いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

匿名の心地よさ

 職場で現場行きや屋外作業、チームワークが増えたこの三か月ほど、自分がいかに田舎暮らしに不向きかを痛感させられている。車の運転テク、肉体労働、他人との共同作業、濃密な人間関係、集団行動、適度な声がけ、他人と雑談することが苦にならずその間合いや適切なタイミングをつかめること等が要求されるも、どれも苦手なのだから。よく大都市で勤め人をやることに疲弊し地方で古民家を借りて畑をやって田舎暮らし!にあこがれて実際成功する人もいるけど、ああいうのは自分には向かない。そして最近は自分の適性云々だけでなく、そういう生き方を推すことの危険性もおぼろげに感じるようになった。

 SNSとくにツイッターでは3.11の後に都会を捨てて人口の少ない田舎に移住し畑を始め化学薬品・添加物等をできる限り排除した食料・衣類を自ら作り、ほぼ自給自足に近い生活を営む人の発信を沢山見ることができる。現行社会体制に疑問を抱くだけあって皆それなりに情報収集スキルもあり、自分の信念を持ち、知識も技術も高い。が、そういう人々が体制システム内の社会的弱者や弱くされた人たちに対して向ける目が、人間として到底許容できないこともしばしばある。

あるアカウントは米大統領選挙で的外れな理由をもとに候補者を推したり、とっくに否定されたデマを信じて陰謀論を展開していたりする。ネットリテラシーに長けているはずが、見たいものしか見ないことに感心してしまう。スピ系にハマる人もいて、えてして科学的根拠のない民間医療に傾倒する。また無農薬の野菜を食べていれば病気になるはずがないという信念から標準医療を否定し、すでにアレルギーや持病のある人を否定する者もいる。その行き着く先は優生思想だ。田舎暮らしに馴染むあまり共同体主義にどっぷり浸かり、家父長制や性差別を何の疑いもなく発信する人もある。官僚主義や縦割り行政を批判するあまり国家による再分配や税制、社会保障も否定して何でも「自力で守る」ことに固執する人もある。

 そういう人たちに共通するのはある種の「強さ」だ。頑健さ、意志の強さ、有能さ、器用さ、DIYを含めて行政・民間サービスが貧弱な分を自力でカバーできるスキル―いわゆる「マルチタスク」ができること―。(こういう強さを「マッチョ」に結びつける議論をツイッター内でチラッと見かけたけど、自分が抱く疑問もほぼその路線である。)現政権の言葉を借りれば「自助」によって快適な生活を十分に生み出すことができる人だ。しかし当然ながら世の中こんな人ばっかりではない。体制から降りることは、強くて有能な「自立した」個人にしかできないのか?不器用な人、弱い人に上記のような生き方は不可能なばかりか暴力的でさえある。

 大都会で気楽さを感じるとすればその構成要素の一つに「匿名でいられること」の心地よさがあると思う。周りにいる人々は顔も名前も知らない人で、自分も彼らにとってそういう存在で、互いに関係性を作らずに済む。何者でもない自分でいられる。税や社会保障にも同じことが言えるだろう。社会的困難を抱えたとき、顔見知りの親密圏にいる人々から援助を受けるよりも「誰が払ったかわからない税金」で運営するサービスを利用する方が負い目の少ないことも多いのではないか。生活保護には今様々な偏見やスティグマが付与されているが、生存権が何かを正しく知れば他人の生きる権利を否定できるものではない。日常生活に何らかのサポートが必要な人にとって負い目の問題をどうするかは案外深刻で、マイノリティにとっては匿名でいることで保たれる尊厳があると思う。

 Youtuberも一種の人気商売の面があるし、名前(アカウント名)と顔(動画仕様のとはいえ)を晒して卓越性や魅力で閲覧数を稼ぐのだ。しかし生存権の保障という点からは、ある人が人間らしく生きるのに必要な資源取得の可否をその人の人間的魅力の多寡に求めてはいけない。無名でも人間らしく生きられるシステムこそ文明―、中心街の広場で奔放にくつろぐ人々を見ながらそう思う。

じゃあ不器用な人はみんな都会に住めば良いのかという話ではない。小規模自治体でもきちんと再分配や所得移転が行われるべきで、そのためには広域・横断的な分配機構である国家がその機能を果たす必要がある。「小さくても輝く自治体」の実現もその上でだと思う。小選挙区制の見直しと消費税廃止は必須だろう。社会や政治に背を向けて同志で寄り添い自助によって生きる、という姿勢はカルト化と隣り合わせでもある。各人が「無名」のままに人間らしく尊厳ある生を実現するために、政治や社会に口を出せる仕組みが本来民主主義なのだ。