いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

平日と休日のあいだ

 夏休みを頂いた。7〜9月までに3日消化しなければならなくて、その2日目を今日にした。

 

 わが家は多忙である。県内市外に住む入院中の祖父を看る&祖母を歯医者へ連れていくという用事のため、父は8時前に車で出発した。寝床から何となく物音を聞いてそれを確かめた私が階下へ降りると、ダイニングで母がコロッケを仕込んでいる。先週末は土曜出勤後友人と会うために出かけ、夕方祖父の病院へ泊まり介護、月曜朝帰宅してその夕方から仕事へ出てきた母である。今朝は朝食の片づけ後、油で汚れたガステーブルのゴトクを外して重曹等で洗い、冷蔵庫に丸ごとあるキャベツとレタスをほぐし千切りにしてタッパーへ詰め、コロッケの具を拵えて卓上でポータブルTVを見ながらコロッケのタネを丸めているというわけ。

 

 ちょっとは休めばよいのに性分なのだろうか。衣をつけて冷蔵庫へコロッケをしまったら今度はスニーカー3足を洗いに帽子もかぶらず裏へ行ってしまった。ほどなくして戻ると今度は職場仲間からのLINEを確認して、今度人生の節目を迎える同僚へのお祝いに関することでやりとりを始めた。それが昼前だから、この3時間強後に彼女は仕事へ出かける。

 

 母は、まあとりわけ強靭なタイプだと思う。こんなことをすべての人が出来るはずもなく、だから世の中は人手不足と偏った役割分担に悲鳴をあげる人倒れる人続出で、昭和レジームの建前はもういい加減維持できなくなっている。そこへ賃金上昇を骨抜きにする消費税増税と、要介護1,2の給付外しと走行税実施がもし行われたら、もはや地方で自立して生きられる層は壊滅するだろう。

 

 日々の暮らしは、「ながら」の連続だ。洗濯機を回しながら台所で湯を沸かし、水切りの食器を片づけ調理をする。子どもに注意を注ぎ声がけをしつつ膳立てを整える。仕事をしている時もその最中に前後にある準備と後片付け、フォローを考える。

 

 ある行為と別の行為の切れ目はそんなに明瞭なものではない。純粋な意味で「何も考えずに」行動するなんて、実生活では案外できないのだ。母がお祝いする同僚もじつはシングルマザーで、定年後本格的に自分のお店を開きたいと前から考えていて、まだ勤めを続けているうちにその前段階を兼ねて店を始めるのだという。人生百年時代に皆、自分の先行きを懸命に考えている。

 

 子育てや介護をしている人にはもっと顕著で、自分だけの時間や、自分のことだけをできる時間はあってもごくわずかだ。自己と他者の領域が、時間が、複雑に、緊密にまたは緩やかに絡み合って作られるのが日々の暮らしである。

 

 仕事が休みでも「休み」じゃない。職場に行かなくてすむだけで、家の用事や仕事以外の領域で相互乗り入れを繰り返す、と共にひとつの時間にいくつもの行為を同時進行でやるのが現実だ。

 

 だから、働き方も8時〜17時土日休にこだわる必要はない。祝日をやたら増やし、限られた日にみんなが一斉に休む、というスタイルは現実に不適合である。戦後高度成長期につくられた

「人生の中でこの時期は学業だけ、この時期は仕事だけ、または子育てだけ、リタイアの年齢も横並びで決めてそこから先は働かない」というライフコースも、一人の人が仕事「だけ」、子育てや家事「だけ」を担う分業も、いまや機能不全かつ機能させる条件が成立しない。そんなわけで、誰もが休みたい時に分散して休める働き方が、超高齢社会で子育てと介護を同時に担うダブルケアが増える現代には必要だと思う。

 

 「ボランティアであり学生である、会社員であり学生である」ー、放送大学のポスターを見ながらこれからは一個人がいろんな役割を生きる時代だなあと痛感する。学生であり労働者である、労働者であり家庭人である、労働者である一方消費者でもある、親でありまた子でもある、一人の人間にはさまざまな属性が絡み合う。

 

現役もリタイアも、学校から労働への移行も、平日も休日も、キッパリ分けないで人それぞれの関わり方で生涯を生きる。それが、どんなに日本が零落しようと個人が前向きに生きていく条件を見すえる第一歩なのだろう。