いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

脈うつ時間が戻るとき

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隣家のムクゲのつぼみが膨らみ、昨日咲いた。わが家の食堂から夏を感じる。

お隣は空き家だ。四年前、高齢で一人暮らしをしていたおばさんが亡くなった。以来誰も住むことなく、週末ごとに入れ替わり立ち代わり親族の方やシルバー人材センターの人が来て、家とその敷地内とくに広大な庭の片づけに精を出してきた。

現在、この庭は整地されて植物は丹念に刈り込まれ、花木は青葉をなし敷地の中央にはわずかに野菜が植えられて今はパセリの花が咲いている。この状態にもってくるまでまる四年を要した。何しろそれまでは、大型の植木鉢やプランター、その他園芸用品や家財道具が溢れかえっていたのだから。その膨大なモノたちは、おそらく加齢からくる体力の低減によりおばさんの手に負えなくなってやむなく放置のかたちをとっただけではあるのだが。

おばさんは、この庭を本当は花でいっぱいにしたかったらしい。彼女の自宅前に広がる敷地に鉢植えや花の苗を買ってきて置いた。地植えの花や野菜もつくるべく、たまに鍬で土を耕し、その苗を植えた。しかしその敷地は広く、歳をとった女性の体力と腕力にはちょっとコントロールしかねるもので、結局は雑草や木々の枝葉が繁る勢いの方が勝ってしまい、周囲にはいわば荒れ果てて見えることが時折あった。

おばさんが亡くなったとき、御身内の方がみえて随分恐縮した様子でお詫びを仰った。ーご迷惑をおかけしまして、と、いやいや私たちは別にそんなふうに思ったことはないのだが。ただ、ここのお宅とあの庭はどうなるのだろうというのが両親と私の疑問だった。

はたして、家屋と庭は残った。週末や時あるごとにおばさんの身内の方やシルバー人材センターの人たちが敷地に入り、少しずつ整地を進めていった。植木鉢やプランターは動かすのもけっこうな労力が要る。下草は、ちょうど今のような初夏なら刈ってもすぐ生えてくる。もともとこぼれ種で殖えていたと思われる草花ージュウニヒトエ、オドリコソウ、ムスカリツルニチニチソウハナニラモモイロヒルザキツキミソウなどーが思いがけず一定期間咲いては驚き、大地のポテンシャルとでも言うものに感心した。

それにしても、ある空間が自然の生命連鎖を具えた時間を取り戻すには何という期間と労力が要ることだろう。冬にはレモンが実り、初夏にはムクゲが咲き、ブロックの下に青紫蘇がこんもり繁るー、この季節に応じた生命のリズム。芽吹き、咲き、実り、枯れ、新たに生えるという繁殖のループは自然界では当たり前のように見えて、しかしそれは非常に微細な条件の束から成っており、わずかなほころびで歯車は欠け、軋む。昨今の高齢社会はちょうど再生産のループが機能不全に陥るか止まりかけた状態なのだと思う。


想田和弘監督の映画『港町』を観て上記を痛感する。

http://minatomachi-film.com

高齢化が進んだ港町で、手間暇をかけて漁り丁寧にさばかれた魚は、人間にあっては老いた者の口へ、猫にあっては子猫のもとへ運ばれる。同じ海でとれる魚は、前者は世を去る日の近い者を養い、後者は新たな命の糧となる。再生産のループの果てに居る、あるいはそのループから外された(子どもを頼りに生き甲斐に暮らすことさえ断たれた女性が終盤に出てくる)人間たちと、人間が与える餌で繁殖のループを勢いよく回復させる猫たちとの対比。

想田作品はじつに、命ある身体をそなえた生き物がただ一個さえ生きることにも、それを可能にする微細な条件や過程を、社会や制度、感情の機微以外の観点から浮き彫りにしてくれる。

一個の生命、一隅の空間が生命をもって十全に存在し切ることの難しさ。それを顧みない思想や行為はやがて、命ある時間のループから外れていくのだろう。