いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

舞台がはねたあとに

 祝福を。

 昨日は県内へ日帰りで遠出してきた。お目当ては芝居小屋での観劇。

列車が山間部へ入ると一気に時間の流れが変わる。特急車内の窓から海と、田植えが済んだばかりの水田に反射する光に目を細めた次の瞬間、新緑と渓流の輝く山間へ移るのだ。

 駅から降り立つとあちこちにアジサイギボウシが咲きかけている。町を流れる川辺の魚屋にはガス台のうえに鯖によく似た模様の大魚が串刺しで焼かれている(たいへん珍しい光景だと思うのに、写真を取り損ねてしまった・・・)。

 観劇がすんだ後、明治期からの街並みを残す保存区を歩く。

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 木造家の軒にとうきび。ほかに無人販売棚に売られる野菜や唐辛子の彩り、郵便受けに竹細工からなる昆虫や竹とんぼがある。
小川にかかる橋のたもとで涼む人々、用水路のかげで草とりする人、小路のすき間にめいっぱい草姿を広げるヤブガラシ
坂道に並ぶ木造建築のいくつかは土産物店やゲストハウスとして活かされている。

 そのうちの一つ、古民家を改造したカフェで一休み。

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アイスコーヒーを頼むと、手作りのクッキーをサービスで出してくださった。
店内には数人連れのグループが数組いて、一組は屋外に面したテーブルで、もう一組は畳敷きの部屋に置かれた椅子と卓上で歓談している。
けっこうご高齢の方が多い。看板メニューのぜんざいに匙を動かし、他愛ない会話をしてやがて帰っていく。

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 写真はお客が去った後の席。奥には上着の掛かったハンガーや箪笥がならび、日常の時間がまだ共に流れて見える。

 県内遠方から来るリピーターのお客さんが店主と言葉を交わす。

―ゆっくりしていって下さいよ、このあと特に用事とかないんでしょう?
―このあと?まあ別に急ぐ用事もないんだけど・・
―いいですねえ。こっちはここ(店)が終わったあといろいろありますよ・・


 そうだよねえ、と思う。これだけ居心地の良い空間を提供し、維持するためにはどれだけ労力と配慮を要するか。

 どの座席にも季節の花が生けてある。入口からカウンターに置かれた諸々の雑貨。風の通る動線。畳敷きの部屋も念入りな掃除が必要だろう。

 空間を提供する側も休みにくる側も、清濁併せた雑多な日々を生きて珠玉の時間へたどり着く。

 高齢社会と地方のあり様を思う。観劇の様子も思い出す。

 SNSでは先週から公共の場で騒ぐ子どもを注意しない保護者への非難とその反批判が飛び交っている。あれは注意の対象が子どもだからまだ言えるのではないかと思う。子どもがマナー違反や危険なことをした時力ずくで抑え込むことはありうるが、高齢者に対してはどうか。

 たとえば公演中に携帯を鳴らす、私語、それを同伴者がたしなめないことは大人それも高齢者のほうが深刻である。
でもやむを得ない中途入退場もあるだろう。歳をとると慢性的な不調を抱える人もいる。足腰が弱って移動だけでも時間がかかったり付き添いを必要としたりするから(子どものトイレも同様だが)休憩を長めにとるのも大切な配慮だと思う。自分の親がそうなるかもしれないし、自分がそうならないという保証もない。

 大正時代にこけら落としをした劇場の廊下には、地方芸能を支えた人々の様子が写真となって並んでいる。

 心地よい時間と空間を創るには、作り手と受け手双方の意識的な努力が要る。
 
 舞台がはねた後も、公演一座、観客、関係者、後援者にはそれぞれの持ち場で奮闘があるだろう。
 その芸に連なっていたいなら、自分が抱える矛盾を引き受ける力を各人が持っていることを信じて帰った日常で懸命に生きることが
よすがとなるのかもしれない。

 例のカフェはこちら。
https://ja-jp.facebook.com/cafedenjirou/

 ここだけでなく県内の佇まいあちこちが、どれほど自分を生かしてきたかと振り返っております。