いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

地続きの外へ出て

祝福を。
山陽から戻って今後のことを展望してみると、何だか自分がきわめて限られたエリアで右往左往しているのでは?という視点がもち上がった。それはあたかも、精巧に造られた箱庭の中でひとつまみの素材を右に置くか左に置くか迷う様子に似ている。素材にとっても箱庭の鑑賞者にとっても見える風景は変わるのだろうが、しかし、しょせん同じ空間内であることに変わりはない。

同じ文化圏だから、というのはある。瀬戸内海を渡っても極端に言えば地続きのような感覚がある。この感覚は、実は沖縄を初めて訪れた時も同じだった。言うまでもなく琉球諸島の大気と陽光と文化、何より歴史上置かれた立場は、瀬戸内沿岸とは異なっている。けれども政治的経済的な被抑圧の側面を外して、温暖な気候に温和な気質、物価と家賃と賃金の安さ、貧困のあり方に目を向ければ、その様相は今暮らしている地元と何ら大差なく思えた。

国内で真にカルチャーショックを受けたのは、東北へ足を運んだ時である。八月だった。真夏だというのに草木は初夏の色をたたえ、冬ごとに雪にさらされたろう屋根や郵便受けの朱色が映える。果物屋の軒に木陰から射す陽は店頭の陰影をいっそう濃く映し、繁る葉の青さを浮かび上がらせる。光の色は四国と全く違った。

作者を忘れてしまったが、

みちのくに棕櫚咲き垂れてものの影深くなりにき夏来たるらし

という短歌そのものだった。

思いつきでバスに乗り、山間部の切り立つ崖のような場所から臨む対岸には、際に並ぶ家並みと、急勾配をゆっくり上がり下りする車が作る動線が、一枚の絵のようだった。冬は真っ白になるだろうその景色は、その土地の文化の持続性を教えてくれた気がする。足元の檜扇水仙がまた若葉のような草むらに咲いている。

ここならやっていけるだろうと思って翌年から本当に住み始め、しかし決して好い事ばかりでなく、最後は震災と原発事故の諸々で帰郷することになった。特有の閉鎖性暴力性を見、決して元々の気質だけからでない、歴史上の貧困や封建性を目の当たりにもしたが、それでも私にとって国内の異文化を経験したことはひとえに幸福だったと言い切れる。

地元で暮らせたこともいつかそう言い得るだろうか。この保守的というよりは体制的な、明日も明後日もこの先もずっとある体制枠組みは続いて、それこそ幸福だと言わんばかりに変化を厭うこの土地に。自分がそれを厭わしく思うのは、変化し続けること=勝利、という変な図式にとらわれているからかもしれません。

旅終えて

祝福を。
やっと汽車が四国に入り、ホームに「瀬戸の花嫁」が流れるのを聴いてあ〜この空気へ戻ったか〜とうんざりするはずが、どこかホッとしてもいる。

のんべんだらりのゆるさが、四国というか地元では許されるのです。それゆえにサービスの質がどこか抜けていて的外れだったり、いいかげんだったり、イラつくこともある。晩春から秋までの暑さは異様で、凌ぐには何もしない以外対策がないと思うような日もある。

とはいえ瀬戸内なら、とりわけ夏の気候風土は似たり寄ったりなはずなので、瀬戸内海を渡るだけの移住なら再び忍耐が必要だ。瀬戸内エリアをひとくくりに見れば、どこへ住んでもそんなに大した差はないのかもしれない。交通アクセスの差はかなり大きいが。

こんなことを書くのは少し弱気になっているからで、自分の立場の中途半端さを思い知らされたためだ。この歳で、地方都市から地方都市へ移り、非正規の仕事に就き、一人暮らしを守ったところで「やりたいこと」の生活比率はやはり片手間の趣味にすぎないのではないか?第一そのためにしていた貯金も昨年、経済問題の解決を早めるために吐き出した。 旅費はあるが、引越費用は大丈夫か?という状態になった。

職場では、明日も明後日も数百年後も同じ体制や生活様式が続くことを、あたかも東から日が上り西へ沈む法則と同様に信じている人々の集まりで一日が暮れる。頭の中は食とテレビと服と家族のことと、安すぎる賃金のことで占められている。それが悪いとは言わないが、いつか来る別れの日までこんな人々に囲まれていたら後悔で死に切れないと思う。

出口はどこに。いや勝てる市場はどこだ!?問いの立て方は、実はこうだったのかもしれません。

無題

旅先の居酒屋は凄い活況だ。土曜夜はどこもこんなものかもしれないが、私は地元で中心街の飲み屋に入ると職場の人間と会う可能性が高いのが嫌で避けている。あの人たちは気楽だ。正社員で、しがらみの無い土地で、物価が安くそこそこ都会で数年すれば去ることが出来る土地。今のうちに束の間の愉しみを享受しようと思っても無理はない。だが、その地に住む窮屈さも知っている人間は、彼らより別の世界を知っている点で少しは視野が広い。負け惜しみでなく最近はつくづくそう思う。

いわゆる都会に出て味わえる心地よさの一つに、個人が思い思いの態度で居られることがある。飲食店で本を読もうがスマホをいじろうが、友人と話そうが、感慨に浸ろうが、人それぞれ。

人間ってこんなにも自由でいられたんだ!という、大げさと思う方はそれで良いのだが、意のままでいられる心地よさをたまに街へ出ると味わえる。

単純に人口規模のせいもあるだろう。匿名でいられる率は、人口百万の土地と五十万の土地では違うからなあ。 でも、居心地の良さを作り出す技術はサービスを提供する側と受ける側の双方に要求されると思う。だから私もも不平ばっかり言っていられない。

さあ明日は帰りが遅くなるだろうからいまのかにちゃんと休んでおかなくては。明日のこと、未来のことを考えてそれを良いものとして優先する、という姿勢は投げやりな時にはまず思いつかない。自分が少しずつ、別の道を選び始めた証みたいなものを、立春の今日に確認する。

その人から現れる世界

祝福を。という挨拶も、何だかいつも書き出しに使うには相応しくないのかな?と思うようになった。これは、「汚れなき祈り」という東方正教会の修道院で起きた事件を題材にした映画の中で、修道女たちが朝の挨拶に使っていて、生の讃美と肯定に相応しい、と思ったから使っているものです。彼女たちが過ごす小部屋も、ちょうどわが職場で昨年夏まで居たフロアと似ていて親しみが持てる。この挨拶でその日を始められたら、と思う。

さていわきびは無事旅先にたどり着きました。感謝なことです。用事はともかく実際には完全に気晴らし遊びで、家族やイベントの提供者たちには少々気がひけるが、こっちも平日は仕事で散々嫌な思いをして激安賃金で働いてるのだからトントンだ。

ブログの世界では、旅先や自分の住んでいる土地の魅力や事情を伝えるタイプのものもある。今や世界のどこからでもスマホで写真を撮り、記事もスマホから書ける時代。旅先でも居住地でも、その土地のレポートはそんなに力まなくても気軽に書けるようになった。

が、そういう記事をめぐってバッシングが起きてもいる。地方移住や海外移住を実現した人の記事に対して「そんなバラ色の良いことばかりではない」「情報が不正確だ」という内容の批判が上がるのだ。

私は、記事の性格によっては、その批判は的外れだと考える。その人たちはなぜ、あれらをたんなる読み物として受けとめることができないのだろう。「消費」という語は真面目な、社会に対して批判的な視線をもつ人々にとって不真面目で徒労で無意味な意味合いを与えられているけれども、それはメディアの性格上当然の帰結とも言える。何より、いくらグローバル化の時代と言っても多くの労働者は今いる場所や待遇で何とか凌がなくてはならなくて、そしてグローバル化するより前の時代から面倒で気苦労の多い日々を乗り切る知恵として、食や風景やアートや美的経験の消費はなされてきた。だから、居直りと言われても消費を狙って記事が書かれるのはやむを得ない側面がある。

帰郷する前に住んでいた土地で、私は紀行作家として写真や文章を発信する人の家にバイトで出入りしていた。「まあ多少はハッタリも効かせてるんだけどさ」と言いながら見せてくれた写真はたしかに技術的な修正も施されているものの、あの手の写真はその人にしか撮れない何かがあるんだろうと漠然と感じた。今ならもっと優れたブロガーや発信者が居るのだろう。あの手の記事は要は見せ方で、編集能力や人目を惹きつける技術を持つ人なら、自分のSNSアカウントで容易く発信してしまう。そしてpvも稼げるだろう。

だが、紀行文というジャンルは誰でも良いものが書けるかというと、私は違うと思う。今と比べて解像度の低い画像、国外についての少ない情報量、何より行くも調べるも海外へアクセスが圧倒的に不自由だった昔と比べても、今の紀行文が格段昔より優れているとは思わない。

なぜなら、紀行文で書かれるのは書き手を通して現れた世界だからです。どんなに善きものが詰まった土地も、また魅力の欠片もない土地も、書き手の眼や手を経てしか切り取ることのできない何かがあるからです。そこに現れるのは、書き手にとってのその地である。書き手の身体を経てしか結ばれない像があり、読み手はたとえ書き手より簡単にその地にアクセスできるとしても、書き手が切り取り表現したその地を見たいと望む。その地は訪れる人ごとに無数の姿を見せるのです。いつの時代もこうした欲望が消えることはない、と私は考えます。

写真は旅先の駅内トイレに生けられた花。ムシカリがよく映えて味わい深いものです。

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できることと成ること

〈できる〉は快感だ。自分の望む何事かを、自分の自由意志にもとづいて、道具や自分の身体を制御することによって、実現する。〈できる〉は自分の、自分が制御可能な領域を拡げる。同時に自分の周囲を自分が生存するために調整する。そうして〈生きる〉の幅を広げてくれる。

ICT革命以降、メディアを使いこなせる個人にとって〈できる〉の幅は格段に拡がったに違いない。ネットとアプリを活不可能すれば、前世紀には不可能だったサービスが実現する。SNSを通して個人が発信することー所感や考察を他人の目にさらすことーは、ガリ版刷りの通信やミニコミや紙の雑誌なんかよりはるかに容易くできる。生活を自分仕様にデザインしカスタマイズする、これもスキルの有る人には可能となった。ライフハックが提唱するのはそれだろう。のみならず、器用な人なら構想から実現までの隔たりはグッと短縮する。まるで神がするように!

そうだ。近世以前は、世界を説明するために神が必要だった。近代科学がもし普及していなければ、今の私と数時間前の私が同じであること、自分が維持できていることさえ、神の創造が絶え間なく現れているためだ、と説明されてもさして違和感を抱かないかもしれない。

近代は、個人が〈できる〉ことに大いに特化した時代だった。私的所有と自己制御にもとづく能力観・自立観、それが社会的上昇移動の手段や、国民国家の一員たる資格と深く関わっていた。

〈できる〉は個人の尊厳に結びつく。これは裏返せば、〈できない〉状態になることは、生存の危機とともに尊厳のはく奪を意味する。しかし本当にそうだろうか。

〈できる〉はしょせん、数多ある条件、機能、意味づけから成る複雑な歯車の、奇跡的一致にすぎない。身体機能に根ざした呼吸、睡眠、排泄だってそうだ。しばしば「あたりまえ」とされるこれらさえ、自分の意志でままならぬ人が現実には存在する。だから、一般に言われる〈あたりまえ〉を実現するためにはその内実を問い、しくみを知り、別のやり方で取り戻さなくてはならない局面だってある。

〈できる〉は〈成る〉の集積にすぎない。その〈成る〉は必ずしも個人の能力の及ぶところではなかったり、技術や道具や協働ゆえに果たせる事象だったりする。だから、私たちはもっと謙虚に〈成る〉を吟味してみる時が必要だ。一見万能と思われる技術がある条件では無力なことがある。反対に、無力と見なされた個人にとって、ある条件なら「可能な/可能だった」あれこれの選択肢が、無数ではないが数多あるケースもあるだろう。

私たちの生きているこの一瞬さえ何らかの奇跡とみなすひと時こそ、最も意識して作り出す必要があるのかもしれません。

カフェという時間

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帰郷前に住んでいた土地には、喫茶店文化というものがほとんど無かった。あるのはチェーン店のカフェか、常連でもってるような個人経営の喫茶店で、後者はいちげんさんが入りやすいとは言えない。小洒落たカフェは街中にはいくらもあるものの、本当に匿名で思いつきで、サッと入って出る、がし易いとは思えなかった。

地元に帰郷して瞠目したのは、個人経営で雰囲気の良いカフェ兼レストランがきっちり生きていることだ。人口52万少しの街なのであまり客層を絞るよりも、間口を広くして色んな立場の人ー単身者、友だち連れ、カップル、家族、子連れ、高齢者ーが気軽に入れる空気やメニューが鍵となる。

だが、それは今の時代簡単ではない。居心地の良さを構成する要素の一つに匿名で居られること、ベタベタ構われないこと、一人で入れること等を前に挙げてみたが、これらは高い技術を要する。

学生時代、学校の近くにそういう喫茶店があった。カフェ兼定食屋みたいな、学生、単身赴任者、近所の人の御用達といえる店だった。取り立てて珍しい献立は、ない。こんなことを言っては酷いが、本当に奇を衒うようなモノは一つもなく、昼間はカフェ、夜は食堂として学生を中心に仕事帰りの人や近所の常連さんが通う不思議な店だった。

強いて言えば、いや今は大事なポイントだと思うが、レジ台に季節の花が生けてあった。

この時期なら桃や豆桜、菜花やストック、スイートピーだった。きれい!と褒めると、そういうことに気づく人はなかなか居ないのだとマスターが応えてくれる。当時ご夫婦二人で切盛りしていた店も、もう十三年前に閉店した。正確にはオーナーが替わって暫く存続したのだが、かつての雰囲気はなく結局すぐ立ち行かなくなった。

新歓の時期には、そこを貸し切ってコンパが行われた。リーダーの合図で「大きな古時計」を熱唱する合唱団の姿が今も思い浮かぶ。若い熱気と苦悩と、モラトリアムゆえの停滞、生活を支える新婚家庭の不安や働き始めの疲弊した空気など様々な立場の時間が交差する空間だった。

そういう生きたお店が地元にはいくつもある。河畔に、街中に、山手の住宅街入り口にー。写真は街中の古いカフェ。週末で諸々の思いを吐きだす人の会話で、満ち溢れています。

空いている居場所

祝福を。あっという間に週末だが、人にはそれぞれ節目やリズムがあるので、暦それもグレゴリオ暦を見てあたふたすることは何もない。


最近空き家や空いている場所について考えることが多い。前者はこのはてなブログでも地方の空き家を修復してオルタナティブな暮らしを送ることの希望が語られることから、後者はわが職場の現状から思いを巡らせている。

少子高齢社会がとりわけ地方で大きな影響を与えていることは、想像でも経験でも皆さんお分かりだろうと思う。わかりやすく生産人口が減ってくところへ介護問題、そして残された家土地事業などの問題がある。

これは、分家や隠居の習慣が根強い地域ではこれから顕著になるだろう。三世代同居率が高い地域なら、高齢化が進んでも誰かがその家に住んでるが、親世代が別居で当該高齢者だけで住めなくなったり亡くなったりすると、そこは否応なく空き家となる。良質の野菜がとれる畑も、子世代が週末一時間以上かけて通う場となれば、また自分家のローンは完済してるのに親から引継いだ不動産が税金対策の借金付きで仕方なく保険料率を安くするために勤め人を続けるという事例をみれば、持ち家ふくめ不動産全般はその所有すなわち負債となることが容易く理解できよう。


いま、お店で流れている曲が樋口了一「手紙」である。昨年より、両親は自分の親を、こんな曲想を思うゆとりもなく介護してきたのだと思う。ちょうど今位の時期に祖父が、また晩春に長らく認知症を抱えた祖母が脳梗塞で入院し、見舞いや家事など出来ることをしてきたつもりが、初夏に「ばあちゃんよろしく」と当たり前のように親から頼まれたのをきっかけに私は逆上した。

以来、祖父母の介護とは私は距離を置いている。

職場は合理化効率化のもとにインフラを減らし過ぎて、仕事をする条件が解体し、道具も端末も、下手すると座席も無い状況で今に至る。確かなのは、いずれも非正規雇用者には一切非が無い問題であることだ。

田舎は豊かだ、地方には隠れた資源が眠っている、という風な言い方がたまにされる。
たしかにそうだが、実際に住んでいる田舎の人にはその資源を自らの望むように扱う権限がなく、資源の享受ではなくその維持管理に自らの命や身体をすり減らして都市リベラルの思想を裏打ち・下支えしているにすぎないと思うことさえある。

いったい、私が住んでいる地元は豊かなのか、貧しいのか。メディアリテラシーのかなり高い人でも、ここにいると最低マイナス15年は引かないと、その視ている世界の認識に納得できないことが多い。


首都圏で、首都圏が見た少子高齢の姿が語られる一方で、こちらは「空いている」にもかかわらず社会的評価が高くない居場所ーたとえばニートと呼ばれる人たちの立場や暮らし方ーが意味づけはともかく「有る」ことを、もっと意識的に発信しても良いのかなあ、と考えています。