いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

法事のあとで考えたこと

 土曜日は母方祖母の一周忌だった。上京し、滅多に帰らない弟も帰省し、家族で呑みに出た。私が探して予約した店だったが勘定は母持ちになってしまった。

 

 法事に限らず盆や正月など家族親戚が寄り集まる場には独特の尾を引くしんどさがある。出てくる話題が仕事(というか雇用形態や身分、給与額)、所帯・子どもを持つ/持たない、今後の身の振り方、そして歳をとった人々によるその世代の常識で言いたいことを言うだけという、心身ともに削られるか追い詰められるかする話題ばかりだからだ。

 

 でもそんなことはよい。家制度やしきたりに基づく家族行事にまつわる心境や話題など、いつの時代もどこの社会もそうだろう。

 

  しんどいのは、身内から寄せられる様々な感情を、否定一辺倒でバッサリ伐れないことだ。

 

 今年96歳になる父方の祖母は、2年前祖父が施設に入った後ずっと一人暮らしをしている。近くに住む叔母が毎日祖母を訪ね、祖父のいる施設に面会へ連れて行く。その折に祖母の家を片付けたり、通院や買い物にも連れて行く。私の父も週数回は家や庭の片づけ・掃除をしに行く。それでも、もう一人暮らしはギリギリ限界に近いようだ。法事のあと弟の顔見せを兼ねて挨拶に訪れた祖母宅は、もともと祖母がモノを捨てられない・捨てさせないこともあって足の踏み場に困り、わずかに異臭が立ち込めていた。

 

  訪問するとなぜか祖母は、私が幼い頃の写真を貼った分厚いアルバムを出して見せてくれた。これはまったく予想外のことだった。もう遠い昔になってしまった東京(両親は仕事の都合で私が生まれてから8年間東京に住んでいた)での日々が鮮やかに写しとられており、祖父母や両親からできる限りの愛情と注意を傾けて育ててもらっていたことを否応なく見せつけられた。

 

 

 就職氷河期世代の受難と理不尽さ、それらが社会構造に起因する作為的なものだということは、今ではあちこちで指摘されている。アラフォー以下の世代が貧しく不安定なのは自己責任ではない。氷河期世代への仕打ちは、遅れてきた国内経済のグローバル化に対応するためになされた日本的経営の変種や、一連の新自由主義改革の一環であった。

 

 だがそれ以上に、日本社会においてメンタリティの側から体制を維持する機能を果たしたと私は考えている。新卒一括採用をはじめとする日本型雇用慣行を決して崩さず、新卒で正社員として就職し、適齢期に結婚して子どもをもうけることー、書いてみれば空疎なことにすぎないが、それが昭和レジームにもとづく日本の繁栄と幸福を保障・下支えする神話だった。少なくとも親世代はそう信じて疑わずに来れた。そして結局、それ以外の価値観をもつことができないか、経済基盤を得たうえでの余興のようにしかとらえていなかった。彼らにとっては人権も新しい生き方・働き方も、経済成長という下駄の上に成る産物だったのではないだろうか。

 

 

 上記のことは、今の若い世代にとっては決して当たり前でなくなっている。就職が売り手市場てあってもだ。高度経済成長を前提に作られた制度や慣習の問い直しは、良くも悪くもごく身近なこととなっている。一方で私たちは、高度成長を経験した世代が当然に享受した生活水準を、経済成長や旧世代の資産に依存しないかたちで取り戻すこともしなければならない。「ふつう・あたりまえ」を問い直すと同時に取り戻すこと。難しいが、これも世代の役割だろうか。

 

 そんなことを解っていながらもなお、自分を育てた身内(これもよほどの毒親でないから言えるだけのことだが)に対する感謝と罪悪感が複雑に絡み合い入り混じった負の感情が荊か蔓状の草のように心身を浸し、まといつく。4歳下の弟が、なまじ姉の私より世渡りが上手くて色々の「ガチャ」に恵まれた(?)ために言いたいことを言い放つのを傍で聞き続けた弊害を、今週は少しずつ削ぎ落として、自分の人生のハンドルを再び自分で執れる日を目指して暮らしていこうと思う。

 

 

ペットが教えてくれること

 

 以前住んでいたアパートは、向かいがペットOKのマンションのようだった。朝、日課の体操をしていると柴犬を散歩させている女性が通りへ入ってきた。何となく視線を離さずにいると、向かいのマンションの玄関ホールに入っていき、何と犬も当たり前のようにぴったりくっついて自動ドアをくぐっていく。ここの住人が飼っている犬だったのだ。小さな巻尾を立てリズミカルに四肢を動かし白いお尻を振りながら建物に入っていく姿はいかにも自然で、本当にそこの住人の風格があった。

 

 帰宅した後、二人にはどんな時間が待っているのだろう。女性はまず家事をするのだろうか。夫や子どもなど他の同居者はいるのか。在宅で仕事をしているのかもしれない。あるいは病気で療養中かもしれない。犬はマンションの同じ一室で、共に一日を過ごす。ケージの中にいるのだろうか。部屋のソファや椅子、床の一部に定位置があるのだろうか。退屈しないようにテレビやラジオがかかっているかもしれない。だがそうした刺激があってもなくても、犬は犬の時間を生きているだろう。

 

 ペットというのは不思議な存在である。可愛がるために飼っているのだから飼い主による支配を受けている側面はどうしてもあるが、とはいえペットは飼い主と全く異なるペースで違う時間を生きてもいる。実家にもかつて犬がいた。可愛くて、顔を両手ではさんで「ずっとウチの犬でいなさい、どこへも行ったらいかん、こちらだけを見なさい」と頬ずりしながら胸中でよく言い聞かせた。しかし、ペットの可愛さは相手がやっぱり自分以外の、自分とは別の存在でいてくれることにもある。

 

 四六時中一緒に居ても、ペットはもしかしたら決して同じ方向を視ることはなく、あるいは自分のいない世界に浸っているかもしれない。それでもいい。同じ時間と空間を、あの温かいかたまりと過ごせることが至福なのだ。

 

 むしろペットが自分と違う方向や対象に注意や関心を向けている姿に救われることさえある。東日本大震災からひと月少し経ったある日、宅地から少し離れた緑地で子犬を散歩させている人がいた。飼い主の方はもう色々あって完全に疲れ切った面持ちで歩いているのだが、子犬は生え始めた芝生を、木の芽が萌え始めた枝が影さす地面を全身で喜びながら駆けている。あたかもこう言ってるかのようだった。

 

 ー僕ねえ、生きてるの!それがとっても嬉しい の!

 

  それは生き物が見せてくれる姿の中で最も感動的な姿勢である。自分をとりまく状況がどうあれ、ひたすら「生きる」方向へ全身を向けること。人間は言語で思考し、予測を立て、あれこれを意味づけ、人工物を使って生きるけれども、それはすべて「生」を善くするためだろう。これを忘れたくなくて、人は人以外の生き物に触れたがるのかもしれない。

 

空き家問題が問いかけるもの

 
 自宅近所はけっこうな勢いで空き家が増えている。のみならず、最近は空き家を取り壊して更地にする作業が進んでいる。近所づきあいが希薄なせいか更地になってからはじめてそこが空き家だったことに気づくこともある。閑静な佇まい区画であることも手伝って、よほど荒れた家でない限り人が住んでいるのかいないのか外観だけではわからない。で、更地になってしまえば元はどんな家が建っていたのか思い出すことも難しい。

 こうやって人が住んでいた痕跡は消えてゆく。住んでいた人や所有者には様々な事情があり、建てた頃にはそこへ住む人間がどんな晩年を過ごすか想像もつかなかっただろう。空き家が増えていく理由は単に少子高齢化だけではない。大都市圏でなければ食べていける仕事に就けない、子どもの教育環境が整わないなどの地方格差、企業内福祉を前提として公営住宅拡充を怠り労働者を持ち家に駆り立てた日本の住宅政策の失敗もある。持ち家は買ったその日から資産価値が下がり続け、維持管理には莫大なコストがかかり、居住者・所有者が高齢化すればなおのことそれらを自前でまかなうのは難しくなる。かといって処分するには方々の了解を取り付け手続きをし、これまた人手とお金と時間がかかる。これらのリソースを割けないばあい、傷もうがどうしようが空き家は放置するしかない。かくして売れない・貸せない・住めない家屋が全国あちこちに林立するだろう。

 家の処分まで行き着いても今度は更地をどうするか。立地が整っていれば駐車場にするケースが多いようだ。が、それもクルマを出し入れできる最低限の条件が整っていればのお話で、立地によってはそれすら難しい場合もある。自宅の斜め向かい奥にはコンクリートで均した地面の隅に小さな物置が建っている。もともと自動車の入れない幅の小路に面していて、こうするしかなかったのだろう。空地の有効活用も簡単ではない。中心街のアーケード付き商業施設集中区域にあった空地は、2年前まではちょっとしたプレイグランドで子連れが小休止する場所だったのにいまやコンクリートの駐車場である。スペースがあっても人が憩うためにはインフラが必要で、それを整備し維持するコストが負担できなければやっぱりそこは確実に賃料をとれる仕組みに変えないと存続できなくなるのだろう。

 人がある場所に住まうことは、実に多様な機能と意味の集積である。豪雨など災害で辺鄙な土地が被災すると上がる「そんな所に住む方が悪い、なんで備えをしておかないのか、自己責任!」という声は、人間を箱庭の部品のようにしか見ていない。辺鄙な土地にインフラを通してライフラインを築き、議会を置き、学校を建て、自営でも出稼ぎでもなんとか働いている人々がいるー、それは文明の実現であり、社会システムの一機能と社会全体の底上げであり、地政学上いわば「国力」の証ともいえる。人が住むから野生動物の侵食を防げる。辺境をかすめとろうとする意図の妨げになる。治水(ダムの水位調整は難しいとはいえ)や消防、治安維持、学力の習得、産業と経済システム、その他人間が暮らすうえで必要なスキルと機構をそろえた「小さくても輝く自治体」が全国に生きていれば、空き家も介護も貧困もここまでの深刻化は食い止められたかもしれない。平成の大合併小選挙区制導入は、明らかに日本の地方を衰退させた。エリアが広域化したぶん行政が面倒をみなければならない人員や機構が増えた。住民は医療や福祉に遠方からのアクセスを余儀なくされ、身近な機構ですべてをまかなえないために結局経済力のある自治体や都市部に「依存」せざるをえない。変えたくても小選挙区制では民意反映の回路はない。地方で働きたくても大店法で地域の小売店は撤退し、経済のグローバル化を受けて製造業は海外へ移転した。ではグローバル化に対応できるだけの人材育成に力を入れたかというと、新自由主義政策と「選択と集中」、「できん者はできんままでけっこう」(三浦朱門)という意図の教育改革のもとに教育を切り捨てて教育投資もカットした。このサイクルが失われた三十年のすべてである。

 空き家が増え、人が住まない一角が増えるとは、社会の一部として機能しないエリアの増加を意味する。ライフラインもその一角を避け、どことも繋がらない一角は町の動線から外されていく。そんなエリアがあちこちに出現すれば、人の動きは停滞し、社会の動線じたい構成することができなくなる。これから空き家問題や住まいの貧困を考えるとき、人間の居住がもたらす政治的・経済的・社会的機能/意味を念頭に置かなければ人や空間の孤絶を招くばかりだろう。

観光地に渦巻く時間

  先月末、奈良へ旅行した折に乗り換えで京都駅を利用した。平日午後でほんの二十数分の滞在にすぎなかったのに、ホームへ滑り込んでくる電車は見るだけで気がふさぐような混み方をしている。京都の人混みは都市人口数や関西圏内の他府県からの通勤通学者に加え、なんといっても年中世界中から来る観光客に起因している。観光地としての京都の在り方は国内他都市と比べて特異で、居住している人は移動をはじめさぞや大変だろうと思う。観光者と居住者の違いをぼんやり考えてみた。

  

  観光客と居住者は全く異なる時間を生きている。求める価値もちがう。前者は非日常に身を置き、自らの属する日常世界にない価値を求めて観光地をさまよう。対して後者は日常に埋没し、その地の歯車の一つとしてその時空間を機能させることを最優先に生きている。通勤者は決まった時間に職場へ到着することが最優先だし、昼食も昼休み終了までに職務に戻れるよう限られた時間で動き、退勤後は子どものお迎えと夕食準備や家事をこなせるよう一手先のタスクを見込んで動く。

  だが観光客は日常の歯車を離れその外側に居る。訪れたその地をあたかもスペクタクルのように眺めていられる。乱暴な言い方だが、人混みで生活の諸々を髪ふり乱し声を張り上げこなそうとする居住者の所作さえも、観光客にとっては時として鑑賞の対象となってしまう。

 居住者は日常の規則に沿った時間軸で動くことを余儀なくされるが、観光客は基本的に自分の都合で来て動く。居住者においては混雑の時間帯にも規則性があるのでたとえば各職場で始業時間をズラして通勤ラッシュの緩和も可能だが、遠来の客は利用する交通機関の都合で到着時間帯もまばらだ。食事時に食事ができるとは限らないのでふつうなら暇な時間帯に飲食店を利用することも多い。 混んでくれば早めに済ませて店を出ようとする客もいるけれど、かの地の観光人口は過重すぎて、少々の心遣いで緩和できるタイプのものではなくなっている。

 

 居住者と観光客の時間軸が混在し、その利害が先鋭化する場がバス車内だと思う。時間厳守の通勤通学者に加えて、連日観光客を運ぶ運転手たちは、「このバスはどこそこへ行きますか」「このカード使えますか」などをイレギュラーに尋ねられるのだ。日本語の不自由な人も多い。その地になじんだ者なら決してしないような質問が突発的に飛び交う中、日々の天候と道路状況に気を配り遅延なきよう進むのは神経を使うだろう。

  

 観光地のありようを考えるとき、いつも思い出す一冊がある。藤沢周平 

ふるさとへ廻る六部は (新潮文庫)

 である。ここに東北新幹線開通に寄せて観光開発の進むだろう東北の行く末を案じた「老婆心ですが」というエッセイがある。

 京都の地はそのネームバリューに乗じた観光業で観光客を適度に遊ばせ、ほどよくあしらい、しかし地元民の懐には決して客を踏み込ませず、料金はきちんと取るしたたかさを持っている。対して東北にはそういう気構えがあるとは思えないから行く末が心配だー。

 そんな内容だった。しかしこの懸念はおそらく、京都以外の国内はどこにでも当てはまるだろう。

 近年、日本を訪れる外国人観光客は増加している。けれどもそれは、失われた三十余年を経てなお「昭和レジーム」を一切払拭できなかった日本が、デフレの影響もあって物価も賃金も安い国となったことが背景にある。そうした中での「観光立国」の標榜は、国際社会での相対的な凋落を背景に、文化の安売りと表裏をなす売込み戦略に手を着けたことを意味するのかもしれない。

 京都の地は時に高飛車で冷たい。国内他都市にはない特有の気位がある。とはいえこの気質は京都が置かれた政治的立場上やむを得ず形成されたものでもある。

 

 本当に「観光で食っていく」には土地によっては適度な一線を保つために政治的なしたたかさを必要とするのだ。非日常を求めてやってくる外部者を、決して日常の懐へ踏み込ませない冷徹さをどこかに保っていなければ、文化はあっさり安売りされ、消費され、やがて喰われてしまう。

 大型連休、祇園祭、桜と紅葉の季節は混雑のピークである。路上はごった返し、ダイヤは無きに等しくなる。かつて秋に京都中心街を訪れたとき、地元民と日本人観光客がバス停に汗して長蛇の列をつくるその横をタクシーに乗った観光客がさっそうとすり抜けていったのは、上記の懸念を想起するならば、なかなか象徴的な光景だったといえる。

 

協働作業の動線

 先月半ばから休日出勤して戸外でイベント対応や、職場倉庫に眠る図書の移動と、仕事では身体を使う作業が続いている。貧血治療の甲斐あって代休なしでも疲労で体調を崩すことなくやれているが、自分はつくづく現場作業&チームワークに不向きだと痛感する。手や身体を使うタスクはこれまで仕事・プライベートともにやる機会は多々あったが、この手の作業を得意だと思ったことは一度もない。楽しさもやりがいも感じない。目的のイベントや作業が無事成功すればホッとするだけだ。そしていつも、チームワークが成り立つことの奇跡、物事がトラブルなく実現することが決して自明でも簡単でもないこと、難しさを痛感する。

 

 生まれつき器用な人、人慣れして共同作業や集団行動が億劫でも苦痛でもない人にはこの難しさは不可解かもしれない。思うに不器用な人は、器用な人には決して立ち現れることのない世界の現れを常に経験しているのかもしれない。

 

 モノの運搬ひとつとっても、事前に計画した段取りどおりにはなかなかいかない。年度初めの職場に大量の物品が届いた時、オフィスにはエレベーターが無いので3〜4階までみんなでバケツリレー方式で荷物を運んだことがある。

 

  玄関、フロア、階段入り口、階段の中、踊り場、に並ぶ人数とその間隔。

 どこに、何人、どのくらいのテンポやペース配分で運ぶのか。

 

 間隔が詰まってきたら「ゆっくり運んで下さい」。

 終わりが見えてきたら「あと何個です」「 これでラストです」。

 

 その声がけの内容やタイミングも全体を見ている者なら適切にできる。

 

 ある部屋から別の部屋へのモノを移動させる場合、もっと考慮すべきことがある。

 

 大きな棚を運ぶなら置いてある部屋の扉を最大まで開けて固定すること。扉止めのブロックがなければそばの石やコンテナや植木鉢でガードする。数人がかりで運び出すか、それともバラして部品を各人が運ぶのがよいか判断する。

 

 ある程度重量のある小物を運ぶ時は台車とコンテナを使う。台車のありかを思い出し、いくつ必要か予測し、持ってきたら小物を置いた部屋の戸口と、別棟入り口の廊下、階段の踊り場に置く。

 

 小物を入れるためのコンテナの置き場を確保し覚える。目的地の部屋で空のコンテナが視界に入ったら帰りはそれを取っていくこと。

 

 これも終わりが見えてきたらメンバーとすれ違いざまに「もう終わりました」「あと何個だけでいいです」と伝えなければならない。

 

 現場を指揮する者はもちろん、作業参加者でもこれくらい注意を働かせて集中力を使う。「単純作業」などとどうして呼べるだろう。

 

 一人ではやすやすと出来ても、数人がかりだと途端に段取りや自分の役割を考えなければならず気詰まりと気後れが生ずる作業もある。

 職場では金曜の午後に各部屋へ順番に掃除機が回ってきて、同室者みなで掃除する習慣がある。四隅のうち、どのコーナーからかけるかわかったらすぐさま近くのコンセントへコードをさし、椅子やごみ箱を除ける。除けるモノたちをどこにどれくらいの範囲で移動させるか。掃除機をかけ終わって戻すタイミングも、掃除機がそのコーナーの机や棚などの奥まできれいにし終わったのを見計らってからだ。

 次のコーナーはどこか、誰が掃除機を持つのか、重い本体を転がして持つ人のそばにつける役は誰か、今度は何を除けなくてはならないのか。掃除機のマズルの行方だけ見ていればよいわけではない。 

 

 休日の戸外イベントでは会場から離れた、しかし確実に会場を囲む地点で案内板を持って立っていた。来訪者の車を決まった方向に誘導するだけなのだが、みんなここに通路があるとは思わず下手をすると通り過ぎて行ってしまう。

 眼前は麦畑で、ちょうど刈り入れの真っ最中だった。畑のそばへ立つにあたって軽く挨拶し、車の来ない間はじっと麦刈りを眺める。刈り取り機はまるで角ばった渦巻のフォームを描きながら、ゆっくりと熟れた麦の穂を刈ってゆく。

 

  わたしたちの協働作業もきっと、遠くから見ればきっと美しく秩序あるラインになっているだろう。チームプレイは過不足なくうまく実現すれば、本来それくらい見事な動きを形づくるのだ。それは言うまでもなく携わる者が抱く様々な注意と配慮の賜物である。

 

 こういう協働作業を終えるたび、「誰にでもできる仕事」なんて世の中にないのだとひしひしと感じる。雇用破壊と賃金差別が進んだ三十年の失策を認め、すべての労働者に賃の引き上げと休息の保障を与えなければならない。

 

気まぐれと絆しのはざまで

f:id:iwakibio:20190505162933j:image
f:id:iwakibio:20190505162940j:image

 

上の写真は、連休初日に訪れた山陽の街中にあるバス停で撮った藤の花である。晩春とはとても思えない寒さの中、昼過ぎに高速バスを降りてから外を歩く行楽はもう中止して夕方までずっと宿にいた。これはその宿へ向かう途中にふと視界に入って惹きつけられて写メに収めた一瞬の気まぐれである。

 

 街中は人出も多い。色んな年齢層やカラーで溢れている。私のすぐ前には四人の幼い子どもを連れた母親らしき女性が歩いていて、私が藤を撮り終えようとするちょうどその時に、鋭い声で子どもの腕を引いた。車が通っている横断歩道へ走って出ようとするのを止めたのだ。小さな子は好奇心旺盛で世の何にも慣れず、大人の予測がつかない突発的な行動をする。叱るのが一瞬遅ければ、事故につながっていたかもしれない。

  じつに、子どもの面倒をみることは常に神経を使い心を配り、気を抜けない。子育てで辛いのは「自分のことが何一つままならないこと」だと聞く。一瞬の隙に誤飲や転倒、ケガや失跡など子どもを命の危険にさらされる状況はたやすく現出するので、つねに目を離せず注意を向け緊張し、食事もトイレも自分のタイミングでできないー。これはワンオペ育児だけでなく多動の認知症高齢者の介護もそうだろう。

 

 とはいえ子連れや高齢者に対して色々問題はあるにせよ、彼/女らはまだ様々な社会的つながり・社会的紐帯の中に在り、良くも悪くも絆しに絡めとられて生きている。実際にケアが必要な人を特定の一人だけで面倒をみるのは危険かつ限界があるし、関わる個々人の善意によってかろうじてであるにせよ、それはまだ社会的包摂の一環をなしている。

 

 今の私は、そういう立場ではない。

 

 そこに居たのは一人旅の途中としてである。

 

  辺りを見渡しながら、あるいは周囲に何ら気を配ることなく自分のタイミングで歩き、視界を定め、止まりたければ止まり、カメラを向け写真を撮れる。実に気ままに、そして気まぐれに動けるものだ。

 

 だが一方で、自分のこの気ままさが社会的つながりの希薄さ、社会的排除紙一重にあることも意識できる。かつて自由なイメージで語られたフリーターがその実不安定雇用労働者であり、多様な働き方と称して政府が雇用の流動化と破壊を推し進めたように。低賃金と社会保障に絡めとられて居ないせいで結婚も子どもをもうけることもできない人たちが持っているように見える「気ままさ」は、社会に繋ぎとめられていない不安定さ危うさと紙一重である。

 

 平成三十余年にわたって、この国は社会統合のコストを放棄し続けてきた。もともと福祉国家の機能をほぼ企業が代替し、残余部分のケアは家事育児介護すべて家庭に丸投げして繁栄をきわめた日本社会は、企業内福利厚生のハシゴを外したとたんにその脆弱性をあわらにした。

 国家や企業が手放したケア責任を一手に担わされた家庭や地域ももはやインフォーマルなつながりを失い、バッファは低減する一方だ。

 

 いったい誰が排除された人に目を向け、人が作る社会へ参画する機会へ連れ戻すのだろう。砕片化しフラグメント化し、点在する島宇宙から個々の眼に映る固有の風景が無限に近いほど在るには在るけれども、それらは決して互いに交わることはない。

 

 本来、生活保障やケア提供は手厚い公的セーフティーネットによる負担を前提に、血縁以外の多様なタイプのネットワークによって支えられるべきだ。それこそが結局、個人の自立ー近代的主体概念はもはや自明でなく問い直しの段階にあるけれどーを促すのである。

 

 人一人が生きて成長する過程で必要な「傷つく権利」、試行錯誤の機会を包摂できる社会。これは、平成の失策に気づいた個々人が、新たな目覚めのもとに社会と関わり、必要ならば運動によって築いていくしかない。

 

前田正子『無子高齢化ー出生数ゼロの恐怖』から言えること

無子高齢化 出生数ゼロの恐怖


 人口減少、人手不足、少子化、高齢化、若者の貧困化、日本国全体の貧困化—。これらが一つの糸で結ばれるのが本書である。
 これらの問題は近年頻繁に論じられるようになったものの、それぞれ個別に語られることが多く、まして若者支援や国内労働市場における女性の低賃金を議論の要素や射程に組み込んだ主張はなかなか表に出なかった。


 なぜこれほど少子化が進んだのか?団塊ジュニアから生じるはずだった第三次ベビーブームが起きなかったからだ。
 なぜ起きなかったのか?1993~2005年にかけての学卒者にあたる就職氷河期世代への支援対策を放置したからだ。
 なぜ放置したのか?この世代を不安定な非正規雇用に押しとどめることで、彼らの親にあたる団塊世代の正社員雇用を守ってきたからだ。

 「最も有効な高齢化対策の一つは少子化対策(p.84)であり、若者への「就労支援と貧困対策こそ少子化対策」(p.142)であるにもかかわらず、それらは果たされなかった。


 私が本書を有用だと思うのは、その背景・要因として就職氷河期世代の犠牲を取り上げていること、労働と家庭における女性の位置づけー男性稼ぎ手の家計補助とされてきたゆえの低賃金、安定雇用の欠落、専業主婦が介護や育児を無償で一手に担わせるモデルの残存ーへの言及があるからである。


 バブル崩壊以降、日本の雇用慣行は経済のグローバル化にともなう産業構造の変化に対応できず、1995年の日経連『新時代の「日本的経営」』方針以来、国内企業は非正規雇用の増加で延命をはかってきた。正社員雇用やその給与、福利厚生が縮小低減されていくなかで、結局日本は日本型雇用慣行に代わる成長戦略も労働・社会参加のルートを生み出すことができず、三十年間にわたって家族形態や社会保障設計においても「昭和レジーム」から脱却できなかったことがわかる。

 このことが、現行の生産年齢人口とくに就職氷河期を経験した30~40代にさまざまな困難と不利益をもたらしている。

 本書ではダブルケアへの言及がある(p.36)。育児と介護の両方を担う負担を考えると、晩婚カップルは出産を躊躇するだろう。

 また子育て関連施策の社会保障への移転が進まなかったことに関して、介護の危機は比較的共有され介護保険など制度確立につながったのに対し、子育てに対する公的支援の必要性がなかなか理解されなかったことも書かれている(pp.80-83)。子どもを産み育てることは個人の私的な問題であり、私的領域である家庭に丸投げしておけばよい、という考えは自己責任論とともに根強い。本書ではこの考えを否定し、人生前半(=若い世代)への公的支援の必要性を主張する。

 さらに、地方在住の高卒者にもふれている(pp118-121)。2000年前後、「高卒事務系の仕事がなくなり、求人は大卒者へとシフト」し、「高卒者の有力な就職先であった製造業が失われ」「残った製造業は従業員の非正規化を進めた」。失われた三十年で最もひずみを受けたのが地方在住で家庭の裕福でない高卒者であったことを忘れてはならない。地方で起きた疲弊はやがて都市部にもおよぶだろう。

 いまや「人口減少を上回るスピードで現役世代が減」り、これまでどおりのサービスもインフラもやがて維持できなくなる少産多死の社会が到来しつつある。人口が減っていくことを前提にインフラを維持管理できる規模に組み替えなくてはならない。これ以上若い世代をないがしろにしては、高齢者が自立したくとも介護されたくとも、サービスの担い手がいなくなるだろう。「家計補助」ではない現役非正規労働者に生活できるだけの賃金を手渡すことが急務であり、最も有効なのだ。でないと社会は維持することも再生産することも不可能になる。

 平成はつくづく人材養成の機能や負担を放棄し続けた時代だったといえる。企業は即戦力要求のもとにOJTや研修を放棄してきた。有期雇用者を数年で置き換え続けるモデルでは技術継承もままならない。社会参加のルートが労働、それも正規雇用での労働にほぼ限られていた日本では、そこを外れると結婚や子どもをもうける機会も失うことを意味してきた。教育も改革と称して予算・人員・公的責任の縮小がなされてきた。それは社会統合のコストを手放すことでもあった。その結果、どこともつながらない社会被非排除者が膨大に生み出された。

 それは大きな損失であり、人権の否定だった。若い世代が社会へ参加する最も大きく主流たる回路である労働が、徹底的に損なわれた時代でもあった。本書の指摘と提言は、今後の社会展望を語るうえで不可欠の大前提といえるだろう。