いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を変えたく奮闘中。既定路線から降りても研究と執筆を開花させるには?人生の時間比率は自分仕様に!

私というフォルム


この半年間、自分の身につける物を選ぶときにサイズを頻繁に間違えている。職業訓練で購入したテキスト用の鞄、転職先の制服のサイズ、通勤中に羽織ろうと売れ残り値引きで買ったSサイズのフードなしパーカー、ペンケース、1.5cm程度大きいばかりに引出しへの収まりが悪い道具箱。

実質わずか数センチの差にすぎないのだが、いざ着用したりモノを入れたりすると明らかに合わない。無視して使い続けることはとてもできないので、手放して別の物に取り換える。

この半年に起きた職と社会的立場の大きな変化は生活様式の変化であり、勤務先や扱うモノの変化は移動の動線やハビトゥスを変える。とうぜん、それを助ける道具や服装も変わってくる。それらがきちんと選べない&入手できないということは、どんな物が今の自分に相応しいか、今自分がどういう立場なのかという認識をとらえ損ねていたことを意味する。

早い話がトレンチコートとフード付きパーカーでは合わせる服装も相応しい身のこなしもちがう。要するに最近になってようやく自分に起きた形式ーstyleとformの変化を具象レベルで実感しているところなのだ。

最近、仕事では図面を描くことが続いている。研究対象となる物を観察し、その結果を精緻に方眼紙に図化していく作業である。かなり目が疲れ、神経を使い集中力が要る。まずモノを正確に据えて、次に外形となる点を落とし、一周したらモノを見ながらその点をつないで線を描いてゆく。そうやって出来た外形線、モノの輪郭が全ての基本となる。

描いた図面は上司がチェックする。この人は長い間それに従事してきた熟練者だ。これ以外にも色んな仕事を経験していて有能な人なのだが、何より目をみはるのはその卓越した管理能力である。ご自身でも「段取り魔」なのだと言う。
—段取りを決めて早めにこなしておけば、なにか起きてもすぐ対応できるでしょう?というのがご本人の言い分なのだが、その緻密な計算と計画は仕事のみならずかの人の生活隅々に息づいてみえる。

 段取りはフォルムをつくる。

個人がなす行為、仕事、生活様式や人生の軌跡においてstyleやformを考えるとき、上記の点に相当するものに段取りは含まれる。ここに、熟慮されたplan(計画、設計)、design(構想、設計)といった個人が意図して内面に抱くイメージを現実生活の中で具体的な形にしていく思考形態が浮かび上がる。

 もちろん予期せぬ出来事ーアクシデント、トラブル、予想だにしなかった幸運、人やモノとの出会い、偶然性のすべてーもまた、その人に固有のフォルムを形づくる。だがおそらくこの人が心の奥で望んでいるのは、かれ自身にしか生み出せない無二の形、ありていに言えば独創的な人生をつくることなのだろう。
 
 図面といえばイベント会場のレイアウトなんかも自ら考案し作図し、かつその配置はすべて頭に叩きこんである、だから何があっても対応できるのだー、そういう内容のことを仰るのも聞いた。だいたい今携わっている事業じたい、たとえばここ数ヶ月の作業を工程全体を見ながら割く時間や労力を加減するように、自身のworkなり業界の今後なりの全体を見据えてその位置づけをつかんでいる。

 それらはむき出しの野心とワンセットであり、私はそこに過ぎ去った近代精神の典型とともに新プラトン主義の残影さえ見る思いでいた。
 
 しかし深く考えを巡らせてみると、きっとその手こそは、観察結果の図化、イメージやコンセプトの具象化、思い描く構想を思い描いたとおりに実行に移すことの難しさを誰よりも知っているはずなのだ。たとえ内々でも対外業務でも事をスムーズに進めるために根回し、念押し含めてそのつど動き、調整をはかってきたのだろう。「図」をより明瞭にこの上なく輝きを放つものとして浮かび上がらせるための「地ならし」への傾注は、どんなworkにも欠かせない。


ひるがえって私はどうか。

図面に必要な形はよほど集中して観察しないとまだつかめない。

私生活では実家住まいで、自分の段取りはいつ脅かされるかわからない。家の中に自分の動線などないに等しく、とくに台所は家族の気まぐれによって自分の意志や意図でなす動きは必ずと言ってよいほど寸断される。自室も時期によってはPCや机を使いに家族が入るため、一部の文献はカバーをして背表紙を奥に置いている。

地元は交通が不便で文化的流通も良いと言えず、望むものにアクセスするには都会の五倍くらい時間がかかる。自分のモビリティ改善には車の運転がどうやら不可欠らしいが、両親それぞれが所有する車は介護の都合で週末はふさがっている。

そもそも身の振りが行き詰った九年近く前を想起しても、もし当時有益な知識や情報を得られたとしても自分の根源的な望みや意志はとても通らなかっただろうなと思う。他人の胸三寸や時の政治や制度の都合で前途が断たれることも人生にはあるのだと思うしかなかった。

それゆえあの頃から私が実践してきたのは、いわば出来事や対象との対話によってつくられる軌道を人生のフォルムとする方法だった。手近な目の前のことに集中してそこから得られる反応や手応えを受けて次やるべき事を浮彫りにして、それらによって形成される作業の流れや動線に自らを重ね軌道に乗せる。

たとえば粘土や肉だねをこねる、球を投げるのと同じで、一連の動作にも自分の身体を通して返ってくる対象の反応をみて次の一手を決めるというプロセスの連続によって形はできてくる。つる植物が、環境との相互作用の中で成長の過程をそのまま独自の草姿として無二のフォルムを所産としてつくりだすように。

そうして同世代が踏む既定路線から外れた就活や軌道修正に励んで数年を過ごした。当時はまだそれを愉しむ余裕もあったのだが。

 わたしの輪郭、わたしのフォルム。
 わたしそのものとしての形。

 半年間それらをつかみあぐねていた。
 

 内面形相をモデルとした人生設計も、自らを素材として差し出したり、他者や世界の感受やケアにまわる生き方もしっくりこない。物質に先立って個人が内面に抱き描く形でもなく、物質から現れる形を物にひざまずき受動的に汲み取る方向でもなく。

〈能動態-受動態〉の図式に収まらない「中動態」という概念がヒントの一つとして思い浮かぶ

 それ以上に自分が惹かれるのは、所与としての既存の世界に埋め込まれた、新しく価値や意味のある何か—作品のこともある—を見いだすこと、(再)発見することによる創造性である。たとえば日常世界に埋没しているある物やその配置が、ある時ある個人の身体を通して知覚されることで無二の光景(シーン)として形を結ぶことがある。その眼や皮膚を通してそれは埋没から明るみに引き上げられ、一枚のタブローのように光を放つだろう。詩や映画の制作にあって、素材というより作品それじたいが、世界の隅々に埋まっていると考えられる。また経験や学習の蓄積は、出来事や対象を迎え撃つ側の感性や知覚、発見の能力を鋭く研ぎ澄ます。世界の「意識化」によって世界との対話をひらき、〈世界と共に在る〉あり方が可能となる(P.フレイレ)ように、個人がモノや出来事との相互作用や応答によって世界への信頼を紡ぎなおす過程の創造性を見たい。
その一べつ、気づき、ある一つの光景として知覚・感受されるその一瞬が創造であり、作品たりうることを、私は何らかの形で示していくでしょう。