いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

アングル

f:id:iwakibio:20170216205356j:plain

1500円カットの床屋の前をトラムが通り過ぎる。対抗路線から別のトラムが来て、今度は教会と焼肉屋、パン屋の明かりを縫って温泉街へ向かう。

ちょうど歩道を歩く私の目の高さに、車窓の中は一枚の絵のように風景として入る。平日も明日を残すばかりの疲れが溜まった乗客の様子が映る。そんな親の様子をうかがい顔を覗き込む子どもの所作がはっきり見えるくらい、トラムのスピードはゆっくりだ。この速度が安堵を呼び、また苛立ちを招く。しかし、他の乗り物の速度や目線からは決してじっくりと眺めることはできないと思われる光景、たとえば民家に伸びる木蓮のつぼみなどをしっかり目に捉えうるのはやはりトラムからしかない。

地元は大都会のように「上を見て歩く」ー乗換えの案内や要所の位置を示す看板を見上げて追いながら歩くー習慣がない。車道は狭く、歩道もここを道と呼び得るのかと思う細道が意外に皆の動線になっていたりする。そういう街では看板も自分の立ち位置によって見えたり見えなかったりする。店や会社の看板と表がそれらしく目に飛び込んでくるのはやっぱりトラムの車窓からだ。トラムはきっと、この街の本来の姿をその窓から見せて運ぶ乗り物なのだろう。

トラムから見れば、明かりのたわみ方も特有である。またトラム自身の照明も停車ごとに路肩へ明かりを集めたようで見応えがある。トラムは街に明かりを添えながら人々を暮らしの場へと連れ戻す。このテンポ、このリズムに呼吸を合わせるのは時に疲れを覚える。いつまでこんな囲いの風景の一部として自分の生が留め置かれるのかと焦燥さえ生じる。

けれどもどこへ住もうと現代の人間は、自分の視線の移動が自由よりも、どこまでも自らの風景の囲いにしか居られない息苦しさを、突き詰めれば感じるのではないだろうか。その人の見るアングルが規定する風景に閉じ込められる息苦しさに気づいたなら、自分の心身の全領域へ否応なく迫ってくる声に、世界からの声に、耳を傾ける時なのかもしれません。