いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

拠点と慰め

祝福を。いわきびは少し疲れている。週末の予定が立たないからだ。地元を離れてしばし海を渡ろうと思ったのだが、何時のバスor汽車に乗ればちょうどいい時間に着くのか、始発の汽車ならギリギリだが休日にそんな無理をしなければならないのはアクセスが不便なせいだ、いやいざ行くとなったら誰に連絡つけてどう振舞うのか、その辺の態度決定も出来てないのみならず、そもそも参加OKなのか?週明けに休みをとりたいが気がひける、など、あれだけ「現状」を嫌悪し否定していたのに、いわきび、やはり弱気になっているのだろうか。

このブログを始めたきっかけは、働き方を変え、稼ぎ方を見直し、つきあう人たちを拡げ、何より時間の使い方を再考するためだった。はてなグループに垣間見る、ポジティブで独創的な人たち。皆、世間で言う「ふつう」や「あたりまえ」を突き放し、相対化しながら固有の世界を拡張し続ける人たちである。

私は地元で足を取られそうになる、現状の空気に怖気をふるい、どうにか離れようとしている。ここに居ては、私が背負っている諸々の清算が終わっても、私には何も残らない。せいぜい余生が待っているていどのことだろうか。

昨年、私の家は介護問題一色で明け暮れた。他にも面倒なことが色々あったがどれも私の居場所を脅かすのに十分だった。自宅のリフォーム、職場のフロア移動、意味不明な人事、ズタズタにされる自分の動線、身体のリズム。そして、介護問題も非正規雇用の貧困も、あの大震災以前から連綿と続き、3.11
原発事故が無くとも確実に既存の体制を足元から崩していくだろう問題だったこと。

そんな中、秋に訪ねた友人から「拠点を複数もつこと」を提案された。といっても別荘を買うとか他県で開業するとか大げさなことではなく、ただ地元や実家の他に好きな場所を見つけて勝手に拠点と決めてしまうのもアリという話だった。その時は頭で理解しただけだったが、それ以降私は、旅先こそどれほど肉体的にキツくても職場や家庭の支配が及ばぬ領域であること、そして旅先でなくともそうした「自分の時間」を生きられる場をつくることにこそ、力を注ぐべきだと気づいたのだ。

だから、たとえ表面上何も変わらなくても時間の比率だけは変える。帰郷前、北国で作ってきた生活とは雲泥の差だが、退勤後の数時間はカフェで調べ物や読み物、書くことにあてている。

時間ほど、空間と深く結びついたものはない。ある時間は、ある場所に固有の時間であり、固有の身体を流れている。物理的空間をどうカウントするかは一概に決められないことだが、空間の数だけ時間はある。

言葉を連ねること、他者と繋がること、環境へ働きかけること、そして世界を信頼に足るものにしてゆくこと。生き残ったことに意味があるなら、たとえ修辞学的な次元にすぎなくとも、世界の〈善〉性に参与していきたいのです。