いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

モノが与えてくれる意味

祝福を。2月を迎え、水気を含んだ桃色と紫色の夕空となった地元でした。

思うこと。

人がモノを持つ理由の一つに、自分の行為や存在に意味を与えたいから、があると思う。
とくに、自分のことを自分の意図する通りにコントロールできない環境に置かれている人に、その傾向が強いようだ。

当然だろう。自分のこと、それも身の回りのことを自分の望むように、自分のタイミングで調えることは、自尊心と深く関わる。最も小さな単位の世界であるはずの、自らの身体やその周囲さえ思うままに出来ないことは、
時に外的世界との断絶のように感じられる。

たとえば自分が成そうとした些細な行為が、自分でない誰かの手や声、組織や制度の圧力でさえぎられる。また自分の上げた声、わずかな要求が、虚空に呑まれたかのように何の応答もない。自分のすることは自分以外の何かにいささかも影響を与えることがないとしたら、それは他者との相互作用の断絶を意味する。

そればかりか、誰かを「無視すること」は当該個人に与える無力感と疲弊は凄まじい。集団シカトがいじめであること、パートナーを無視することが精神的暴力としてDVであること、ネグレクトが児童虐待であることを思い起こせば十分だろう。それらはその人が存在しないことを前提とし、その人の存在を無意味とする。

だが、そもそもモノも働きかけもすべてが過剰かつ空転する社会にあって、自分にとって〈意味ある行為〉は数多ある意図、分析、解釈などから成る微妙な歯車の一致によってしか成立しない。ゆえに、多くの人はこの空転に流されまいと何とかして自らが無意味化することに抗おうとする。

その点、モノとは何らかの意味がパッケージされた事物である。製品のみならず殆どのモノは外部に目的を持つ。どんなに時間がなく、お金がなく、自分の自由になる領域が無に等しいと見えても、否だからこそ、モノを持つことで自分のしていること、したいこと、ひいては自分という存在に意味を手繰り寄せておきたいと思うのだろう。

しかし、たとえ個人に多くの資源ーモノ、金、情報ーが与えられても、それらを当人が意のままに使用できるか、否、それらを当人が望むこと・状態に変換できるか、は全く別の次元である。自己決定を奪われた人というのは、どれほど資源があったとしてもこの次元が蔑ろにされている。そして、そのように出来なかった、誰かの意図や行為の文脈からこぼれ落ちた、機能不全に陥った多くのモノが今も放棄され増殖する。

こうしてみると、断捨離の本質は徹頭徹尾、個人の尊厳を回復することにあるといえる。モノを持たないこと、減らすことで自分でコントロール(管理、制御)できる領域を拡げるのも一手だろう。自分を縛り苦しめてきた、モノに張り付いた誰かの感情や規範を見抜き、自ら手離すプロセスがあるのも頷ける。願わくば、じつに唯一無二の世界である個人の発見と蘇りを!そうして見晴らしが良くなった個人の内面からこそ、無限の可能性が湛えられているのがわかるでしょう。