いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

実りのメタファー

祝福を。

叔父から畑でとれた空豆を大量にもらったので、すべてサヤから出した。

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けっこうな量である。サヤごと冷凍保存するのが最適らしいが、冷凍庫スペースに限りもあるので全部剥くことにした。で、2時間ほどかかって作業を終え、ボウルに持っていま夕飯。

豆類は食べるのに手間がかかる。生では決して食べられないものだから、水に漬けて置き毒抜きせねばならない。その前にサヤから出すのが大変だ。一個85円とかで売られている餡饅頭は、到底その手間に見合った値段ではない。

青く膨らんだサヤを開き、袋に繋がった豆をボウルに開けていく。さっきまでサヤとしっかり繋がれていた豆は、それぞれ異なる形と艶をもち、外の世界へ放たれる。サヤそして親株と一体だったものが分化して、別の個体となって現れる。

実りとは、孤独のメタファー。

豆も芋も地上に成る実も、最初はある個体と一体だった。それが、時が来てもうその株に留まっていられない状態となり、別の個体となって生きていく。果実はやがて枝の繋ぎ目を離れる。一体化し、調和していた世界から切離され、世界との絆や信頼を自らの命によって再び結び直す過程が、放たれた実りの使命である。孤絶していては世界との対話はできない。世界に参加(語弊のある表現だが)することも格闘することも。傷つくことを含めた生きるための奮闘が、たとえ死や敗北につながっても、相互作用がそこには在る。自らの意志で生を享けたわけでなく、個体にとってはいわば意図せず無理やり世に出された命はしかし、そこでそれ自身にしか感受できない光景を経験する。

人間が世界と関わるための手段は、インターネットの発達によってグッと増えた。情報や思想の受発信はかなり容易となった。皆が意味ある生を求め、世界への意味づけを求め、あたかも世界を手中に収めることさえ実現間近に思うクラスタさえ居る。イメージも表象も氾濫している。それが人を救うこともある。そうした世界への働きかけは自発的、能動的になされているように見えるけれども、人を発信に駆り立てる契機や、世界と向き合わざるを得ない姿勢そのものが、人間存在の決定的な受動性を顕現しているように私には見える。そうせずにはいられないほど、依然として生は恐怖と徒労に満ちており、イメージや言語や様々なアート、技術によって人は世界への意味付与を試みる。

生き物の脆弱さは次のような営みだ。蔓植物の芽が虚空をさまよう。その先が土に触れれば根を生やし、壁や木に触れれば茎を伸ばし、光と雨を求めて葉を拡げる過程はひたすら受動的である。そうして条件がそろえば実を結ぶ。

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その実りがまた、上記の過程を繰り返す。孤独のうちに偶然に身を任せる軌道はそのまま無二の草姿として、固有のフォルムを具現する。

そのようなプロセスを妨げるものは数多あるけれども、肉塊にすぎないはずの生き物は明日も手を伸ばして進む。