いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を変えたく奮闘中。既定路線から降りても研究と執筆を開花させるには?人生の時間比率は自分仕様に!

「空室あります」の向こうに


帰り道はなるべく、生垣や軒にみずみずしい植物の活況がみられる道を選んで通っている。工業団地の趣が強い通勤先エリアとは異なる佇まいをゆっくり味わいたいからだ。

地元を出たい、離れたいと思いながらも自宅周辺を含む、山辺へ連なる一帯を私は好きで、散歩は楽しい。

そう思えるまでには時間がかかった。正確に言えば、そういうエリアが好きな自分を受け入れるのに抵抗があった。

このブログの初期をみればわかるように、一時期は一人暮らしに凄まじい執着を抱いていた。転職して、奨学金返済もようやく終わりが見えてきた今、ではそれにこだわるかというと引越しは保留にしてある。先月末わかった貧血で、バタバタしたり重いモノを運んだりするのはちょっと控えたい。

何より返済終了の解放感よりもこれまで払った金額の重み、それ以上に過ぎた時間を想って喪失感と虚脱感のほうが驚くほど強い。ちょっと前までは自家用車を買わなければならない事態を懸念してずいぶん悩んだ。悩んでも収入額は決まっていて、かつ支出は最大でも手元にある残高からしか払えないのだから不毛といえばそうなのだが、車の件は心身をかなり疲弊させたと思う。とにかく二重ローンは避けたい一心は今も変わりなく、結果、旅費以外の大きな出費はなるべく避ける方針でいる。


それでも数ヶ月前には市内でアパートを借りることも考えていて、もういっそこの際「スープの冷めない距離」でも良いかな?とさえ思ったことがある。というのはこの文字通り作りたてのおかずを鍋ごと持って行けそうな近所のアパートに空室が目立つからである。

空き家、空き部屋は最近よく目につく。少し前の記事で書いたように隣家が数年前から空き家だし、その奥に並ぶ住宅のうち一つが昨年消えた。戸建て以外にわが家の周辺には学生向けアパートも多いのだが、そこも全てが満室ではない。周知のとおり世代ごとの人口構造を見れば、大学や専門学校への進学者の大半を占める18歳人口は年を経るごとにその絶対数が減る。人口比からいえば圧倒的に多い高齢者はしかし、その人生を終える人も毎年一定数いるのでその人たちが去ったあと誰も住まなければ(というか売ることも貸すことも住むこともできない物件が今後続出すると思う)そこは空き家となる。ハコモノとしての物件と、そこへ入るはずの人間の数がアンバランスになる事態はおそらく日本中で顕著になるだろう。

いまや、不動産は資産という時代ではない。家や土地は維持管理のコストを計算に入れておかないと、はじめに資産価値があったとしても所有しないほうがよい。人の住まない部屋がどんなに傷みやすいか。手入れの行き届かない畑、使い途のない土地がどれほど人手と手間とお金を食っていくか。タンス預金としてお金を引き出しに放り込んでおくのとはわけが違う。何もせず放置、では済まされない特色が不動産にはある。家土地は生き物を世話するのと同じに考えておくのが良い。

住まいは、そこに生活の循環がなければすぐ淀みと停滞が発生する。仕事や家庭の事情で家をよく空ける人や複数ヶ所に住まいをもつ人はお解りだろうが、長く空けておいた住まいというのは戻ったらまず掃除から始まる。窓を開け風を通し、決まった日に出せるかわからなくてもゴミはまとめておく。そしてそこが単なる物置きや倉庫でないからこそ、ライフラインが通っていれば光熱費水道代もとうぜんかかる。

そういう二重生活を、身内の介護でせざるを得ない人もいる。自身の生活を抱えながら、もはや満足に住まいのメンテナンスが出来なくなって施設やケア付き住宅へ入居した家主の代わりに庭木を切り草を刈り、畑を世話する。そして家の中の不用品を処分して怒った家主と衝突して…という例に介護の仕事をしている友人は接するという。

空室あり。その先には自らの生活を作り、その住まいをちゃんと暮らせる空間として維持し育てていくコストがある。その負担の担い方は、たぶん経済成長前提のライフコースや家族形態をきちんと相対化した先にこそ、見えてくるはずだと思う。

舞台がはねたあとに

 祝福を。

 昨日は県内へ日帰りで遠出してきた。お目当ては芝居小屋での観劇。

列車が山間部へ入ると一気に時間の流れが変わる。特急車内の窓から海と、田植えが済んだばかりの水田に反射する光に目を細めた次の瞬間、新緑と渓流の輝く山間へ移るのだ。

 駅から降り立つとあちこちにアジサイギボウシが咲きかけている。町を流れる川辺の魚屋にはガス台のうえに鯖によく似た模様の大魚が串刺しで焼かれている(たいへん珍しい光景だと思うのに、写真を取り損ねてしまった・・・)。

 観劇がすんだ後、明治期からの街並みを残す保存区を歩く。

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 木造家の軒にとうきび。ほかに無人販売棚に売られる野菜や唐辛子の彩り、郵便受けに竹細工からなる昆虫や竹とんぼがある。
小川にかかる橋のたもとで涼む人々、用水路のかげで草とりする人、小路のすき間にめいっぱい草姿を広げるヤブガラシ
坂道に並ぶ木造建築のいくつかは土産物店やゲストハウスとして活かされている。

 そのうちの一つ、古民家を改造したカフェで一休み。

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アイスコーヒーを頼むと、手作りのクッキーをサービスで出してくださった。
店内には数人連れのグループが数組いて、一組は屋外に面したテーブルで、もう一組は畳敷きの部屋に置かれた椅子と卓上で歓談している。
けっこうご高齢の方が多い。看板メニューのぜんざいに匙を動かし、他愛ない会話をしてやがて帰っていく。

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 写真はお客が去った後の席。奥には上着の掛かったハンガーや箪笥がならび、日常の時間がまだ共に流れて見える。

 県内遠方から来るリピーターのお客さんが店主と言葉を交わす。

―ゆっくりしていって下さいよ、このあと特に用事とかないんでしょう?
―このあと?まあ別に急ぐ用事もないんだけど・・
―いいですねえ。こっちはここ(店)が終わったあといろいろありますよ・・


 そうだよねえ、と思う。これだけ居心地の良い空間を提供し、維持するためにはどれだけ労力と配慮を要するか。

 どの座席にも季節の花が生けてある。入口からカウンターに置かれた諸々の雑貨。風の通る動線。畳敷きの部屋も念入りな掃除が必要だろう。

 空間を提供する側も休みにくる側も、清濁併せた雑多な日々を生きて珠玉の時間へたどり着く。

 高齢社会と地方のあり様を思う。観劇の様子も思い出す。

 SNSでは先週から公共の場で騒ぐ子どもを注意しない保護者への非難とその反批判が飛び交っている。あれは注意の対象が子どもだからまだ言えるのではないかと思う。子どもがマナー違反や危険なことをした時力ずくで抑え込むことはありうるが、高齢者に対してはどうか。

 たとえば公演中に携帯を鳴らす、私語、それを同伴者がたしなめないことは大人それも高齢者のほうが深刻である。
でもやむを得ない中途入退場もあるだろう。歳をとると慢性的な不調を抱える人もいる。足腰が弱って移動だけでも時間がかかったり付き添いを必要としたりするから(子どものトイレも同様だが)休憩を長めにとるのも大切な配慮だと思う。自分の親がそうなるかもしれないし、自分がそうならないという保証もない。

 大正時代にこけら落としをした劇場の廊下には、地方芸能を支えた人々の様子が写真となって並んでいる。

 心地よい時間と空間を創るには、作り手と受け手双方の意識的な努力が要る。
 
 舞台がはねた後も、公演一座、観客、関係者、後援者にはそれぞれの持ち場で奮闘があるだろう。
 その芸に連なっていたいなら、自分が抱える矛盾を引き受ける力を各人が持っていることを信じて帰った日常で懸命に生きることが
よすがとなるのかもしれない。

 例のカフェはこちら。
https://ja-jp.facebook.com/cafedenjirou/

 ここだけでなく県内の佇まいあちこちが、どれほど自分を生かしてきたかと振り返っております。

役割を生きる

人間、社会の中で生きていれば、日々何らかの役割を負ってその日を回している。働いていれば勤務先での担当業務があり、一次産業従事者であれば日ごと季節ごとに生き物の世話があり、家では家事が待っている。介護や育児を担う人ならケアラーや親としての振る舞いをするだろう。

この役割は社会的立場を指すこともあるが、途方もなく面倒な所作や作業の積み重ねでもある。だが、役割には人を生かす側面があることを忘れてはならない。

阿部彩『弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂』

弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂 (講談社現代新書)

弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂 (講談社現代新書)

にあるように、社会的不利益を被る人々が「つながり・役割・居場所」を回復できなければ社会的排除は解決し得ないからだ。

何より、自分のしている所作・言動が意味ある行為として機能していることを誰もが願い、信じ、またそうあることが前提で日常生活における様々な行為は成り立っている。


ところが、AIの進化とりわけシンギュラリティへの到達は、人間社会から労働を消失させると予測されている。
それは所得を発生させる賃労働だけでなく、介護や家事を担うロボット等が普及すれば家事労働を代行させることもできる。

井上智洋はAIが人間社会にもたらす影響として、将来的には人間の有用性ではなく生それ自体が価値をもつという価値観へ移行するであろうと、有用性に至高性を対置するバタイユの思想を紹介しながら提言する。そして大量の失業に備えてベーシックインカムの導入を勧めるのが井上氏の主張である。

もしそうなったとして、私たちはその状況に耐えられるだろうか。

AIによる労働の代替は、様々な領域で人々を既存の役割から解放するだろう。しかしそれは役割からの排除であるかもしれない。

そんな中、これまで有り得なかった役割や立場を自ら生み出す人もいる。YouTuberも、インターネットと個人が所有できる通信手段が普及した現代ならではの役割だ。
たとえば、「無駄なモノを作って稼ぐ」24歳女子がたどり着いた、新しい生き方
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53919


一方で国内の人手不足がこのまま深刻化すれば、これまで複数人で担っていたあれこれの役目を一人が引き受けざるを得ない状況を強いられるかもしれない。シングルタスクのみをやっている人への非難が今より強くなる可能性はある。たとえば専業主婦や仕事一筋に生きる人々に対して、自ら稼働所得を得ていないことよりも「一人一役なんてずるい」、私は仕事も家事も育児も介護もやっているのに家事だけ仕事だけなんてラクしすぎ、という方向の非難が出るのでは?と思う。

役割からの排除・疎外か、役割の過剰か、はたまた新たな役割の創出か。

自分の役割を自由に定義できる時代が到来しても、役割からほんとうに自由で居ることはやっぱり難しいだろうと思うのです。

脈うつ時間が戻るとき

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隣家のムクゲのつぼみが膨らみ、昨日咲いた。わが家の食堂から夏を感じる。

お隣は空き家だ。四年前、高齢で一人暮らしをしていたおばさんが亡くなった。以来誰も住むことなく、週末ごとに入れ替わり立ち代わり親族の方やシルバー人材センターの人が来て、家とその敷地内とくに広大な庭の片づけに精を出してきた。

現在、この庭は整地されて植物は丹念に刈り込まれ、花木は青葉をなし敷地の中央にはわずかに野菜が植えられて今はパセリの花が咲いている。この状態にもってくるまでまる四年を要した。何しろそれまでは、大型の植木鉢やプランター、その他園芸用品や家財道具が溢れかえっていたのだから。その膨大なモノたちは、おそらく加齢からくる体力の低減によりおばさんの手に負えなくなってやむなく放置のかたちをとっただけではあるのだが。

おばさんは、この庭を本当は花でいっぱいにしたかったらしい。彼女の自宅前に広がる敷地に鉢植えや花の苗を買ってきて置いた。地植えの花や野菜もつくるべく、たまに鍬で土を耕し、その苗を植えた。しかしその敷地は広く、歳をとった女性の体力と腕力にはちょっとコントロールしかねるもので、結局は雑草や木々の枝葉が繁る勢いの方が勝ってしまい、周囲にはいわば荒れ果てて見えることが時折あった。

おばさんが亡くなったとき、御身内の方がみえて随分恐縮した様子でお詫びを仰った。ーご迷惑をおかけしまして、と、いやいや私たちは別にそんなふうに思ったことはないのだが。ただ、ここのお宅とあの庭はどうなるのだろうというのが両親と私の疑問だった。

はたして、家屋と庭は残った。週末や時あるごとにおばさんの身内の方やシルバー人材センターの人たちが敷地に入り、少しずつ整地を進めていった。植木鉢やプランターは動かすのもけっこうな労力が要る。下草は、ちょうど今のような初夏なら刈ってもすぐ生えてくる。もともとこぼれ種で殖えていたと思われる草花ージュウニヒトエ、オドリコソウ、ムスカリツルニチニチソウハナニラモモイロヒルザキツキミソウなどーが思いがけず一定期間咲いては驚き、大地のポテンシャルとでも言うものに感心した。

それにしても、ある空間が自然の生命連鎖を具えた時間を取り戻すには何という期間と労力が要ることだろう。冬にはレモンが実り、初夏にはムクゲが咲き、ブロックの下に青紫蘇がこんもり繁るー、この季節に応じた生命のリズム。芽吹き、咲き、実り、枯れ、新たに生えるという繁殖のループは自然界では当たり前のように見えて、しかしそれは非常に微細な条件の束から成っており、わずかなほころびで歯車は欠け、軋む。昨今の高齢社会はちょうど再生産のループが機能不全に陥るか止まりかけた状態なのだと思う。


想田和弘監督の映画『港町』を観て上記を痛感する。

http://minatomachi-film.com

高齢化が進んだ港町で、手間暇をかけて漁り丁寧にさばかれた魚は、人間にあっては老いた者の口へ、猫にあっては子猫のもとへ運ばれる。同じ海でとれる魚は、前者は世を去る日の近い者を養い、後者は新たな命の糧となる。再生産のループの果てに居る、あるいはそのループから外された(子どもを頼りに生き甲斐に暮らすことさえ断たれた女性が終盤に出てくる)人間たちと、人間が与える餌で繁殖のループを勢いよく回復させる猫たちとの対比。

想田作品はじつに、命ある身体をそなえた生き物がただ一個さえ生きることにも、それを可能にする微細な条件や過程を、社会や制度、感情の機微以外の観点から浮き彫りにしてくれる。

一個の生命、一隅の空間が生命をもって十全に存在し切ることの難しさ。それを顧みない思想や行為はやがて、命ある時間のループから外れていくのでしょう。

アクセシビリティのさまざま


ある人が相対的に他の人より資源を多く所有していたとしても、それは必ずしも自由や力を有すること、豊かさ、社会的アドバンテージを意味しない。

所有する資源、財ーたとえば金銭、食料、土地、電子機器類などーを多く持っていても、その人が自分の意思で使うことができなければその人はディスエンパワーされている。その人の意思決定が通る環境か。女性はとくに夫や親の反対で進学や労働参入、スキルアップを阻まれることが多い。かつて女性の生き方として規範化されていた専業主婦という立場の葛藤を、想起してみるとよい。とりわけ地方在住の、非正規雇用で経済状態が不安定なため親元に居住する未婚女性には上記以外にも様々な制約が生じる。

食材がたくさんあっても貧困ゆえまともな調理設備のある部屋に住めない若い人は、健康的な食事をとることが難しい。また加齢による体力・筋力の衰えゆえに、かつてできていた炊事ができなくなった高齢者を想定してもよい。さらに病気や障害のために身の回りのことが自力でできない人たちも同様である。

金銭そのものを多く所有していても、「ふつうの生活」をするには異様に高いコストを支払わねばならない人たちがいる。交通アクセスが悪い、公共交通機関が未整備な土地だと自家用車が必須だが、クルマがその購入費のみならず維持費にかなりの金銭を要する乗り物であることは周知の通りである。で、クルマを買えない、運転できない人は「ふつうの生活」に必要な当たり前の移動に相当な不便を強いられる。

概ね地方在住者は、大都市圏に住む人々よりもアクセシビリティの面で不利である。とくに知的文化的情報面でそれは顕著になる。大都市圏居住者が気軽にアクセスできるイベントや集まりに、地方在住者はそのつど遠距離移動の予定を立てなければならない。交通手段の切符をおさえ、場合によっては宿を予約する。週末朝から移動となれば、その週は疲れを溜めないよう体調をセーブしなければならない。思いつきで当日知った集まりに行く、などは難しい。


貧困や社会的不利益に考察をめぐらせる時には、資源を機能に変換するためにかかるコストを、物理的・心理的負担の両方から正視する必要がある。A.センが提唱した「ケイパビリティ」の制限、剥奪は様々な局面で起きているが、支援や補填を得るための情報にアクセスすること自体が困難であるか、莫大なコストがかかるケースがある。置かれた境遇や属性の異なる人々が同じ機能を得るのに必要なコストは同じではない。格差是正を考えるさいに、その人が必要とする機能に対してどれだけアクセスしうるかという観点は、決して万能でないにせよ当該者の置かれた環境に目を向けるために有用であるだろう。

人並みの波間から

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祝福を。

ほんとうに祝福を受けているような空と陽射しの続く地元である。この好き街から「ちょっと」県外へ、四国の外へと出かけることの難しさ、コストの高さにここ二週間ほど暗澹たる気持ちでいる。

先週末は大変だった。土曜午後から何となく具合が悪かったのを圧して県外へ出かけ、帰ってきたら体調不良で寝込んでしまった。ウイルス性胃腸炎だそう。今はもうかなり良くなったのだが、今回のことで私は自分の体力にすっかり自信を失ってしまった。

病院へかかったついでに血液検査した結果、貧血が出ていることが判った。軽度のうちだが、5年前に治療済のはずが、ある項目は5年前よりも低い。まあ検査したのが一日絶食後かつ月経数日後だったのを考えればそんな元気いっぱいの結果は出ないだろうし、前回と同じ鉄剤を数日おきに服用して数ヶ月後また検査、という流れとなり、その薬もおととい夜に一錠飲んだだけで立ちくらみはなくなった。思えば秋頃から大して重くもないモノを仕事で運んで息切れとか、風邪をひきやすく治りにくい、寝てもスッキリしない、あげくは先月ひどい風邪をひいた後に来た月経の最中にめまいと息切れを経験したりと、貧血らしき自覚症状はそこそこあったから、今回判って手を打ててベストだったはず。

でも。
わたしは今度のことで自分の年齢や立ち位置の自覚と、戦略の見直しを迫られた気分である。

忙しかったり、気温差が激しかったり、疲れが溜まっていたりと悪条件が重なると長距離移動はものすごい負担になる。まして公共の交通アクセスが不便で海を渡るのにざっと半日を移動に費やす必要のある四国に住んでいれば。

奨学金の返済がもうすぐ終わりそうなことは少し前に書いた。これは嬉しい反面、それをもって自分がいわゆる「人並み」の世界に戻れることを意味しないのだと一方で感じもする。長く続いた経済面のマイナスがやっとゼロに到達するだけである。

いやほんとうは、それだけでも凄いこと、のはずなのだ。


一般に、大病の回復期に焦ったり無理をしたりは禁物だと言われる。その意味が今すごくよくわかる。

病を「人生を揺さぶる大きな災い」と言い換えてもかまわない。借金や事業の失敗、DVや離婚など家庭の問題、事故や災害による被害…

問題の渦中に居る時、ひとはその注意と労力の全てを注ぎ、深い闇の水底からわが身を浮き上がらせようと奮闘する。その過程で頭上の光や周りに漂う数多の恵み(かつて自明でしかなかった、気づかなかった有り難みに涙することもあろう)に触れ、いつかどん底から脱する日が来る。やっと水面へ顔を出すことができるのです。久しぶりに見る海面からの景色は懐かしくも感慨深くもあるかもしれず、修羅を見た人々には呆れるほど何も変わらない見慣れた光景であるかもしれない。

で、その馴染んだ風景のなかへいざ入ってゆこうとすると、じつはいくつかの壁に直面する。

ケガや大病の予後のばあい、前には有った心身の機能が失われているか、元の水準に戻すために時間とコストがかかるケースがある。借金問題を解決して周りを見渡せば、年齢に見合ったライフステージを経験できなかった自分がいる。何にせよ、さまざまな意味で自分が「以前と同じではない」ことをいろんな局面で見せつけられるだろう。

そのことを周囲はどのくらい理解しているだろうか。理解する意志があるだろうか。

いちおう「社会復帰」したことで、以前と何ら変わらない世間の悪習への順応を迫ったり、人を抑圧するだけの「ふつう」「あたりまえ」の規範を課したり、仕事量のノルマを課したりする。家庭でも以前と同じ役割を課す。回復にふだんの何倍ものエネルギーを使った当事者が、「人並み」の壁に傷つき打ちのめされていく葛藤がそこにはあると思う。社会的困難を抱える当事者だけが変化と格闘を強いられ、世間の側は何も変わらないこと。

深い闇底から 「人並み」の波間へ出てみれば、そこにはもう「人並みにはなれない」自分がいるかもしれない。そのことに絶望して自死を選んでしまう当事者もいるのではないか。

しかしここまで書いてきて、「人並みが何ぼのものか」
と思える視点も当事者の中にはきっとあるのだと思う。人並みを取り返しつつ、問い直す力。何であれこの視点は「支援」に関わるとき持っておくべきではないだろうか。

そう考えて、わたしは自分の足元と視界を心地良くすべくカフェの席を立つのです。

自分仕様の休日

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久々に県外へ行ってきた。本当はGWに行きたかったのだがまたしても風邪をひき、体調が悪くてとても遠出する気にはなれなかった。

この日帰り旅行というのがじつは思いのほか時間のロスが多い。何度か書いているように地元は交通アクセスが不便でとくに海を渡るまでに実質半日は吹き飛ばす移動法にどの交通手段を選んでもなってしまう。今回も例外なくそうだった。晴れて暖かな日ならまだしも今日みたいに明け方まで雨で風があり寒い日などは現地着〜目的地出発便までの時間をどうにかして室内で過ごさねばならない。でも、昼からはとても日差しが強く帽子を忘れたのを後悔するほどだった。


行ってきたのは高松市牟礼町にあるイサム・ノグチ庭園美術館。晩年のノグチがアトリエを構え、牟礼町特産の庵治石ほか全国、世界から運んだ石を用いた彫刻作品やその制作の跡が残されている。


五月の空と新緑の葉ずれのもと白くまぶしい世界が広がっている。周囲は山道と戸建の家、石材会社が立ち並ぶ。私を含め20数名の観客を連れて館のガイドさんが案内してくれる。著作権上の問題から写真撮影禁止のため、作品をここへ載せることはできない。しかし、石切場とそこへ揺れる木々、日差し、石の輪郭、制作小屋、未完のものも多数あるという作品群は生きているあいだにぜひ見て味わって頂きたい。カキツバタやヤツデの繁る水路、急斜面に作られた石の川、 履いて整えられた地面に浮かぶ石たちの影。

暗い小屋の中に安置された玄武岩の石彫を前に、私は涙がにじむのを感じた。20世紀という国家の時代を日米二つの国に翻弄されながら続けた制作の跡が闘いでなくて何であろう。孤独のうちに生み出された作品に漂うユーモアと洗練性。 ニューヨーク、パリ、インド、イタリア等各地を飛び回ってなお掬い上げられた日本文化の一部。それはノグチでなければ決して形にすることができなかっただろう。


帰路は平穏な休日の午後だった。冒頭の写真は道端のヤグルマギク
ほかにこんなのとか

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ヘタっている犬とか

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川面も若草も光るのどかな光景だった。

バスが来るまで30分近く。
さすがに日差しがきついのですぐ横の緑地に入る。楠並木の下にイネ科の草と、ニワゼキショウと水色の小さな花の群生を眺めながらベンチでぼんやりする。

7年前の初夏を思い出す。震災後の歪み、慣れない仕事、災害とは無関係ながら当時突然訪れた親しい者たちとの断絶、そして数百万に及ぶ教育ローン返済。それらを抱えながらも私は愛用の原付で山地や郊外へ赴き、イタドリやミヤマハンショウヅルやケヤキやブナ科の若葉の下に佇み没頭し楽しんでいた。生活は間違いなく今より不安定だったにもかかわらず、限りある時間や予算で暮らしを楽しむことにあっては確実に今より真剣だったと思う。

翻って、ここ最近は「社会性」や歳相応の振る舞いというのにずいぶん縛られていたのが遠出してみてわかる。現職で日々感じるあれこれはしかし、学歴やそれまで従事してきた分野と就いた職にそれほど乖離がない者と自分を比べてみてもさしたる意味はない、と今日ふと思いもする。だいいちこれだけ流動性の高い時代に「どこでも通用する人材」を目指すことやそんなものが居ることを想定すること、どこであれ一部業界の自明性を拡大解釈しただけの「常識」に合わせようとする試み自体有効性が疑わしい。

例の教育ローン返済はだいぶ解決のめどが立ったし、こうしていまやっと、働く者としてごくありふれた休日の使い方ができているみたいだ。地元へ戻るバスからそんなことを思う。


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写真は庭園美術館入り口。基本写真撮影禁止ながらこれだけはOKとのことで。人が作った社会の枠組みに対して順応と問いのはざまを行き来し、自分なりの足跡ーフォルムを築きあげたいものです。