いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

言葉はたんなる潤滑油か

 人間関係において「言葉は潤滑油」という考え方がある。一言二言のたわいない会話でも人と人をつなぐコミュニケーション円滑化の手段となるらしい。たしかに日常生活のなかであいさつや声がけによって共同作業がスムーズにやれることは多々ある。しかし言葉の機能がそれだけのはずがない。にもかかわらず今日の社会で交わされる会話は人々から抽象的・反省的思考を奪い、言葉の役割を対面通話のつなぎ目と場もたせにのみ貶める傾向がある。

 まず言葉を潤滑油とだけ考える人々は、どんな話題も「今日は暑いですね」といった天気や気温の話と同様のスモールトークに収めてしまう。口にしている話題が社会的不利益層やマイノリティにかんする深刻・センシティヴな問題であっても、そしてその表象が明らかな偏見や差別に満ちていても、世間話のネタになればそれで良いと考えるのだ。話題に挙げられた人々が存在を傷つけられ死に追いやられても一向に気に留めない。マイノリティへのヘイトをお笑いのネタにする行為がそうだろう。他人の容姿をほめたりけなしたりすることも同様のノリで行われる。盆や正月に帰省した身内に対して他に話題がないために「結婚しないの?」「子どもまだ?」が繰り返されるのも同じである。

 次にそういう人々は、発する言葉とそれが指すものが全く一致していなくとも気にかけない。白いものを黒と言うことすら問題だと思わない。政治家による言行の不一致、言葉による記録である公文書の改ざんはこうした土壌の帰結であり、またそれを増幅した。かくして巷には稚拙なユーフェミズムと言い換えが横行する。世の中にはその語が登場することで問題としてあぶり出され、被害者が言語化と認知の手段を獲得するという事態が多々あるのだが、それを認めない層はセクシュアル・ハラスメントもモラル・ハラスメントも「おおげさ」「被害妄想」と退ける。危機感を抱いた側が問題を指摘しても決して真面目に取り合おうとしない。自らの失言をも「言ってみただけ」と軽くスルーするか「ただの冗談」「ただの世間話」でどこまでも発言を軽く扱おうとする。

 言葉をただの潤滑油としかみなさないという危機は、人々を思考や省察から遠ざける。とくに日常に埋め込まれた差別や収奪、構造的問題を意識化するプロセスを閉ざしてしまう。近い将来コロナ禍が本当に収まり、オンラインやテキストベース以外の対面コミュニケーションがあちこちに戻り始めたとき、交わされる言葉が「人間らしさ」を損なうものでないことを私は信じたい。