いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

アメリカという大きな家ー想田和弘編集『ザ・ビッグハウス』に寄せてー


http://thebighouse-movie.com

ミシガン大学アナーバー校が所有し、同大学のアメリカンフットボールチーム「ウルヴァリンズ」の本拠地である巨大なスタジアム。その通称ビッグ・ハウスを題に冠したこのドキュメンタリーには「アメリカ国家の縮図」を描いたという評言が多々寄せられている。たしかにミシガン・スタジアムで繰り広げられる試合前の壮大なパフォーマンスや華やかなチアリーディングにみるショー・ビジネスの断片、厳重なセキュリティ・チェックや国家斉唱シーン等にみるナショナリズムや軍との一体性などからそうした見方は的を射ているといえよう。しかし本作品があぶり出すのは、ここに「社会の縮図」として映し出されるシーンの集積がじつは「大いなる家」を構成していることである。


第一に、ここで克明に描かれるのはスタジアムに投影されるこの「家」をフィジカルな面で維持する人々がなす、ハウスキーピングの様子である。カメラはスタジアム内外で試合前後の様々な舞台裏を映す。キッチンのバックヤードでは観客、報道陣、その他スタッフに供する大量の業務用食材が大鍋や大型鉄板で形をなしてゆく。スタジアムの清掃では巨大な清掃用具によって広大な観客席のゴミがシステマティックに取り除かれる。それらの仕事は一部機械化および自動化されていながら貧しい若い人の手仕事に成る大規模なドメスティック・ワークなのだ。そう考えると、イベント終了後のキッチンでライトを点滅させながら作動する食洗機に据えたカメラが水をかぶりつつ撮る映像さえ、あたかも雨夜にともる家の明かりのように見える。


第二に、市場原理が隅々まで支配する社会でありながら、そのサービスに家庭・家族という私的領域の特徴がにじみ出てているのが興味深い。たとえばゲート付近を回る水売りの売り文句にそれは顕われる。「並ばずに冷たい水が飲めるよ」。家で気軽に飲むように、と捉えることもできる。本来市場というセクターの外部である家庭特有のくつろぎや便利さを売りにしたサービスが、わずかな金額でも市場を介して提示される。
一方、ゲート前でチョコレートを売る幼い少年の後ろには屈強な父親が控え、命令する。貧困家庭の子どもが父権の圧力で物を売る行為を強要されている。
また本編中盤には定時ではベッドメイキングが間に合わないため定時よりも早く出勤して医務室で準備する女性救護班員が出てくる。しかし賃金は定時分だけで、早出した分は無償労働となる。医療・看護を含むケア労働が時間外のアンペイドワークによって支えられている現実の一側面がある。運ばれる患者の多くが急性アルコール中毒で、あたかも乱痴気騒ぎの後始末を家族がしているかのようだ。


第三に、この「家」の拡充と再生産をメンタルな面で強力に支えているのは、ビッグハウスに関わる人々が有する、きわめてドメスティックな様相を呈するつながりや帰属意識である。
とりわけ目を惹くのはミシガン大学の卒業生たちが見せる愛校心と大学コミュニティへの帰属意識だ。キャンパス付近の路傍ではニューヨークから来たというラッパーが誰にでも陽気に話しかけるかたわら、ある卒業生が教授を呼び止め「娘が先生の講演に行きました」と挨拶する。彼が教授と語る在学中の思い出話は、一つの大学内部で繰り広げられる内輪の話題である。それはラッパーが具現するオープンマインドとは対極の、同属内部への閉鎖的なベクトルを持つ関係である。冒頭の挨拶で娘を話題にするのも、教授の影響が教え子からその子に連綿と続いているかのようで、血縁のつながりを連想させる。その点で卒業生たちの言動はdomestic(家庭の、家庭的な)な印象を抱かせる。
ほかに、国歌斉唱時に嬉々として着帽する男性は自らの軍役を通した国家への貢献と帰属意識を確かめている。ゲート付近の伝道者は信徒として神の家族への、またスタジアムの清掃後にミサへ向かう人々は教会コミュニティへ帰属し集うことへの喜びを抱いているだろう。これらの人々の帰属欲求はアメリカ国家の体制やメンタリティを支えているという点でdomestic(国内の、国政の)と言える。
このグローバルでもコスモポリタンでもないドメスティックなつながりは、国家、宗教などを当該コミュニティとするホーム(home)への帰属欲求という性格を有している。それらは私的領域たる家庭を思わせる特徴を色濃く漂わせながらも、各々のナショナル・アイデンティティの一端を担い、アメリカ国家という公的体制の形成と維持に寄与しているのだ。


第四に、ビッグハウスに集う者たちの愛校心と帰属意識は この「家」にとって不可欠な資金供給源となっている。VIPルームでは大学に多額の寄付をした卒業生が一家でくつろぎながら試合を観戦する。「ここの使用料の金額を聞いたら驚くでしょう、しかし愛する母校の試合を間近に見られるならこんな良いことはない」ー、そのように興奮気味に、感慨深い様子で彼は語る。「3人の子どもたちもここの卒業生」だという。部屋の隅には幼い子どもたちが遊び、卓上にはチキンサラダのボウルが置かれ、室内はさながら家庭の休日を思わせる。このように卒業生たちがそれぞれ作り上げた「小さな家」が投ずる巨額の寄付金がミシガン大学の運営基盤を形作り欠かせない動力であることは、終盤のパーティーシーンでより明瞭になる。

ホームカミングデー・パーティーの様子は圧巻だ。中高年となった卒業生たちは次々に着席し、それぞれの職業人生を語り合う。卒業後就いた仕事と得た地位でいかなる社会貢献を果たしたか、突き詰めれば各々の存在意義にまで行き着くその出発点こそはこの母校なのだ。そのことを確かめ合うホールは懐古と郷愁に満ち、参加者は懐かしい故郷に浸る。

開会は、奨学金のおかげで学業を続けられたというファーストジェネレーション(身内の中で初めての大学進学者)の卒業生の挨拶で始まる。貧しい家に生まれたがテレビで観たフットボールの試合に憧れてミシガン大学を志した、今の自分が在るのは奨学金の財源をなす卒業生からの寄付金ゆえだと感謝を表明する。
続く学長のスピーチは、寄付金がいかに大学運営の要であるかを数値で見せつける。ミシガン大学は州立大学でありながら州からの助成金は16%にとどまる。その差額を埋め、政府からの援助も内部資金の切り下げもなく今日まで大学の水準を維持し拡充させているのは、フットボールチームのビジネスと、卒業生からの寄付である。
ウエイターはどこか憮然とした表情をしている。学生だろうか。貧富の格差ゆえ底辺の地位を余儀なくされるも、富裕層からの寄付がなければ大学に居ることができない矛盾に若者は気づいている。

ここに顕現するのは、ビッグハウスを中心に形成された複雑かつ巨大な経済構造であり、そこへ精緻に組み込まれた関係者が抱くコミュニティへの帰属意識を資金源に構成される大きな〈家〉(hause,home)である。むろん、母校への帰属意識と愛着を契機とするこの空間はまさに一族が集う家と言うことができる。だが本編にみる個々のシーンー市場原理の支配、家事やケアを不可視・無償・低賃金の労働へと誘導する家父長制原理、マッチョイズムやミリタリズムーは、アメリカ社会に一般的な光景でありながら、じつはドメスティックな傾向を持ち、私的領域たる家庭に類比的でき、一つの〈家〉を形作る枠へと収斂する。

お帰りなさい、この大きな家へ!本編はミシガン大学と州の経済基盤であるビッグハウスという一つ屋根の下に、実際には雑多なバックグラウンドを持つ人々を擁しながら、何らかの帰属欲求を紐帯に集う家族(family)の形態を撮った作品と言えるだろう。