅米である。ふだん住んでない家のどこに何があるかも分からぬまま餅をついて丸めるよう命じられた私は、不器用なので当然うまくいかない。機械に入ってる餅米を蒸しながらこねるための刃をべとべとに汚してしまい、これをお湯に浸けてほとびれるのを待つ。

 

 テレビからは年越し派遣村の様子が流れてくる。リーマンショックの影響で年末に仕事を切られ、住まいも失った人たちへの支援活動である。この先仕事が決まらなければ自分にとって他人事ではないこの光景を横目に、母は私を詰りつける。離れて暮らすだけに一年分溜まった心配と不安を叩きつけられながら、自分も

「あと数時間で年が終わる、年を越せなかったらどうしよう」と根拠のない不安に駆られたものだ。

 

 そうこうしてるうちに関西に住んでた弟が帰ってきた。着く早々お節料理を何品か作ることと餅つきを終えることを命じられた弟は私より器用なのでさくさく作業を進めていく。

 

 とりあえず元日の朝起きてみると、台所には父がかじったトーストの残りが放置され、弟は餅とり粉にまみれた手や服のままソファに転がって寝ている。泥のように眠り続けると思われたと母は起き出して、神がかりのような状態で母は巻寿司を作りだす(この地域では正月に寿司を食べる習慣がある)。県内に住む祖父母宅へ年始伺いの土産にするためだ。そうしてとにかく正月という「大事な節目」にふさわしいタスクにぶん回されて年始が過ぎていった。

 

 たしかその1月に発売されたビッグイシュー日本版の号だったと思う。「エモ!言われん」という連載の四コマ漫画にとても慰められた。「初日の出は見ましたか?」という問いかけで始まった漫画は

 

「何月何日であろうと/日が昇り沈むことに変わりはないのに」

 

という台詞で締めくくられる。

 

 派遣村に集まった人たち、仕事や住まいを失って路上へ出た人たちに目線を合わせてきた雑誌だからこそそう思えたのだろう。

 

 何月何日だろうとその日を生きる尊さに変わりはないし、各人が日々を大切に生きられるために、政治行動や社会保障はある。会計年度や司法年度の区分、諸々の制度はしょせん国や市場が、人間が定めた区切りにすぎない。暦やデッドラインに追い詰められそうな時、たびたび私はこの台詞を思い返すことにしている。