いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

コンビニカフェを使う理由

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このひと月ほど、退勤後まっすぐ休憩に向かう場所がある。自転車で30分以上かかるコンビニに併設されたカフェ。コンビニも最近イートインコーナーを設ける店舗が増えているが、ここはとくにスペースが広く屋外席もある。写真はその一隅。

工場の並ぶ職場付近を離れ、自宅近くの文教地区まで約30分。そこから温泉街を抜け、さらに山辺へ向けて小川に沿って道なりに自転車をとばすと広い駐車場が見える。

客は雑多である。

大抵は付近の人が休憩に立ち寄るのだが、地元の高校生が宿題を広げ、外回りで一服する大人がおり、また温泉街から日用品や飲み物を買いに観光客が流れてくる。屋外は喫煙可能で、作業服やスポーツウエア姿の人が缶コーヒーやビール片手に煙草を吸う姿がある。

4人がけのテーブル席のほか、ふつうの飲食店でいうカウンター席のような席がガラス戸に沿って置いてあり、一人でぼーっとするにはこれが最適なのだ。新聞を読む人、書類記入する人、作業に没頭する人。比較的混んできても、ふつうのカフェとちがい座席を立たなくてはとソワソワすることはない。席数が多いせいもあるが、このスペースに入ったら基本、客はほっといてもらえる。
なので、常連さんはもちろんいるが、匿名を保てる場所ではある。

店内ではなく駐車場に車を停めて車内でくつろぐ人も多い。それも夕方に多い。たぶん外回りの仕事途中か、退勤後帰路につく人たちだろう。職場から家までの間に一拍置くため、であれば気持ちはよくわかる。自分がそうだからだ。怒涛の職場から直帰しても家には家の時間が流れていて、そこでは自分の呼吸リズムなどおかまいなしで家事や家族のご機嫌とりが待っている。いい子で居たらたちまち忙殺されかねない。

人間には「何者でもない」存在でいられる場所が必要なのだと思う。世間は人手不足で、しかし貧困ゆえ少ない賃金でmaxに働かせようとする上、一人にいくつもの役割を負わせる方向に流れている。市場における労働力としての「生産性」はもちろん生殖も担え、介護も忘れるな、それではじめて現代の「ふつう」の人として条件を満たせるのだと言わんばかりである。

周知のとおり、コンビニで売っている飲食物は決して身体に良くはない。しかし、安価で一人分から買える商品を手に入れ一服して、自分が自由であることー自分の都合とタイミングで食べたいもの飲みたいものを買って休むことができるというささやかな現実制御の快感ーをみな確かめようとしているような気がする。

自分を取り戻す。この大切だが難しいことを簡便に果たす場の提供を、地方のコンビニはしているのかもしれない。