いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

「ふつう」を問うことと奪回すること

祝福を。

卒業シーズンである。引越しラッシュも始まる。人が移動する。…で、いわきびはこの数日何かへの決断を控えている。

もうこのブログを読んで下さってる方にはもうちょっとポジティブな話題はないの?とあきれられそうなのを承知で自分の状況を記してるのだが、事実なのです、ぜんぶ。

職場は最終日まであと数日となった。となると、出勤が嫌で嫌でたまらない。あとわずかなんだから集中しろよと言われればそうなのだが、辞めると決意してからの数ヶ月をとことんムダにしたような気がして、3月までガマンしたメリットというのが今回殆どない形での退職となってしまい、働かざるを得ないから4月頭から地元で働くという選択がほとほと納得がゆかない。

自分の所属とは違う部署の座席で引継書を作っていると、周囲の会話が耳に入ってくる。同じ非正規のある方はいわきびとおそらく同年代で、夫と子どもが居り、おかずの好みがそれぞれ異なっていて悩ましいという平和な話題をとばす。私の部署は非正規と言えどそれぞれ仕事を抱えて馬車馬のように働いているというのに、こちらではーおそらく上が不在の時は決裁等が進まないからでしょうー期せずして手が空いたらしく、そんなことを話している。そしてどういう成り行きかは不明だが、いま病休等で欠員が出ているため皆の負担が大変だ、この状態で誰か倒れたら…何か変わるだろうか?上も状況を理解するだろうか?となにをいまさら的な方向へ話が行く。

いわきびが座っているのはその欠員者の席である。正社員になったらこの帰結が待っている、と直観して先日応募をやめた。心身を壊しては後が大変だ。すでに病気を抱えた人を否定する気はまったくないが、避ける手があるなら避けたい。とはいえ、正社員の人が何かにしがみつく気持ちも痛いほど、わかる。

地方では「ふつう」ー標準、常識、世間並み、人並みとも言い換えられるーの範囲が非常に狭い。そしてその常識も歴史的にかなり特殊な戦後の高度経済成長期にのみ通用するモデルにすぎないにもかかわらず、人々はこれを「ふつう」と思い込んで他の価値観を探る余白を入れない。この「ふつう」とは、新卒で正社員入社し、適齢期に法律婚して血の繋がった子どもをもうけ、ローンで家を買い、定年まで同じ職場で働く、というていどのものだ。

たぶん、いわきびの同世代はもうこの価値観には大した値打ちがないこと、実現の可能性も低いこと、そして実現したところで親の世代ほどの幸せも得られないことに、すでに気づいているはずだ。しかし、世間や社会や近所や親・親戚等の目はいまだこの「ふつう」に曇らされている。「ふつう」以上と未満では彼らの見る目と待遇が全然違うことも知っている。

承認欲求と言えばそうだし、それを仕事に求めなければよい、と言うのも正論でそれだけのことだけど。

周囲から曲がりなりにも一人前とカウントされ、見えないながら確実に存在する世間の規定路線に乗ることで得られる生きやすさを味わい、既存の枠組みの中で他愛もない話題にうち興じ、そういう日々をわずかな期間でよいから送ってみたい。いわきびだけかもしれないが、そういう気持ちは多くの人のどこかに存在し、それが、どんな凄惨な出来事の中でも日常を維持し日常に均したがる心性の正体なのかもしれない。

こんな状況でも職場に残る人たちは、来月のお花見を兼ねた食事会に行くか行かないかのやりとりを楽しんでいる。過労で伏した人のことを考えろよ。もう去って行くいわきびは胸中でそうつぶやく。

外の世界にいまだ強固な世間並みという意味の「ふつう」「あたりまえ」を問い直すこと、人としての尊厳という意味のそれらを取り返すこと。私の同世代およびそれ以下の世代には、それらを同時に進めながら生きていく時代なのだなあと思ういわきびでした。