いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

チャリの景色、クルマの景色

  先週月曜から自転車通勤を再開した。それはよいのだが、炎天下の自転車こぎをあんなにキツく感じるとは思わなかった。自宅から職場まで、直行だと30分弱はかかる。行きも帰りも汗だくで、今まで当たり前に乗っていたことを不思議に思い、体力の低下に驚いている。足指骨折から2ヶ月が経つ。患部は順調に回復しており、通院も2週間に1度となった。患部をスポンジでしっかり固定すれば自転車乗りもOKと医師から許可をもらったのでそうしたのだが…。

 

 自転車と自動車では同じ通勤路でも見える景色は全く違う。移動手段のちがいがもたらす都市景観の経験の差異については、東口豊「都市景観の相対性理論ー移動手段の多様化によるイメージの変容」(西村清和編著『日常性の環境美学』2012年所収)に詳しい論考がなされている。

 それは第一に速度のちがいに起因するだろう。自動車は速い。空いている道路だと一直線に目的地へ向かえる。自在であることの快適さはまさにこういう時に味わえる。ただし速ければ速いほど、その景色は視野の広いもの、前方から見通しを中心としたもの、目立つものに特化した大味な輪郭として現れる。

 

 一方自転車は速度では車に劣る。動力源がエンジンとガソリンの自動車とちがって、基本乗り手の体力だ。その代わり、車なら決して目に留まらない光景を捉えることができる。職場まであと数百メートルの地点にある在来線の線路沿い土手には、フェンス越しに満開の空色朝顔ヘクソカズラの群生がある。もう少し経つとセイタカアワダチソウやススキが伸びてくる。手前の、土手を利用した小さな畑と併せて広がるこの自然の風景は、車なら決して見ることができない。歩道をあの速度で走るからこそ目に留まる一枚の絵だ。ほかにも民家の軒先や窓の様子、庭の植物や田畑の育ち具合を仔細に観察できる。自動車では一瞬で通り過ぎる点、または自動車から見える風景の輪郭をなす一点が自転車では立派な一枚の絵として立ち現れる。

 

 第二のちがいは、景色を知覚・表象するために用いる感覚器官である。自動車に乗る人は四方をフロントガラスに守られている。車内の者は周囲の情報や影響を直接的に知覚することは少ない。このため自動車から望む風景は視覚中心になり、聴覚、触覚(外気を直接浴びることはほとんどない)、嗅覚はあまり使わない。かつ目的地や見たい対象のみに特化した近づき方ができる。そんな中冷房をきかせてカーラジオをつけ、あるいは好きな音楽をかければそこはもう立派な私的空間となる。マイカーにこだわりを持つ人、車を手放さない高齢者の心理はこの私的空間としての自在性への愛着、また自分らしさの反映が可能なことにあるように思う。

 

 これに対して自転車では、通る路面のあらゆる情報を直接的に知覚する。視覚以外の感覚もフルに用いられる。青葉の影も紫外線も、開けた場所の風も埃も、フロントガラスを通さずすべて自分の肌に降り注ぐ。路面の凹凸もペダルを通してじかに身体に伝わる。草むらや並木の葉擦れの音、遠方の工事音、夕方の店の活況、道行く人の話声も時折聞こえる。あるエリアでは異臭、疲れ切った表情、そのオーラ、道にただよう雰囲気そのものの中へ突っ込んでいく。とはいえ、歩くより速度が速いので脱けるのもすぐだ。道一本挟んで向かい側へ、また一本でも別の通りへ入れば別世界、という経験は自転車だと鮮やかにできる。とはいえ自転車の動力源が乗り手の体力である以上、自転車から見える風景には天候と、本人の体調を含むコンディションが反映する。水分補給のためだけにコンビニで飲み物を買い、駐車場でキューっと飲み干し、ふたたび自転車で去っていく自転車乗りは多い。

 

 ところで自動車は渋滞にハマるとにっちもさっちもいかない。自在な私的空間は、この物理的な制約ゆえに運転者の意思ではどうにも制御できなくなる。そういう時自転車は小回りがきく。トイレも水分補給も乗り手の判断でできる。自転車と自動車、どちらの自在性を選ぶかという自由や選択の余地は、ただ若さや健康によって左右されるのだろう。