いわきび、森の明るみへ

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文化的アクセスのインフラだったEテレ

 菅首相のブレーン・高橋洋一氏がNHK改革案としてEテレの売却を提案した。

news.yahoo.co.jp

 当然ながらこの案には抗議の声がネット上あちこちで上がっている。幼い子どもに良い番組を提供してくれて育児中お世話になった、一斉休校でいち早く学童向け教育番組を放送してくれた、良質な科学番組や文化教養番組は利益・視聴率重視の民放ではなかなか作れない、EテレこそNHKの存在意義なのに等々。そして公共放送である以上文化的インフラでもあるのだから視聴率をもとに売却などおかしいという主張もみられた。たしかにあの強制的な受信料徴収はそういう前提のもとに行われていたのではなかったか。

 私も上記と同様に考える。そのうえでとくに強調したい点が二つある。一つは、この提案(詳細をみるとあくまで高橋氏の個人的見解らしい)は地方在住者の文化アクセス権を放棄したに等しいこと。地方と大都市圏(特に首都圏)にはアクセス可能な文化資本の量・種類・質ともにいまだ圧倒的な格差がある。戦後の大衆教育社会の発展を経て市民に一定の教育水準と階層移動がなされてきたのは、中流層が文化的関心をもち文化を享受するための行動やそれに必要な資金を担保するだけの経済的余裕があったことが大きな理由である。そのインフラとして、一般向けメディアで一定水準の文化コンテンツが提供されていたことも無視できない。とくにNHKは公共放送だからほぼ同じ番組が全国で放送され、どこの家にもテレビがあった時代ならどんなに家庭や地域が荒んでいても良質な教養番組を見ることができた。一方、新自由主義改革に明け暮れたこの三十年で進んだのは教養主義の解体だった。文化、教養、知性への蔑みがあちこちで侵食した。数か月前の学術会議バッシングもそういう土壌あってのことだろう。

 もう一つは、マスメディアの存在意義とは何かという問いである。3.11直後に目立ったマスメディアのダメさ加減はソーシャルメディアの進展を後押ししたけれど、では後者が冷静な言論土壌を作っているかというとそうでもないことも分かりつつある。なかでもSNSは、同じ関心をもつクラスタの感情を煽って一定の方向へ議論を誘導しやすい傾向がマスメディアよりもずっと顕著だ。インフルエンサーが言うことにたやすく自分を重ね合わせ、追従しない層を露骨に見下す風潮を頻繁にみる。これでは新聞の小さな記事にも目を留めようと呼びかけていた時代のメディア・リテラシーのほうがはるかに健全だったと思う。マスメディアは一方向の発信だがその内容をきっちり監視していくのが民主主義だろうし。

ともあれ、そもそもメディアに載らない小さな声を拾うために必要なスキルや感性の下地を養う役割が、Eテレにはあるはずなのだ。