いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を変えたく奮闘中。既定路線から降りても研究と執筆を開花させるには?人生の時間比率は自分仕様に!

就職と引き換えに


外国からの移民受入を拡大する法案が通過した。で、ネットでは人道的・経済的観点からあまりに拙速な通し方について反対が次々と噴出している。中でも深い絶望に裏付けられた批判はいわゆるロスジェネ世代(就職氷河期世代)からの怒りだ。じつにもっともだと思う。私はその末期世代に属する。

失われた20年間、若者はそもそも就職の機会から弾かれていた。正規雇用を得ることは絶望的に難しく、家計補助の待遇でしかなかった非正規雇用、ルールの未整備な派遣労働に就くしかなかった。民間企業でどうにか正規枠を得られても、ブラック労働が待っている。だが
公務員、教員の採用数も絞られ、こちらも仕方なく臨職や非常勤で食いつなぐ人々が使い倒された結果いまや人手不足(教員はとくに免許更新制度のせいもあって、なり手不足)が叫ばれている。当然だろう。

そんなふうだから、とにかく職があるだけでもありがたいという考えが染み付いていても無理はない。非正規でも毎日行き場があり、働くことでしか得られない社会保障や、もっと言えば成長や社会参加の機会、承認にかろうじてアクセスできるならとにかく真面目に働こう、という心情の人も大勢いるはずだ。


今から9年前、私はほぼ駆け込みで約半年ほど街中の公務員講座に通ったことがある。現役生(卒業前の学生)も浪人生(就職浪人した既卒者)も民間企業からの転職希望者もいた。狭いコミュニティで息が詰まりそうだったが、資格取得をめざす受験生もいて(というかスクールはそっちがメインターゲットだった)、あれは閉塞感含めて良い経験だったな、と今では思う。

そこで仲良くなったある既卒女性は、東京23区の職員を目指して日々奮闘していた。何でもあちらに交際相手が居るのだとか。お相手のそばに居たくて、話がどこまで進んでいるのかはわからないけれどおそらく彼女としてはもう結婚と同居は前提で、あとはもう「スクール内に住んじゃうくらい」必死で勉強して彼のもとへ行くだけ、そんな張り合いがみなぎっていた。それを聞いた当時の私は、勉強熱心なのは尊敬するけれど何だか彼氏に依存しているようで、そんな動機はどうかなあ、だいいち受かって上京できても破綻する可能性だってあるのにと、半ば呆れたような感想を抱いたものだ。

でも、今ならわかる。彼女が求めていたのは彼も含めて親密な人間関係やそれを得る可能性であり、そういう人々と付き合いながら築く暖かな未来だったのだ。周り、とくに親世代は就職さえ決まればあとはどうにでもなる、食べていけるし車を買ったり家を建てたりもできるし一人前の証が得られる、と考える人が多い時代もあった。しかしワーキングプアという、働いても食えない人々が存在することが明らかになって、「働けば食べられる」という図式じたいが壊れ始めて今の体たらくがある。だから、仕事に自分を重ねる発想に見切りをつける人がいてもおかしくない。ろくに上がらない給与のために、たかだか月最低限の生活賃金のために、親しい繋がりも愛着もない土地にーそれが地元である場合だっておおいにあるー、仕事のためだけに住むなんて耐えられない。仕事ってそうやって得るものなのだろうか。私は現在そう考えている。

結局件の彼女は試験に落ちて、鉄道会社の契約社員としてキャリアをスタートさせた。その後どうなったかは知らない。付き合いも続いていない。彼女の地元に残ったのか上京したのか、どこか違う土地に住んでいるのか。いずれにしても自分らしく幸福でいてほしい。


仕事に就く機会さえ制限されて、最低限の職を得るために、仕事以外の様々な大切なものー親しい人間関係、恋人、人間らしい時間、休息の時間、家族を作る時間などーを手放した労働者も数多くいただろうこと。そうして得たポストが買い叩かれ、食べられない賃金に貶められ、人手が足りないから今度は外国人を沢山入れようとする。働かざる者人に非ずみたいな主張を垂れる人こそ、むしろ人たるに値しない条件に人を貶めようとしてあるように見える。

労働は生存の道具ー、生存資源を得るための条件にすぎない、そういう発想に立ち返ることも時に必要だと考える。

ヤマが動くとき


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先月は大きな変化があった。

一つは奨学金の完済。

もう一つは祖母の他界。

前者は長く背負った経済的重荷が吹き飛び、後者は長い介護の終わりから両親とくに母に時間ができたことを意味する。パート先が夏休み時短中なせいもあって、彼女はせっせと断捨離に励んでいる。

重石が吹き飛んだ分、多少気持ちの軽やかな面はあるが、実際にはマイナスがゼロに戻っただけのことで、今後の身の振りをわき目もふらずに猛進できるかというとそんな心境ではちょっとなくて、ともすれば糸の切れた凧みたいな感触がある。消費の面で今まで我慢してきた反動はもちろんあるだろう。

でも最後の繰上げ返済申込と入金、実際の引き落としを確認して二週間が経った今、地元生活があらためて枷のように思われてくることに窮屈さと罪悪感をおぼえている。

課題だらけでどれを優先すればよいのやら。

無駄を承知で市内で一人暮らし?それは雇用の安定を前提とした選択だが、採用段階の契約と辞令交付書を原則どおりに読むと、引越してやっと落ち着いたかなという頃に契約更新なしという最悪のタイミングを踏まない保証はない。

しかし実家暮らしは身の回りのことを自己決定でやる・自力で変えられる余地が少なすぎる。貧しくても自活し自分で決めて動いてこそ本来の自分、とずっと思い続けて今に至るも、金銭(所持金の額)もスキルも体力(貧血はおかげさまで回復)も中途半端である。

県外求人も見つつアンテナを張ってはいるが、転職活動を本格化させる段階ではないし、移住がいま現実的な選択とはいえない。

しかし付き合いの続いている親しい友人は大半が県外住まい。県内の友人は市外にいてそれも子育て中なので、どうしても観ている世界の風景が自分とは違う面が多いだろう。そしてどのみち頻繁には会えない。

県内には進学の選択肢もない。

しかし四国外に出るには資金も仕事のアテもまだない。が、悠長に先延ばしできる年齢かというとそうでもないし…

なんか書いててもうちょっと明るくカラッとした筆致はできないのかという気分になってきた。でもこれが正直な自分の現状だから、記しておく。

晴れていれば退勤後に温泉街付近の河原と宅地を散歩して楽しんでいる。写真はその一部。通りすがりのマンション脇の水路です。せめて焦点の絞り先がぼんやり掴めるまで、今楽しめることを模索しようと思います。

アメリカという大きな家ー想田和弘編集『ザ・ビッグハウス』に寄せてー


http://thebighouse-movie.com

ミシガン大学アナーバー校が所有し、同大学のアメリカンフットボールチーム「ウルヴァリンズ」の本拠地である巨大なスタジアム。その通称ビッグ・ハウスを題に冠したこのドキュメンタリーには「アメリカ国家の縮図」を描いたという評言が多々寄せられている。たしかにミシガン・スタジアムで繰り広げられる試合前の壮大なパフォーマンスや華やかなチアリーディングにみるショー・ビジネスの断片、厳重なセキュリティ・チェックや国家斉唱シーン等にみるナショナリズムや軍との一体性などからそうした見方は的を射ているといえよう。しかし本作品があぶり出すのは、ここに「社会の縮図」として映し出されるシーンの集積がじつは「大いなる家」を構成していることである。


第一に、ここで克明に描かれるのはスタジアムに投影されるこの「家」をフィジカルな面で維持する人々がなす、ハウスキーピングの様子である。カメラはスタジアム内外で試合前後の様々な舞台裏を映す。キッチンのバックヤードでは観客、報道陣、その他スタッフに供する大量の業務用食材が大鍋や大型鉄板で形をなしてゆく。スタジアムの清掃では巨大な清掃用具によって広大な観客席のゴミがシステマティックに取り除かれる。それらの仕事は一部機械化および自動化されていながら貧しい若い人の手仕事に成る大規模なドメスティック・ワークなのだ。そう考えると、イベント終了後のキッチンでライトを点滅させながら作動する食洗機に据えたカメラが水をかぶりつつ撮る映像さえ、あたかも雨夜にともる家の明かりのように見える。


第二に、市場原理が隅々まで支配する社会でありながら、そのサービスに家庭・家族という私的領域の特徴がにじみ出てているのが興味深い。たとえばゲート付近を回る水売りの売り文句にそれは顕われる。「並ばずに冷たい水が飲めるよ」。家で気軽に飲むように、と捉えることもできる。本来市場というセクターの外部である家庭特有のくつろぎや便利さを売りにしたサービスが、わずかな金額でも市場を介して提示される。
一方、ゲート前でチョコレートを売る幼い少年の後ろには屈強な父親が控え、命令する。貧困家庭の子どもが父権の圧力で物を売る行為を強要されている。
また本編中盤には定時ではベッドメイキングが間に合わないため定時よりも早く出勤して医務室で準備する女性救護班員が出てくる。しかし賃金は定時分だけで、早出した分は無償労働となる。医療・看護を含むケア労働が時間外のアンペイドワークによって支えられている現実の一側面がある。運ばれる患者の多くが急性アルコール中毒で、あたかも乱痴気騒ぎの後始末を家族がしているかのようだ。


第三に、この「家」の拡充と再生産をメンタルな面で強力に支えているのは、ビッグハウスに関わる人々が有する、きわめてドメスティックな様相を呈するつながりや帰属意識である。
とりわけ目を惹くのはミシガン大学の卒業生たちが見せる愛校心と大学コミュニティへの帰属意識だ。キャンパス付近の路傍ではニューヨークから来たというラッパーが誰にでも陽気に話しかけるかたわら、ある卒業生が教授を呼び止め「娘が先生の講演に行きました」と挨拶する。彼が教授と語る在学中の思い出話は、一つの大学内部で繰り広げられる内輪の話題である。それはラッパーが具現するオープンマインドとは対極の、同属内部への閉鎖的なベクトルを持つ関係である。冒頭の挨拶で娘を話題にするのも、教授の影響が教え子からその子に連綿と続いているかのようで、血縁のつながりを連想させる。その点で卒業生たちの言動はdomestic(家庭の、家庭的な)な印象を抱かせる。
ほかに、国歌斉唱時に嬉々として着帽する男性は自らの軍役を通した国家への貢献と帰属意識を確かめている。ゲート付近の伝道者は信徒として神の家族への、またスタジアムの清掃後にミサへ向かう人々は教会コミュニティへ帰属し集うことへの喜びを抱いているだろう。これらの人々の帰属欲求はアメリカ国家の体制やメンタリティを支えているという点でdomestic(国内の、国政の)と言える。
このグローバルでもコスモポリタンでもないドメスティックなつながりは、国家、宗教などを当該コミュニティとするホーム(home)への帰属欲求という性格を有している。それらは私的領域たる家庭を思わせる特徴を色濃く漂わせながらも、各々のナショナル・アイデンティティの一端を担い、アメリカ国家という公的体制の形成と維持に寄与しているのだ。


第四に、ビッグハウスに集う者たちの愛校心と帰属意識は この「家」にとって不可欠な資金供給源となっている。VIPルームでは大学に多額の寄付をした卒業生が一家でくつろぎながら試合を観戦する。「ここの使用料の金額を聞いたら驚くでしょう、しかし愛する母校の試合を間近に見られるならこんな良いことはない」ー、そのように興奮気味に、感慨深い様子で彼は語る。「3人の子どもたちもここの卒業生」だという。部屋の隅には幼い子どもたちが遊び、卓上にはチキンサラダのボウルが置かれ、室内はさながら家庭の休日を思わせる。このように卒業生たちがそれぞれ作り上げた「小さな家」が投ずる巨額の寄付金がミシガン大学の運営基盤を形作り欠かせない動力であることは、終盤のパーティーシーンでより明瞭になる。

ホームカミングデー・パーティーの様子は圧巻だ。中高年となった卒業生たちは次々に着席し、それぞれの職業人生を語り合う。卒業後就いた仕事と得た地位でいかなる社会貢献を果たしたか、突き詰めれば各々の存在意義にまで行き着くその出発点こそはこの母校なのだ。そのことを確かめ合うホールは懐古と郷愁に満ち、参加者は懐かしい故郷に浸る。

開会は、奨学金のおかげで学業を続けられたというファーストジェネレーション(身内の中で初めての大学進学者)の卒業生の挨拶で始まる。貧しい家に生まれたがテレビで観たフットボールの試合に憧れてミシガン大学を志した、今の自分が在るのは奨学金の財源をなす卒業生からの寄付金ゆえだと感謝を表明する。
続く学長のスピーチは、寄付金がいかに大学運営の要であるかを数値で見せつける。ミシガン大学は州立大学でありながら州からの助成金は16%にとどまる。その差額を埋め、政府からの援助も内部資金の切り下げもなく今日まで大学の水準を維持し拡充させているのは、フットボールチームのビジネスと、卒業生からの寄付である。
ウエイターはどこか憮然とした表情をしている。学生だろうか。貧富の格差ゆえ底辺の地位を余儀なくされるも、富裕層からの寄付がなければ大学に居ることができない矛盾に若者は気づいている。

ここに顕現するのは、ビッグハウスを中心に形成された複雑かつ巨大な経済構造であり、そこへ精緻に組み込まれた関係者が抱くコミュニティへの帰属意識を資金源に構成される大きな〈家〉(hause,home)である。むろん、母校への帰属意識と愛着を契機とするこの空間はまさに一族が集う家と言うことができる。だが本編にみる個々のシーンー市場原理の支配、家事やケアを不可視・無償・低賃金の労働へと誘導する家父長制原理、マッチョイズムやミリタリズムーは、アメリカ社会に一般的な光景でありながら、じつはドメスティックな傾向を持ち、私的領域たる家庭に類比的でき、一つの〈家〉を形作る枠へと収斂する。

お帰りなさい、この大きな家へ!本編はミシガン大学と州の経済基盤であるビッグハウスという一つ屋根の下に、実際には雑多なバックグラウンドを持つ人々を擁しながら、何らかの帰属欲求を紐帯に集う家族(family)の形態を撮った作品と言えるだろう。

コンビニカフェを使う理由

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このひと月ほど、退勤後まっすぐ休憩に向かう場所がある。自転車で30分以上かかるコンビニに併設されたカフェ。コンビニも最近イートインコーナーを設ける店舗が増えているが、ここはとくにスペースが広く屋外席もある。写真はその一隅。

工場の並ぶ職場付近を離れ、自宅近くの文教地区まで約30分。そこから温泉街を抜け、さらに山辺へ向けて小川に沿って道なりに自転車をとばすと広い駐車場が見える。

客は雑多である。

大抵は付近の人が休憩に立ち寄るのだが、地元の高校生が宿題を広げ、外回りで一服する大人がおり、また温泉街から日用品や飲み物を買いに観光客が流れてくる。屋外は喫煙可能で、作業服やスポーツウエア姿の人が缶コーヒーやビール片手に煙草を吸う姿がある。

4人がけのテーブル席のほか、ふつうの飲食店でいうカウンター席のような席がガラス戸に沿って置いてあり、一人でぼーっとするにはこれが最適なのだ。新聞を読む人、書類記入する人、作業に没頭する人。比較的混んできても、ふつうのカフェとちがい座席を立たなくてはとソワソワすることはない。席数が多いせいもあるが、このスペースに入ったら基本、客はほっといてもらえる。
なので、常連さんはもちろんいるが、匿名を保てる場所ではある。

店内ではなく駐車場に車を停めて車内でくつろぐ人も多い。それも夕方に多い。たぶん外回りの仕事途中か、退勤後帰路につく人たちだろう。職場から家までの間に一拍置くため、であれば気持ちはよくわかる。自分がそうだからだ。怒涛の職場から直帰しても家には家の時間が流れていて、そこでは自分の呼吸リズムなどおかまいなしで家事や家族のご機嫌とりが待っている。いい子で居たらたちまち忙殺されかねない。

人間には「何者でもない」存在でいられる場所が必要なのだと思う。世間は人手不足で、しかし貧困ゆえ少ない賃金でmaxに働かせようとする上、一人にいくつもの役割を負わせる方向に流れている。市場における労働力としての「生産性」はもちろん生殖も担え、介護も忘れるな、それではじめて現代の「ふつう」の人として条件を満たせるのだと言わんばかりである。

周知のとおり、コンビニで売っている飲食物は決して身体に良くはない。しかし、安価で一人分から買える商品を手に入れ一服して、自分が自由であることー自分の都合とタイミングで食べたいもの飲みたいものを買って休むことができるというささやかな現実制御の快感ーをみな確かめようとしているような気がする。

自分を取り戻す。この大切だが難しいことを簡便に果たす場の提供を、地方のコンビニはしているのかもしれない。

「空室あります」の向こうに


帰り道はなるべく、生垣や軒にみずみずしい植物の活況がみられる道を選んで通っている。工業団地の趣が強い通勤先エリアとは異なる佇まいをゆっくり味わいたいからだ。

地元を出たい、離れたいと思いながらも自宅周辺を含む、山辺へ連なる一帯を私は好きで、散歩は楽しい。

そう思えるまでには時間がかかった。正確に言えば、そういうエリアが好きな自分を受け入れるのに抵抗があった。

このブログの初期をみればわかるように、一時期は一人暮らしに凄まじい執着を抱いていた。転職して、奨学金返済もようやく終わりが見えてきた今、ではそれにこだわるかというと引越しは保留にしてある。先月末わかった貧血で、バタバタしたり重いモノを運んだりするのはちょっと控えたい。

何より返済終了の解放感よりもこれまで払った金額の重み、それ以上に過ぎた時間を想って喪失感と虚脱感のほうが驚くほど強い。ちょっと前までは自家用車を買わなければならない事態を懸念してずいぶん悩んだ。悩んでも収入額は決まっていて、かつ支出は最大でも手元にある残高からしか払えないのだから不毛といえばそうなのだが、車の件は心身をかなり疲弊させたと思う。とにかく二重ローンは避けたい一心は今も変わりなく、結果、旅費以外の大きな出費はなるべく避ける方針でいる。


それでも数ヶ月前には市内でアパートを借りることも考えていて、もういっそこの際「スープの冷めない距離」でも良いかな?とさえ思ったことがある。というのはこの文字通り作りたてのおかずを鍋ごと持って行けそうな近所のアパートに空室が目立つからである。

空き家、空き部屋は最近よく目につく。少し前の記事で書いたように隣家が数年前から空き家だし、その奥に並ぶ住宅のうち一つが昨年消えた。戸建て以外にわが家の周辺には学生向けアパートも多いのだが、そこも全てが満室ではない。周知のとおり世代ごとの人口構造を見れば、大学や専門学校への進学者の大半を占める18歳人口は年を経るごとにその絶対数が減る。人口比からいえば圧倒的に多い高齢者はしかし、その人生を終える人も毎年一定数いるのでその人たちが去ったあと誰も住まなければ(というか売ることも貸すことも住むこともできない物件が今後続出すると思う)そこは空き家となる。ハコモノとしての物件と、そこへ入るはずの人間の数がアンバランスになる事態はおそらく日本中で顕著になるだろう。

いまや、不動産は資産という時代ではない。家や土地は維持管理のコストを計算に入れておかないと、はじめに資産価値があったとしても所有しないほうがよい。人の住まない部屋がどんなに傷みやすいか。手入れの行き届かない畑、使い途のない土地がどれほど人手と手間とお金を食っていくか。タンス預金としてお金を引き出しに放り込んでおくのとはわけが違う。何もせず放置、では済まされない特色が不動産にはある。家土地は生き物を世話するのと同じに考えておくのが良い。

住まいは、そこに生活の循環がなければすぐ淀みと停滞が発生する。仕事や家庭の事情で家をよく空ける人や複数ヶ所に住まいをもつ人はお解りだろうが、長く空けておいた住まいというのは戻ったらまず掃除から始まる。窓を開け風を通し、決まった日に出せるかわからなくてもゴミはまとめておく。そしてそこが単なる物置きや倉庫でないからこそ、ライフラインが通っていれば光熱費水道代もとうぜんかかる。

そういう二重生活を、身内の介護でせざるを得ない人もいる。自身の生活を抱えながら、もはや満足に住まいのメンテナンスが出来なくなって施設やケア付き住宅へ入居した家主の代わりに庭木を切り草を刈り、畑を世話する。そして家の中の不用品を処分して怒った家主と衝突して…という例に介護の仕事をしている友人は接するという。

空室あり。その先には自らの生活を作り、その住まいをちゃんと暮らせる空間として維持し育てていくコストがある。その負担の担い方は、たぶん経済成長前提のライフコースや家族形態をきちんと相対化した先にこそ、見えてくるはずだと思う。

舞台がはねたあとに

 祝福を。

 昨日は県内へ日帰りで遠出してきた。お目当ては芝居小屋での観劇。

列車が山間部へ入ると一気に時間の流れが変わる。特急車内の窓から海と、田植えが済んだばかりの水田に反射する光に目を細めた次の瞬間、新緑と渓流の輝く山間へ移るのだ。

 駅から降り立つとあちこちにアジサイギボウシが咲きかけている。町を流れる川辺の魚屋にはガス台のうえに鯖によく似た模様の大魚が串刺しで焼かれている(たいへん珍しい光景だと思うのに、写真を取り損ねてしまった・・・)。

 観劇がすんだ後、明治期からの街並みを残す保存区を歩く。

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 木造家の軒にとうきび。ほかに無人販売棚に売られる野菜や唐辛子の彩り、郵便受けに竹細工からなる昆虫や竹とんぼがある。
小川にかかる橋のたもとで涼む人々、用水路のかげで草とりする人、小路のすき間にめいっぱい草姿を広げるヤブガラシ
坂道に並ぶ木造建築のいくつかは土産物店やゲストハウスとして活かされている。

 そのうちの一つ、古民家を改造したカフェで一休み。

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アイスコーヒーを頼むと、手作りのクッキーをサービスで出してくださった。
店内には数人連れのグループが数組いて、一組は屋外に面したテーブルで、もう一組は畳敷きの部屋に置かれた椅子と卓上で歓談している。
けっこうご高齢の方が多い。看板メニューのぜんざいに匙を動かし、他愛ない会話をしてやがて帰っていく。

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 写真はお客が去った後の席。奥には上着の掛かったハンガーや箪笥がならび、日常の時間がまだ共に流れて見える。

 県内遠方から来るリピーターのお客さんが店主と言葉を交わす。

―ゆっくりしていって下さいよ、このあと特に用事とかないんでしょう?
―このあと?まあ別に急ぐ用事もないんだけど・・
―いいですねえ。こっちはここ(店)が終わったあといろいろありますよ・・


 そうだよねえ、と思う。これだけ居心地の良い空間を提供し、維持するためにはどれだけ労力と配慮を要するか。

 どの座席にも季節の花が生けてある。入口からカウンターに置かれた諸々の雑貨。風の通る動線。畳敷きの部屋も念入りな掃除が必要だろう。

 空間を提供する側も休みにくる側も、清濁併せた雑多な日々を生きて珠玉の時間へたどり着く。

 高齢社会と地方のあり様を思う。観劇の様子も思い出す。

 SNSでは先週から公共の場で騒ぐ子どもを注意しない保護者への非難とその反批判が飛び交っている。あれは注意の対象が子どもだからまだ言えるのではないかと思う。子どもがマナー違反や危険なことをした時力ずくで抑え込むことはありうるが、高齢者に対してはどうか。

 たとえば公演中に携帯を鳴らす、私語、それを同伴者がたしなめないことは大人それも高齢者のほうが深刻である。
でもやむを得ない中途入退場もあるだろう。歳をとると慢性的な不調を抱える人もいる。足腰が弱って移動だけでも時間がかかったり付き添いを必要としたりするから(子どものトイレも同様だが)休憩を長めにとるのも大切な配慮だと思う。自分の親がそうなるかもしれないし、自分がそうならないという保証もない。

 大正時代にこけら落としをした劇場の廊下には、地方芸能を支えた人々の様子が写真となって並んでいる。

 心地よい時間と空間を創るには、作り手と受け手双方の意識的な努力が要る。
 
 舞台がはねた後も、公演一座、観客、関係者、後援者にはそれぞれの持ち場で奮闘があるだろう。
 その芸に連なっていたいなら、自分が抱える矛盾を引き受ける力を各人が持っていることを信じて帰った日常で懸命に生きることが
よすがとなるのかもしれない。

 例のカフェはこちら。
https://ja-jp.facebook.com/cafedenjirou/

 ここだけでなく県内の佇まいあちこちが、どれほど自分を生かしてきたかと振り返っております。

役割を生きる

人間、社会の中で生きていれば、日々何らかの役割を負ってその日を回している。働いていれば勤務先での担当業務があり、一次産業従事者であれば日ごと季節ごとに生き物の世話があり、家では家事が待っている。介護や育児を担う人ならケアラーや親としての振る舞いをするだろう。

この役割は社会的立場を指すこともあるが、途方もなく面倒な所作や作業の積み重ねでもある。だが、役割には人を生かす側面があることを忘れてはならない。

阿部彩『弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂』

弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂 (講談社現代新書)

弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂 (講談社現代新書)

にあるように、社会的不利益を被る人々が「つながり・役割・居場所」を回復できなければ社会的排除は解決し得ないからだ。

何より、自分のしている所作・言動が意味ある行為として機能していることを誰もが願い、信じ、またそうあることが前提で日常生活における様々な行為は成り立っている。


ところが、AIの進化とりわけシンギュラリティへの到達は、人間社会から労働を消失させると予測されている。
それは所得を発生させる賃労働だけでなく、介護や家事を担うロボット等が普及すれば家事労働を代行させることもできる。

井上智洋はAIが人間社会にもたらす影響として、将来的には人間の有用性ではなく生それ自体が価値をもつという価値観へ移行するであろうと、有用性に至高性を対置するバタイユの思想を紹介しながら提言する。そして大量の失業に備えてベーシックインカムの導入を勧めるのが井上氏の主張である。

もしそうなったとして、私たちはその状況に耐えられるだろうか。

AIによる労働の代替は、様々な領域で人々を既存の役割から解放するだろう。しかしそれは役割からの排除であるかもしれない。

そんな中、これまで有り得なかった役割や立場を自ら生み出す人もいる。YouTuberも、インターネットと個人が所有できる通信手段が普及した現代ならではの役割だ。
たとえば、「無駄なモノを作って稼ぐ」24歳女子がたどり着いた、新しい生き方
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53919


一方で国内の人手不足がこのまま深刻化すれば、これまで複数人で担っていたあれこれの役目を一人が引き受けざるを得ない状況を強いられるかもしれない。シングルタスクのみをやっている人への非難が今より強くなる可能性はある。たとえば専業主婦や仕事一筋に生きる人々に対して、自ら稼働所得を得ていないことよりも「一人一役なんてずるい」、私は仕事も家事も育児も介護もやっているのに家事だけ仕事だけなんてラクしすぎ、という方向の非難が出るのでは?と思う。

役割からの排除・疎外か、役割の過剰か、はたまた新たな役割の創出か。

自分の役割を自由に定義できる時代が到来しても、役割からほんとうに自由で居ることはやっぱり難しいだろうと思うのです。