いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

空いている居場所

祝福を。あっという間に週末だが、人にはそれぞれ節目やリズムがあるので、暦それもグレゴリオ暦を見てあたふたすることは何もない。


最近空き家や空いている場所について考えることが多い。前者はこのはてなブログでも地方の空き家を修復してオルタナティブな暮らしを送ることの希望が語られることから、後者はわが職場の現状から思いを巡らせている。

少子高齢社会がとりわけ地方で大きな影響を与えていることは、想像でも経験でも皆さんお分かりだろうと思う。わかりやすく生産人口が減ってくところへ介護問題、そして残された家土地事業などの問題がある。

これは、分家や隠居の習慣が根強い地域ではこれから顕著になるだろう。三世代同居率が高い地域なら、高齢化が進んでも誰かがその家に住んでるが、親世代が別居で当該高齢者だけで住めなくなったり亡くなったりすると、そこは否応なく空き家となる。良質の野菜がとれる畑も、子世代が週末一時間以上かけて通う場となれば、また自分家のローンは完済してるのに親から引継いだ不動産が税金対策の借金付きで仕方なく保険料率を安くするために勤め人を続けるという事例をみれば、持ち家ふくめ不動産全般はその所有すなわち負債となることが容易く理解できよう。


いま、お店で流れている曲が樋口了一「手紙」である。昨年より、両親は自分の親を、こんな曲想を思うゆとりもなく介護してきたのだと思う。ちょうど今位の時期に祖父が、また晩春に長らく認知症を抱えた祖母が脳梗塞で入院し、見舞いや家事など出来ることをしてきたつもりが、初夏に「ばあちゃんよろしく」と当たり前のように親から頼まれたのをきっかけに私は逆上した。

以来、祖父母の介護とは私は距離を置いている。

職場は合理化効率化のもとにインフラを減らし過ぎて、仕事をする条件が解体し、道具も端末も、下手すると座席も無い状況で今に至る。確かなのは、いずれも非正規雇用者には一切非が無い問題であることだ。

田舎は豊かだ、地方には隠れた資源が眠っている、という風な言い方がたまにされる。
たしかにそうだが、実際に住んでいる田舎の人にはその資源を自らの望むように扱う権限がなく、資源の享受ではなくその維持管理に自らの命や身体をすり減らして都市リベラルの思想を裏打ち・下支えしているにすぎないと思うことさえある。

いったい、私が住んでいる地元は豊かなのか、貧しいのか。メディアリテラシーのかなり高い人でも、ここにいると最低マイナス15年は引かないと、その視ている世界の認識に納得できないことが多い。


首都圏で、首都圏が見た少子高齢の姿が語られる一方で、こちらは「空いている」にもかかわらず社会的評価が高くない居場所ーたとえばニートと呼ばれる人たちの立場や暮らし方ーが意味づけはともかく「有る」ことを、もっと意識的に発信しても良いのかなあ、と考えています。