いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

この居場所いずれ去りて

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祝福を。
まだ周囲の全ての人に伝えてはいないが、いまの職場を去る方向で動いている。会社とさよならすることを、同僚、家族にはまだ完全に伝えきれていない。就活し、職業訓練も視野に入れているが、次の身の振りが未定だからである。
軍資金が足りるだろうか。四国からその外へ出向くには交通費、というより旅費がかかる。他 本州に住んでいれば日帰りできるような場所に、泊りがけで行かなくてはならない。旅先で動くには現地の交通費、食費と居場所の確保におカネがかかる。
いや私、ほんとはけっこう旅慣れたほうだったんですよ!?でも、コストのかかり方はどこからどこへ移動するのかで全然ちがってくる。汽車やバスの本数の多さはー鉄道会社が決めたものだがー距離の近さと比例するわけではない。地図で見れば近場でも、アクセスが良いとは限らないのだ。
そしてお金の問題の整理もけっこう急いでしまった。

写真は先週市外で撮った畑のネギ。なんてすこやかでみずみずしいのでしょう!こんな畑が、葉が伸び始めた麦畑の周りにいくつも点在する。そこへ夕陽が射し込む。田舎の田園風景など他の地でも見られるかもしれないが、環境への信頼を与えて包み込んでくれるのは、やはり地元の人手が入った植生である。延々と続く麦畑のなかを在来線の線路が走る。そこへ陽炎がたち、また沈む陽を見送る。冬には裸木の梢がふちどる。夏場はいうまでもなく、青草が立つ。

週末、来月どんな状況、心境で居るかわかりませんが、人生のそういうひと時を楽しんで自分の道を作っていきたいいわきびでした。

自然、偶然、無限性

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植物のフォルムが好きだ。
彼らはこちらが意識しようとすまいと、いつも巧みな美を与えてくれる。

その出会いはこちらが眼を凝らして何かを隈なく探す時ではなく、むしろ一切そうした出会いを意図せず自分の生活時間に浸っている折に突如、訪れる。

それは、こちらの心の準備とは全く関係がない。対象のほうから迫ってくる。たとえば台所で見つけた野菜の芽、期せずして葉物に咲いた花、あるいは勝手口の窓越しにのぞく隣家の庭木や鉢植といったものでさえ、対象のほうが自分を惹きつけ、捕らえるのだ。

むろん、こちらが抱く欲望や利害とも関係がない。そういう感情で対象を把持しようとしても、それは下世話な関心や淫猥な眼差し、欲の掌をすり抜ける。あるいは包み返しさえする。

意図や意志とは無関係に訪れ現れるそれは、まったき偶然でもある。自分の意志、意図、制御の及ばぬところ、また予測不可能性、そういった要素の凝集という側面もある。

だが、自然をこのような捉え方で把握するならそれは近代以降のものの見方にとらわれている証でもある。事実としての自然は、無限にある可能世界の一つがたまたま現実化したものにすぎない、と。

私たちはいま、可能世界の無限性に何か希望のようなものを投影して救われようとする傾向のなかに生きてはいないか。いま居る世界や自分の置かれた現実はたんなる偶然にすぎず、選ばなかった道や実現しなかった選択肢の重さまたは儚さをもって現実も同じように意味づける。

そこで問われるのはけっきょく個々人の納得や承認、了解である。そこに伴うのは自発的・能動的な何かー、実はこれまで説明されてきたあり方とは異なる能動や受動の絡み合う場が拓けるのだろう。対象に捕らえられるのか、私たちが見いだすのか、惹かれる何かとの相互作用には、発見による創造という地平が待っている。

こんなにある、教育サイトまとめ

 祝福を。
 無料教育サイトにどんなものがあるか、すでに「まとめ」がありました。これらプラス、あとは思いつくままに挙げてみます。
 なお、ここで扱うのは大学~高等教育、教養、大人の教育、習い事です。

 まず大学・高等教育中心のまとめ。

matome.naver.jp


 次に以下。上記で挙がったサイトと重複もありますが、日本の有名大学の講義・資料が入っています。

matome.naver.jp



 こちらは教育分野全般を対象とするwebメディア「EdTech Media(エドテック メディア)」。
初等~高等教育のほか、ICT、ビジネス、語学、プログラミングなど多岐にわたる教育サービスを扱っています。
アプリや書籍の紹介、教育者向け情報提供も。教育業界の求人サイトリンクもあります。

edtech-media.com



 もっと幅広く、習い事を探したい!という方には「ストアカ」(ストリート・アカデミーの略称)。

www.street-academy.com

「日本最大級のまなびのマーケット」と銘打つだけあって、間口の広さには驚くばかり。
ジャンルは趣味の習い事のほか、ビジネス、語学、IT、ライフハック、風変わりな特技も。講座は1回から体験でき、
入会金ゼロ、まずは無料登録から。エリアは全国の都道府県から探せます。
学びたい人だけでなく教えたい人も探していて、「先生登録」受付もあります。


 類似のサービスには「プライベートコーチ」サービス・「サイタ」があります。
好きなジャンル・講師を選んで、1回から個人レッスンを受講可能です。

cyta.jp


 どうでしょう?「やりたいこと」を、時間や場所、社会的立場、経済力、所属に制限されずやる権利はすべての人にあります。
他のジャンルで手軽に学べるサイトがあれば、また紹介していきますのでどうぞよろしく。

意図せずして

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祝福を。
いわきびは決して地元LOVE!の人間ではない。すくなくとも今まではそうだった。でも、ブログを開いて見てくれる方に、少しでも地元の好さを届けよう、と眼を凝らすようになった。

写真は中心街の地酒と土産のお店。二階の窓が、レトロでしょう?この街では本当に意図せず、わざと趣向を凝らしたのではない光景に思わず眼を惹かれる。

けっきょく、生活の成せるわざなのだと思う。意図して切り取り魅せようとする視線から取りこぼされる何かが地元にはあって、気づく人、映し取る人、発信する人のタイミングが合わないのか、上手く流れに乗せられない光景があって、発信者と読者の微妙な時期の一致で巷に行き渡るだけのことだ。

風景は決して切り取る者だけの裁量で決まるのではない。受けとる側の視線や心身の領域にも関わる。もし、この恵まれた風土にある自然の秩序に、実際に存在するあらゆる事物
や生命が寸分も違わず一致するならば。誰も、何かを書いたり描いたりしようと思わなくなるだろう。それは、何の齟齬も軋みも無い、調和に満ちた世界かもしれない。そう思わせる風景が地元にはたくさんある。

それゆえ地元は怖い、と私は思う。けれど、近代より前の人々が理想としたのはそういう世界であったかもしれない。そして現代を生きる人々が、みずからをとりまく環境への無条件の信頼を求めているならば、ここで随所に見られる光景や丁寧な暮らしの所産は、どこかで理に適う姿なのだろう。

アングル

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1500円カットの床屋の前をトラムが通り過ぎる。対抗路線から別のトラムが来て、今度は教会と焼肉屋、パン屋の明かりを縫って温泉街へ向かう。

ちょうど歩道を歩く私の目の高さに、車窓の中は一枚の絵のように風景として入る。平日も明日を残すばかりの疲れが溜まった乗客の様子が映る。そんな親の様子をうかがい顔を覗き込む子どもの所作がはっきり見えるくらい、トラムのスピードはゆっくりだ。この速度が安堵を呼び、また苛立ちを招く。しかし、他の乗り物の速度や目線からは決してじっくりと眺めることはできないと思われる光景、たとえば民家に伸びる木蓮のつぼみなどをしっかり目に捉えうるのはやはりトラムからしかない。

地元は大都会のように「上を見て歩く」ー乗換えの案内や要所の位置を示す看板を見上げて追いながら歩くー習慣がない。車道は狭く、歩道もここを道と呼び得るのかと思う細道が意外に皆の動線になっていたりする。そういう街では看板も自分の立ち位置によって見えたり見えなかったりする。店や会社の看板と表がそれらしく目に飛び込んでくるのはやっぱりトラムの車窓からだ。トラムはきっと、この街の本来の姿をその窓から見せて運ぶ乗り物なのだろう。

トラムから見れば、明かりのたわみ方も特有である。またトラム自身の照明も停車ごとに路肩へ明かりを集めたようで見応えがある。トラムは街に明かりを添えながら人々を暮らしの場へと連れ戻す。このテンポ、このリズムに呼吸を合わせるのは時に疲れを覚える。いつまでこんな囲いの風景の一部として自分の生が留め置かれるのかと焦燥さえ生じる。

けれどもどこへ住もうと現代の人間は、自分の視線の移動が自由よりも、どこまでも自らの風景の囲いにしか居られない息苦しさを、突き詰めれば感じるのではないだろうか。その人の見るアングルが規定する風景に閉じ込められる息苦しさに気づいたなら、自分の心身の全領域へ否応なく迫ってくる声に、世界からの声に、耳を傾ける時なのかもしれません。

私の課題

祝福を。
今日は奇跡的に周囲の協力が得られて仕事がスムーズに進んだ。私も含めて従事者が業務に慣れてきたせいもあるだろう。その従事者も月イチの山場にかき集められて大変なことである。段どりも自分の手元もさぞ心もとなかったことだろう。…が、いわきびはそういう断片的で慌ただしくてめまぐるしいその仕事をずっと担当してきたのだ。そして、上の都合でやり方も担当者もあっけなく変えられねじ曲げられ、動線をズタズタにされたのだ。とか書くと被害者意識に浸る良くない傾向に陥るからやめる。そんなん、どっこの仕事人でも経験しとるわという反駁があるのは解っている。
率先して働いてくれて皆さん、ありがとう。心からなる感謝です。ともかく無事仕事が終わるってのは労働者にとって安堵です。明日はまたどうかわからないけれど。

たしかに滞りなく仕事が進んだ日は気持ちいい。定時で帰れてカフェか座る場所、否スタンドで良いから書く場を確保しさえすればブログは書ける。いやスマホなら場所を選ばない。そうして退勤後数時間を活用して、生活リズムを整え土日にまとまった時間をとって考察や読みを進めましょうー、これがかつての自分だった。

けれども、平昼フルタイム土日休だとけっきょく生活すべてを仕事に合わせてチューニングしなければならない。仕事の波に合わせて休息や踏ん張り所をつけていくことは、「やりたいことの波や流」れを始めから放棄する生活になってしまう。やりたいことは、隙間時間に趣味道楽の範囲でしかできない。その先へ、机に向かい汗して作業を進め下地を作るには、どうしても労働をセーブし、また時間の使い方を完全に自分主導として、まとまった時間・期間を取る必要がある。こんな非正規労働なのに仕事という囲いが先にあって、他は余剰か、そぎ落とせる余分事の位置づけなんていやだ。これは物理的時間の問題であって、要領の問題ではない。

このブログは働き方と住まい方、つながりの作り方を変えたくて、試行錯誤とその記録のために開いた。物理的なことがたとえあんまり変わらなくとも、自分の内面で比率を変えるだけでも見える地平はちがってくるだろうし、うまくいかなかったこともできる範囲で記してみて、こんな地方都市のしがない立場でもじたばた生きてる者もいるぞ!と発信したい。時間のない人、時間やお金を完全に自分の一存だけで扱えない人、アクセスの不便な土地に住まう人が、何かを〈学ぶ〉にあたって有益なサイトや情報を探し、見やすい形式でお届けしたい。これも外でスマホからでは難しいので、もっと与える側に回るためにも、働き方を変えるために動こうと思います。

学校は防波堤たりうるか

働きたくないから進学する、ということが学校へ行く主な動機として、これまで暗黙にまたは公式に共有されてきたように思う。

もちろん義務教育は有能な国民養成を目的に富国強兵の一環として行われたし、学校で学ぶスキルが職の確保と直結している分野(資格取得のためのコースなど)もあるし、職業訓練校は何より仕事に必要な技能習得のために存在する。が、そこで行われることは、実習にせよ訓練にせよ、どんなにリアルに近づけてもしょせん「ごっこ」でしかない側面がある。モノ金のやりとり、交渉が即命のやりとりに結びつくような、きわどい生々しいスラム街の現実みたいなことは、少なくとも学校が掲げるフォーマルなカリキュラムには含まれていない。
いくら再生産機能や「隠れたカリキュラム」をもつにせよ、学校はむしろ剥き出しの現実社会から子どもを守り(近代初期に学校は過酷な児童労働から子どもを隔てる側面もあった)、またそうした社会を相対化し、学業で優秀な成績を修めることによって良い就職先を得て社会的上昇移動を果たす機能を一定程度果たしてきた。(1970年代半ば以降、この学校化社会の矛盾やひずみは顕著になるが、ここでは扱わない。)

ところがいまはどうか。制度的学校はもはや、初等から高等まで行く人に不利益な社会的立場を付与する場に、期せずして成っている気がする。

就学によって労働メインではなくなった期間をキャリア・ブランクとみなすという雇用観、定時制高校や夜間部のある大学以外では「働きながら学ぶ」生活様式を設計外としたカリキュラム、自費負担割合が大きい授業料、借金でしかない奨学金ー。
たとえ社会人であっても「学生をやること」は色んな面で社会的弱者の立場を選ぶことと同義である。非正規労働者の中でも学生アルバイトにあんな劣悪処遇が通るのは学生である弱みにつけ込んでいるからだ。学校は世間の荒波に対して防波堤の役目を果たすという前提は、現代では的はずれである。

しかし、それは学校が実態として遂行してしまっている機能のことを指すのであって、学校が社会から不必要になったことを意味するのではない。学校を必要とする立場の人は、いる。学校的な役割(主に目立つのはパストラル・ケアや託児機能であるとしても)を果たす場も、要る。
ならば私たちはいったいどこで、有用な「学校的な場」をもてるだろうか。既存の学校は、不登校当事者の発信の一般化もあって随分相対化され、その問題点も挙がってきた。学校という制度や箱物を外してなお残るコミュニティ的な機能、対話の場。そのためには地縁や階層を飛び越えやすいつながりの可能性(インターネットはこれに良い道具だろう)をもっと洗練した形で呈示しなければ、と思うのです。