いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

アメリカという大きな家ー想田和弘編集『ザ・ビッグハウス』に寄せてー


http://thebighouse-movie.com

ミシガン大学アナーバー校が所有し、同大学のアメリカンフットボールチーム「ウルヴァリンズ」の本拠地である巨大なスタジアム。その通称ビッグ・ハウスを題に冠したこのドキュメンタリーには「アメリカ国家の縮図」を描いたという評言が多々寄せられている。たしかにミシガン・スタジアムで繰り広げられる試合前の壮大なパフォーマンスや華やかなチアリーディングにみるショー・ビジネスの断片、厳重なセキュリティ・チェックや国家斉唱シーン等にみるナショナリズムや軍との一体性などからそうした見方は的を射ているといえよう。しかし本作品があぶり出すのは、ここに「社会の縮図」として映し出されるシーンの集積がじつは「大いなる家」を構成していることである。


第一に、ここで克明に描かれるのはスタジアムに投影されるこの「家」をフィジカルな面で維持する人々がなす、ハウスキーピングの様子である。カメラはスタジアム内外で試合前後の様々な舞台裏を映す。キッチンのバックヤードでは観客、報道陣、その他スタッフに供する大量の業務用食材が大鍋や大型鉄板で形をなしてゆく。スタジアムの清掃では巨大な清掃用具によって広大な観客席のゴミがシステマティックに取り除かれる。それらの仕事は一部機械化および自動化されていながら貧しい若い人の手仕事に成る大規模なドメスティック・ワークなのだ。そう考えると、イベント終了後のキッチンでライトを点滅させながら作動する食洗機に据えたカメラが水をかぶりつつ撮る映像さえ、あたかも雨夜にともる家の明かりのように見える。


第二に、市場原理が隅々まで支配する社会でありながら、そのサービスに家庭・家族という私的領域の特徴がにじみ出てているのが興味深い。たとえばゲート付近を回る水売りの売り文句にそれは顕われる。「並ばずに冷たい水が飲めるよ」。家で気軽に飲むように、と捉えることもできる。本来市場というセクターの外部である家庭特有のくつろぎや便利さを売りにしたサービスが、わずかな金額でも市場を介して提示される。
一方、ゲート前でチョコレートを売る幼い少年の後ろには屈強な父親が控え、命令する。貧困家庭の子どもが父権の圧力で物を売る行為を強要されている。
また本編中盤には定時ではベッドメイキングが間に合わないため定時よりも早く出勤して医務室で準備する女性救護班員が出てくる。しかし賃金は定時分だけで、早出した分は無償労働となる。医療・看護を含むケア労働が時間外のアンペイドワークによって支えられている現実の一側面がある。運ばれる患者の多くが急性アルコール中毒で、あたかも乱痴気騒ぎの後始末を家族がしているかのようだ。


第三に、この「家」の拡充と再生産をメンタルな面で強力に支えているのは、ビッグハウスに関わる人々が有する、きわめてドメスティックな様相を呈するつながりや帰属意識である。
とりわけ目を惹くのはミシガン大学の卒業生たちが見せる愛校心と大学コミュニティへの帰属意識だ。キャンパス付近の路傍ではニューヨークから来たというラッパーが誰にでも陽気に話しかけるかたわら、ある卒業生が教授を呼び止め「娘が先生の講演に行きました」と挨拶する。彼が教授と語る在学中の思い出話は、一つの大学内部で繰り広げられる内輪の話題である。それはラッパーが具現するオープンマインドとは対極の、同属内部への閉鎖的なベクトルを持つ関係である。冒頭の挨拶で娘を話題にするのも、教授の影響が教え子からその子に連綿と続いているかのようで、血縁のつながりを連想させる。その点で卒業生たちの言動はdomestic(家庭の、家庭的な)な印象を抱かせる。
ほかに、国歌斉唱時に嬉々として着帽する男性は自らの軍役を通した国家への貢献と帰属意識を確かめている。ゲート付近の伝道者は信徒として神の家族への、またスタジアムの清掃後にミサへ向かう人々は教会コミュニティへ帰属し集うことへの喜びを抱いているだろう。これらの人々の帰属欲求はアメリカ国家の体制やメンタリティを支えているという点でdomestic(国内の、国政の)と言える。
このグローバルでもコスモポリタンでもないドメスティックなつながりは、国家、宗教などを当該コミュニティとするホーム(home)への帰属欲求という性格を有している。それらは私的領域たる家庭を思わせる特徴を色濃く漂わせながらも、各々のナショナル・アイデンティティの一端を担い、アメリカ国家という公的体制の形成と維持に寄与しているのだ。


第四に、ビッグハウスに集う者たちの愛校心と帰属意識は この「家」にとって不可欠な資金供給源となっている。VIPルームでは大学に多額の寄付をした卒業生が一家でくつろぎながら試合を観戦する。「ここの使用料の金額を聞いたら驚くでしょう、しかし愛する母校の試合を間近に見られるならこんな良いことはない」ー、そのように興奮気味に、感慨深い様子で彼は語る。「3人の子どもたちもここの卒業生」だという。部屋の隅には幼い子どもたちが遊び、卓上にはチキンサラダのボウルが置かれ、室内はさながら家庭の休日を思わせる。このように卒業生たちがそれぞれ作り上げた「小さな家」が投ずる巨額の寄付金がミシガン大学の運営基盤を形作り欠かせない動力であることは、終盤のパーティーシーンでより明瞭になる。

ホームカミングデー・パーティーの様子は圧巻だ。中高年となった卒業生たちは次々に着席し、それぞれの職業人生を語り合う。卒業後就いた仕事と得た地位でいかなる社会貢献を果たしたか、突き詰めれば各々の存在意義にまで行き着くその出発点こそはこの母校なのだ。そのことを確かめ合うホールは懐古と郷愁に満ち、参加者は懐かしい故郷に浸る。

開会は、奨学金のおかげで学業を続けられたというファーストジェネレーション(身内の中で初めての大学進学者)の卒業生の挨拶で始まる。貧しい家に生まれたがテレビで観たフットボールの試合に憧れてミシガン大学を志した、今の自分が在るのは奨学金の財源をなす卒業生からの寄付金ゆえだと感謝を表明する。
続く学長のスピーチは、寄付金がいかに大学運営の要であるかを数値で見せつける。ミシガン大学は州立大学でありながら州からの助成金は16%にとどまる。その差額を埋め、政府からの援助も内部資金の切り下げもなく今日まで大学の水準を維持し拡充させているのは、フットボールチームのビジネスと、卒業生からの寄付である。
ウエイターはどこか憮然とした表情をしている。学生だろうか。貧富の格差ゆえ底辺の地位を余儀なくされるも、富裕層からの寄付がなければ大学に居ることができない矛盾に若者は気づいている。

ここに顕現するのは、ビッグハウスを中心に形成された複雑かつ巨大な経済構造であり、そこへ精緻に組み込まれた関係者が抱くコミュニティへの帰属意識を資金源に構成される大きな〈家〉(hause,home)である。むろん、母校への帰属意識と愛着を契機とするこの空間はまさに一族が集う家と言うことができる。だが本編にみる個々のシーンー市場原理の支配、家事やケアを不可視・無償・低賃金の労働へと誘導する家父長制原理、マッチョイズムやミリタリズムーは、アメリカ社会に一般的な光景でありながら、じつはドメスティックな傾向を持ち、私的領域たる家庭に類比的でき、一つの〈家〉を形作る枠へと収斂する。

お帰りなさい、この大きな家へ!本編はミシガン大学と州の経済基盤であるビッグハウスという一つ屋根の下に、実際には雑多なバックグラウンドを持つ人々を擁しながら、何らかの帰属欲求を紐帯に集う家族(family)の形態を撮った作品と言えるだろう。

コンビニカフェを使う理由

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このひと月ほど、退勤後まっすぐ休憩に向かう場所がある。自転車で30分以上かかるコンビニに併設されたカフェ。コンビニも最近イートインコーナーを設ける店舗が増えているが、ここはとくにスペースが広く屋外席もある。写真はその一隅。

工場の並ぶ職場付近を離れ、自宅近くの文教地区まで約30分。そこから温泉街を抜け、さらに山辺へ向けて小川に沿って道なりに自転車をとばすと広い駐車場が見える。

客は雑多である。

大抵は付近の人が休憩に立ち寄るのだが、地元の高校生が宿題を広げ、外回りで一服する大人がおり、また温泉街から日用品や飲み物を買いに観光客が流れてくる。屋外は喫煙可能で、作業服やスポーツウエア姿の人が缶コーヒーやビール片手に煙草を吸う姿がある。

4人がけのテーブル席のほか、ふつうの飲食店でいうカウンター席のような席がガラス戸に沿って置いてあり、一人でぼーっとするにはこれが最適なのだ。新聞を読む人、書類記入する人、作業に没頭する人。比較的混んできても、ふつうのカフェとちがい座席を立たなくてはとソワソワすることはない。席数が多いせいもあるが、このスペースに入ったら基本、客はほっといてもらえる。
なので、常連さんはもちろんいるが、匿名を保てる場所ではある。

店内ではなく駐車場に車を停めて車内でくつろぐ人も多い。それも夕方に多い。たぶん外回りの仕事途中か、退勤後帰路につく人たちだろう。職場から家までの間に一拍置くため、であれば気持ちはよくわかる。自分がそうだからだ。怒涛の職場から直帰しても家には家の時間が流れていて、そこでは自分の呼吸リズムなどおかまいなしで家事や家族のご機嫌とりが待っている。いい子で居たらたちまち忙殺されかねない。

人間には「何者でもない」存在でいられる場所が必要なのだと思う。世間は人手不足で、しかし貧困ゆえ少ない賃金でmaxに働かせようとする上、一人にいくつもの役割を負わせる方向に流れている。市場における労働力としての「生産性」はもちろん生殖も担え、介護も忘れるな、それではじめて現代の「ふつう」の人として条件を満たせるのだと言わんばかりである。

周知のとおり、コンビニで売っている飲食物は決して身体に良くはない。しかし、安価で一人分から買える商品を手に入れ一服して、自分が自由であることー自分の都合とタイミングで食べたいもの飲みたいものを買って休むことができるというささやかな現実制御の快感ーをみな確かめようとしているような気がする。

自分を取り戻す。この大切だが難しいことを簡便に果たす場の提供を、地方のコンビニはしているのかもしれない。

「空室あります」の向こうに


帰り道はなるべく、生垣や軒にみずみずしい植物の活況がみられる道を選んで通っている。工業団地の趣が強い通勤先エリアとは異なる佇まいをゆっくり味わいたいからだ。

地元を出たい、離れたいと思いながらも自宅周辺を含む、山辺へ連なる一帯を私は好きで、散歩は楽しい。

そう思えるまでには時間がかかった。正確に言えば、そういうエリアが好きな自分を受け入れるのに抵抗があった。

このブログの初期をみればわかるように、一時期は一人暮らしに凄まじい執着を抱いていた。転職して、奨学金返済もようやく終わりが見えてきた今、ではそれにこだわるかというと引越しは保留にしてある。先月末わかった貧血で、バタバタしたり重いモノを運んだりするのはちょっと控えたい。

何より返済終了の解放感よりもこれまで払った金額の重み、それ以上に過ぎた時間を想って喪失感と虚脱感のほうが驚くほど強い。ちょっと前までは自家用車を買わなければならない事態を懸念してずいぶん悩んだ。悩んでも収入額は決まっていて、かつ支出は最大でも手元にある残高からしか払えないのだから不毛といえばそうなのだが、車の件は心身をかなり疲弊させたと思う。とにかく二重ローンは避けたい一心は今も変わりなく、結果、旅費以外の大きな出費はなるべく避ける方針でいる。


それでも数ヶ月前には市内でアパートを借りることも考えていて、もういっそこの際「スープの冷めない距離」でも良いかな?とさえ思ったことがある。というのはこの文字通り作りたてのおかずを鍋ごと持って行けそうな近所のアパートに空室が目立つからである。

空き家、空き部屋は最近よく目につく。少し前の記事で書いたように隣家が数年前から空き家だし、その奥に並ぶ住宅のうち一つが昨年消えた。戸建て以外にわが家の周辺には学生向けアパートも多いのだが、そこも全てが満室ではない。周知のとおり世代ごとの人口構造を見れば、大学や専門学校への進学者の大半を占める18歳人口は年を経るごとにその絶対数が減る。人口比からいえば圧倒的に多い高齢者はしかし、その人生を終える人も毎年一定数いるのでその人たちが去ったあと誰も住まなければ(というか売ることも貸すことも住むこともできない物件が今後続出すると思う)そこは空き家となる。ハコモノとしての物件と、そこへ入るはずの人間の数がアンバランスになる事態はおそらく日本中で顕著になるだろう。

いまや、不動産は資産という時代ではない。家や土地は維持管理のコストを計算に入れておかないと、はじめに資産価値があったとしても所有しないほうがよい。人の住まない部屋がどんなに傷みやすいか。手入れの行き届かない畑、使い途のない土地がどれほど人手と手間とお金を食っていくか。タンス預金としてお金を引き出しに放り込んでおくのとはわけが違う。何もせず放置、では済まされない特色が不動産にはある。家土地は生き物を世話するのと同じに考えておくのが良い。

住まいは、そこに生活の循環がなければすぐ淀みと停滞が発生する。仕事や家庭の事情で家をよく空ける人や複数ヶ所に住まいをもつ人はお解りだろうが、長く空けておいた住まいというのは戻ったらまず掃除から始まる。窓を開け風を通し、決まった日に出せるかわからなくてもゴミはまとめておく。そしてそこが単なる物置きや倉庫でないからこそ、ライフラインが通っていれば光熱費水道代もとうぜんかかる。

そういう二重生活を、身内の介護でせざるを得ない人もいる。自身の生活を抱えながら、もはや満足に住まいのメンテナンスが出来なくなって施設やケア付き住宅へ入居した家主の代わりに庭木を切り草を刈り、畑を世話する。そして家の中の不用品を処分して怒った家主と衝突して…という例に介護の仕事をしている友人は接するという。

空室あり。その先には自らの生活を作り、その住まいをちゃんと暮らせる空間として維持し育てていくコストがある。その負担の担い方は、たぶん経済成長前提のライフコースや家族形態をきちんと相対化した先にこそ、見えてくるはずだと思う。

舞台がはねたあとに

 祝福を。

 昨日は県内へ日帰りで遠出してきた。お目当ては芝居小屋での観劇。

列車が山間部へ入ると一気に時間の流れが変わる。特急車内の窓から海と、田植えが済んだばかりの水田に反射する光に目を細めた次の瞬間、新緑と渓流の輝く山間へ移るのだ。

 駅から降り立つとあちこちにアジサイギボウシが咲きかけている。町を流れる川辺の魚屋にはガス台のうえに鯖によく似た模様の大魚が串刺しで焼かれている(たいへん珍しい光景だと思うのに、写真を取り損ねてしまった・・・)。

 観劇がすんだ後、明治期からの街並みを残す保存区を歩く。

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 木造家の軒にとうきび。ほかに無人販売棚に売られる野菜や唐辛子の彩り、郵便受けに竹細工からなる昆虫や竹とんぼがある。
小川にかかる橋のたもとで涼む人々、用水路のかげで草とりする人、小路のすき間にめいっぱい草姿を広げるヤブガラシ
坂道に並ぶ木造建築のいくつかは土産物店やゲストハウスとして活かされている。

 そのうちの一つ、古民家を改造したカフェで一休み。

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アイスコーヒーを頼むと、手作りのクッキーをサービスで出してくださった。
店内には数人連れのグループが数組いて、一組は屋外に面したテーブルで、もう一組は畳敷きの部屋に置かれた椅子と卓上で歓談している。
けっこうご高齢の方が多い。看板メニューのぜんざいに匙を動かし、他愛ない会話をしてやがて帰っていく。

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 写真はお客が去った後の席。奥には上着の掛かったハンガーや箪笥がならび、日常の時間がまだ共に流れて見える。

 県内遠方から来るリピーターのお客さんが店主と言葉を交わす。

―ゆっくりしていって下さいよ、このあと特に用事とかないんでしょう?
―このあと?まあ別に急ぐ用事もないんだけど・・
―いいですねえ。こっちはここ(店)が終わったあといろいろありますよ・・


 そうだよねえ、と思う。これだけ居心地の良い空間を提供し、維持するためにはどれだけ労力と配慮を要するか。

 どの座席にも季節の花が生けてある。入口からカウンターに置かれた諸々の雑貨。風の通る動線。畳敷きの部屋も念入りな掃除が必要だろう。

 空間を提供する側も休みにくる側も、清濁併せた雑多な日々を生きて珠玉の時間へたどり着く。

 高齢社会と地方のあり様を思う。観劇の様子も思い出す。

 SNSでは先週から公共の場で騒ぐ子どもを注意しない保護者への非難とその反批判が飛び交っている。あれは注意の対象が子どもだからまだ言えるのではないかと思う。子どもがマナー違反や危険なことをした時力ずくで抑え込むことはありうるが、高齢者に対してはどうか。

 たとえば公演中に携帯を鳴らす、私語、それを同伴者がたしなめないことは大人それも高齢者のほうが深刻である。
でもやむを得ない中途入退場もあるだろう。歳をとると慢性的な不調を抱える人もいる。足腰が弱って移動だけでも時間がかかったり付き添いを必要としたりするから(子どものトイレも同様だが)休憩を長めにとるのも大切な配慮だと思う。自分の親がそうなるかもしれないし、自分がそうならないという保証もない。

 大正時代にこけら落としをした劇場の廊下には、地方芸能を支えた人々の様子が写真となって並んでいる。

 心地よい時間と空間を創るには、作り手と受け手双方の意識的な努力が要る。
 
 舞台がはねた後も、公演一座、観客、関係者、後援者にはそれぞれの持ち場で奮闘があるだろう。
 その芸に連なっていたいなら、自分が抱える矛盾を引き受ける力を各人が持っていることを信じて帰った日常で懸命に生きることが
よすがとなるのかもしれない。

 例のカフェはこちら。
https://ja-jp.facebook.com/cafedenjirou/

 ここだけでなく県内の佇まいあちこちが、どれほど自分を生かしてきたかと振り返っております。

役割を生きる

人間、社会の中で生きていれば、日々何らかの役割を負ってその日を回している。働いていれば勤務先での担当業務があり、一次産業従事者であれば日ごと季節ごとに生き物の世話があり、家では家事が待っている。介護や育児を担う人ならケアラーや親としての振る舞いをするだろう。

この役割は社会的立場を指すこともあるが、途方もなく面倒な所作や作業の積み重ねでもある。だが、役割には人を生かす側面があることを忘れてはならない。

阿部彩『弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂』

にあるように、社会的不利益を被る人々が「つながり・役割・居場所」を回復できなければ社会的排除は解決し得ないからだ。

何より、自分のしている所作・言動が意味ある行為として機能していることを誰もが願い、信じ、またそうあることが前提で日常生活における様々な行為は成り立っている。


ところが、AIの進化とりわけシンギュラリティへの到達は、人間社会から労働を消失させると予測されている。
それは所得を発生させる賃労働だけでなく、介護や家事を担うロボット等が普及すれば家事労働を代行させることもできる。

井上智洋はAIが人間社会にもたらす影響として、将来的には人間の有用性ではなく生それ自体が価値をもつという価値観へ移行するであろうと、有用性に至高性を対置するバタイユの思想を紹介しながら提言する。そして大量の失業に備えてベーシックインカムの導入を勧めるのが井上氏の主張である。

もしそうなったとして、私たちはその状況に耐えられるだろうか。

AIによる労働の代替は、様々な領域で人々を既存の役割から解放するだろう。しかしそれは役割からの排除であるかもしれない。

そんな中、これまで有り得なかった役割や立場を自ら生み出す人もいる。YouTuberも、インターネットと個人が所有できる通信手段が普及した現代ならではの役割だ。
たとえば、「無駄なモノを作って稼ぐ」24歳女子がたどり着いた、新しい生き方
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53919


一方で国内の人手不足がこのまま深刻化すれば、これまで複数人で担っていたあれこれの役目を一人が引き受けざるを得ない状況を強いられるかもしれない。シングルタスクのみをやっている人への非難が今より強くなる可能性はある。たとえば専業主婦や仕事一筋に生きる人々に対して、自ら稼働所得を得ていないことよりも「一人一役なんてずるい」、私は仕事も家事も育児も介護もやっているのに家事だけ仕事だけなんてラクしすぎ、という方向の非難が出るのでは?と思う。

役割からの排除・疎外か、役割の過剰か、はたまた新たな役割の創出か。

自分の役割を自由に定義できる時代が到来しても、役割からほんとうに自由で居ることはやっぱり難しいだろうと思うのです。

脈うつ時間が戻るとき

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隣家のムクゲのつぼみが膨らみ、昨日咲いた。わが家の食堂から夏を感じる。

お隣は空き家だ。四年前、高齢で一人暮らしをしていたおばさんが亡くなった。以来誰も住むことなく、週末ごとに入れ替わり立ち代わり親族の方やシルバー人材センターの人が来て、家とその敷地内とくに広大な庭の片づけに精を出してきた。

現在、この庭は整地されて植物は丹念に刈り込まれ、花木は青葉をなし敷地の中央にはわずかに野菜が植えられて今はパセリの花が咲いている。この状態にもってくるまでまる四年を要した。何しろそれまでは、大型の植木鉢やプランター、その他園芸用品や家財道具が溢れかえっていたのだから。その膨大なモノたちは、おそらく加齢からくる体力の低減によりおばさんの手に負えなくなってやむなく放置のかたちをとっただけではあるのだが。

おばさんは、この庭を本当は花でいっぱいにしたかったらしい。彼女の自宅前に広がる敷地に鉢植えや花の苗を買ってきて置いた。地植えの花や野菜もつくるべく、たまに鍬で土を耕し、その苗を植えた。しかしその敷地は広く、歳をとった女性の体力と腕力にはちょっとコントロールしかねるもので、結局は雑草や木々の枝葉が繁る勢いの方が勝ってしまい、周囲にはいわば荒れ果てて見えることが時折あった。

おばさんが亡くなったとき、御身内の方がみえて随分恐縮した様子でお詫びを仰った。ーご迷惑をおかけしまして、と、いやいや私たちは別にそんなふうに思ったことはないのだが。ただ、ここのお宅とあの庭はどうなるのだろうというのが両親と私の疑問だった。

はたして、家屋と庭は残った。週末や時あるごとにおばさんの身内の方やシルバー人材センターの人たちが敷地に入り、少しずつ整地を進めていった。植木鉢やプランターは動かすのもけっこうな労力が要る。下草は、ちょうど今のような初夏なら刈ってもすぐ生えてくる。もともとこぼれ種で殖えていたと思われる草花ージュウニヒトエ、オドリコソウ、ムスカリツルニチニチソウハナニラモモイロヒルザキツキミソウなどーが思いがけず一定期間咲いては驚き、大地のポテンシャルとでも言うものに感心した。

それにしても、ある空間が自然の生命連鎖を具えた時間を取り戻すには何という期間と労力が要ることだろう。冬にはレモンが実り、初夏にはムクゲが咲き、ブロックの下に青紫蘇がこんもり繁るー、この季節に応じた生命のリズム。芽吹き、咲き、実り、枯れ、新たに生えるという繁殖のループは自然界では当たり前のように見えて、しかしそれは非常に微細な条件の束から成っており、わずかなほころびで歯車は欠け、軋む。昨今の高齢社会はちょうど再生産のループが機能不全に陥るか止まりかけた状態なのだと思う。


想田和弘監督の映画『港町』を観て上記を痛感する。

http://minatomachi-film.com

高齢化が進んだ港町で、手間暇をかけて漁り丁寧にさばかれた魚は、人間にあっては老いた者の口へ、猫にあっては子猫のもとへ運ばれる。同じ海でとれる魚は、前者は世を去る日の近い者を養い、後者は新たな命の糧となる。再生産のループの果てに居る、あるいはそのループから外された(子どもを頼りに生き甲斐に暮らすことさえ断たれた女性が終盤に出てくる)人間たちと、人間が与える餌で繁殖のループを勢いよく回復させる猫たちとの対比。

想田作品はじつに、命ある身体をそなえた生き物がただ一個さえ生きることにも、それを可能にする微細な条件や過程を、社会や制度、感情の機微以外の観点から浮き彫りにしてくれる。

一個の生命、一隅の空間が生命をもって十全に存在し切ることの難しさ。それを顧みない思想や行為はやがて、命ある時間のループから外れていくのだろう。

アクセシビリティのさまざま


ある人が相対的に他の人より資源を多く所有していたとしても、それは必ずしも自由や力を有すること、豊かさ、社会的アドバンテージを意味しない。

所有する資源、財ーたとえば金銭、食料、土地、電子機器類などーを多く持っていても、その人が自分の意思で使うことができなければその人はディスエンパワーされている。その人の意思決定が通る環境か。女性はとくに夫や親の反対で進学や労働参入、スキルアップを阻まれることが多い。かつて女性の生き方として規範化されていた専業主婦という立場の葛藤を、想起してみるとよい。とりわけ地方在住の、非正規雇用で経済状態が不安定なため親元に居住する未婚女性には上記以外にも様々な制約が生じる。

食材がたくさんあっても貧困ゆえまともな調理設備のある部屋に住めない若い人は、健康的な食事をとることが難しい。また加齢による体力・筋力の衰えゆえに、かつてできていた炊事ができなくなった高齢者を想定してもよい。さらに病気や障害のために身の回りのことが自力でできない人たちも同様である。

金銭そのものを多く所有していても、「ふつうの生活」をするには異様に高いコストを支払わねばならない人たちがいる。交通アクセスが悪い、公共交通機関が未整備な土地だと自家用車が必須だが、クルマがその購入費のみならず維持費にかなりの金銭を要する乗り物であることは周知の通りである。で、クルマを買えない、運転できない人は「ふつうの生活」に必要な当たり前の移動に相当な不便を強いられる。

概ね地方在住者は、大都市圏に住む人々よりもアクセシビリティの面で不利である。とくに知的文化的情報面でそれは顕著になる。大都市圏居住者が気軽にアクセスできるイベントや集まりに、地方在住者はそのつど遠距離移動の予定を立てなければならない。交通手段の切符をおさえ、場合によっては宿を予約する。週末朝から移動となれば、その週は疲れを溜めないよう体調をセーブしなければならない。思いつきで当日知った集まりに行く、などは難しい。


貧困や社会的不利益に考察をめぐらせる時には、資源を機能に変換するためにかかるコストを、物理的・心理的負担の両方から正視する必要がある。A.センが提唱した「ケイパビリティ」の制限、剥奪は様々な局面で起きているが、支援や補填を得るための情報にアクセスすること自体が困難であるか、莫大なコストがかかるケースがある。置かれた境遇や属性の異なる人々が同じ機能を得るのに必要なコストは同じではない。格差是正を考えるさいに、その人が必要とする機能に対してどれだけアクセスしうるかという観点は、決して万能でないにせよ当該者の置かれた環境に目を向けるために有用であるだろう。