いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を変えたく奮闘中。既定路線から降りても研究と執筆を開花させるには?人生の時間比率は自分仕様に!

近況

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祝福を。
いつの間にか冬が来て年が明けた。先月下旬からの絶賛風邪ひきも治って、三ヶ日は市外の祖父母宅を訪ねる。真冬になお彩りのある山道や畑、海岸線を見て、瀬戸内の良さはこういう穏やかさだな、と改めて思う。

以下の写真は先月の山道。熟柿と山茶花です。
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ふだん土日は休みだが、両親所有の車は市外での介護のため出払っており、しかしどうしても冬物を買いに出たくて普通なら自転車でも時間のかかる場所へ雨なので歩いて行った折に撮影した写真が上のもの。


地元に居て煮詰まるのは人口規模ゆえの窮屈さと交通不便さに加え、私が自家用車を持たないことも行動範囲を狭める決定的要因となっている。長くペーパードライバーだった。車など必要ない街と生活様式で暮らしてきた。今いる自宅前の敷地が狭くて段差のある畑と生垣に囲まれたかなりの難所で、車校で練習もやったがこれまで3回違う先生と自宅前の敷地入れをやって最後の回にやっとぶつけずに入った。あとは駐車・車庫入れの練習を徹底してやればふだんの運転に障りはないと思う。

仕事で外勤となれば車の運転スキルはもちろん、自分所有の自家用車がどうも不可欠らしいことがわかってきた。

でも、今年車を買うことは何としても避けたい。というのは、奨学金の返済がせっかく順調なのにまだ残っているうちにたとえば中古車をローンで買ったりしたら、実家に置き場はないので駐車場代とローン、奨学金返済で月々の固定支出だけ増えてしまい、貯金は貯まらず負債は減らずという身動きのとれない悪い事態に陥るからだ。二重の借金など負うことはできない。しかしもし、このまま年度末に今の仕事が更新有りで、しかも内勤で続けられるならば、あと一年はかかる想定だった返済残額を、夏までに完済することができる。その間事故も病気もケガもなく家族にも何もなければの話ではあるが。いくら仕事で自家用車が必要でも車じたいはプライベートな買い物であり、対して抱えている奨学金の負債はもとは税金である。どっちもローンで借金だが、優先順位からいえば後者の教育ローンを片づけることが先だろう。

まあそんなことを考えてはみるものの、最終的に更新の有無や異動を決めるのは上である。それでも考えると考えないでは心の準備や時間の使い方、人生設計に雲泥の差が出るのだ。そして書きながら、上記のことを忘年会の折にでも管理職クラスに話しておけばよかったと今頃思う。


異業種で転職して半年以上たつ。専門外ということで最初はすごく気後れし、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。今もぎこちないまま、もっとあの時ひと声かければよかった、あれを確認すべきだったと終業後後悔することはしょっちゅうある。
それでも周りに支えられ、それも自分より若い人の手を煩わせながら何とか続けている。
仕事の工程はいわば佳境に入った。

思うこと。

ここでたびたび“異業種”と書いてるように、これまでの学歴および学卒後に出会った専門とも異なる分野で職を得た。前職より高い収入と、車を使わずに通勤できる奇跡的な動線、専門外の新人をゼロから教えてくれる上司に恵まれ、人が見たら何と微温湯な環境だろうと思うかもしれない。

たしかに恵まれていることは認める。

だけど、 私は今、公私ふくめ携わっていることの全てが専従ではない。雇用も非正規だし、仕事の内容も複数にわたり、立場もどちらかというと補佐役、かつチーム内ではできれば繋ぎ役・調整役として立ち回るのが相応しく思われ、同じ作業をずっとやって特定の技能を習得するという立場とも少し違う。

生来の不器用さにくわえ、チームワークや手や身体を使うタスクの不慣れなこと。

制服ー作業服ーを着るのも初めてなこと。

これまで就いた仕事では貴重な経験を積ませてもらったけど、結局はデスクワークが中心で、身体を使いモノを運んだりチームを組んで仕事をするという経験はなく、段取りどころかモードやハビトゥスも解らなくてそこから覚える必要があること。オフィスへたまに出入りする外勤の人の話、管理職のやりとりを聞いて、自分がいわゆるガテン系の世界をどれだけ知らないか痛感し、背筋が冷たくなる。
秋から教わった図面訓練に苦しんでいたこともあって、自分はここに居て良いのだろうかと何度もいたたまれなくなった。

ペーパードライバーなのは自己責任だろうが、この地元に根を下ろし当たり前に車を乗り回して家庭を支え切り回す人たちとは違う暮らしを営んできた。加えてだいたい四年もこっちに居るつもりは無かった。

そういうことをひっくるめてふりかえってみると、今回の転職はゼロからというよりマイナスからのスタートだと認識するのが妥当なのかもしれない。

そして何より大きな疑問、何か行き詰まるたびに胸に湧き上がるのは、今の生き方のどこに自己決定、自己選択がどこにあるのか?という問いだった。もちろん求人に応募し承諾したのは自分であって、それに後悔はしていない。でも、今の生活は昨年の今頃ーこのブログを始めた時期ーに思い描いたものとは想像もつかないほど大きく違う。たまたま良い偶然が重なっただけで、自分が望み、決断し、選んだコトで自分の未来が作れているわけではない。そんな思いが自分の内面にくすぶっている。

職場で、直属の上司をはじめ「自分の好きなことでご飯を食べている」人たちの活きた姿を見るほどに、自分の情けなさは募る。 実家住まいで自分の身の回りのことさえ自分のタイミングでできない窮屈さを味わう時を思い出しても、前より恵まれた待遇で良かったわねえと素直に思いたくない自分がいる。

それはきっと、他人の胸三寸でいきなりハシゴを外される経験を過去に二度しているからだろう。どんなに良いものを他人からあてがわれてもそれを奪う主導権は自分ではなく他人にある。拠り所や支えは一転して足かせになり得ることも、この歳なら解っている。

しかし、それなら今の境涯をどうにかして自分のものにしていけばよいだけだ。ある事実を必然の帰結とみなすか、それとも数多ある可能的世界の中から中核を発見し自由かつ自発的に承認するのか。大事なのは偶然を本質へ転化すること。そんなことを昨年は何度も以下の本を支えにして倒れずにきた。(同書所収「自然の模倣」終盤をどうぞ。)

https://www.amazon.co.jp/われわれが生きている現実-技術・芸術・修辞学-叢書・ウニベルシタス-ハンス-ブルーメンベルク/dp/4588010190


そうして蘇るのは真夏から今に至るまで事あるごとにかけてもらう以下の言葉だった。

「焦ることないです、一個ずつやっていきましょう!」

そう言って上司は、細長い器に小さな部品を一つずつはめていく動作を身振りで示してくれる。

何かを成すのに純粋に自分の力だけなんてことがはたしてあるだろうか。どんなに些末な営為も多くの条件からなる歯車の一致によって実現することを思い出しながら、この身体に現れる経験こそ誰にも奪い得ない無二の光景なのだと意識して残りの命を生きたいと思うのです。