いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

渦中で創り出すもの

 SNSには連日怖い(が、その通りだと認めざるを得ない)指摘が飛び交っている。ネガティブな感情に呑まれるのを防ぐため、ログインはせずに、こういう時まともな呟きを出していそうなアカウントをいくつか検索してTLから情報を追う。

 

 コロナ危機においても「御用」という立場の人はやっぱり居て、「賢いふりをしたい人」や他人から「賢いと思われたい人」にとってはうってつけの言説を垂れ流しそれなりにバズっている。残念なのはかつて親しんだ人がそういう投稿を懸命に拡散していることだ。ソーシャルメディアはトピックによってはテレビなどのマスメディアよりもよっぽど情に訴え、同じ立場や主張をもつ人々の間に共感の波を起こし、ネット内である種の世論を作り出す。それはこの国において政権を揺さぶることはできなくても、共感する人々の行動を確実に変え得る。そうして社会の中に別の層が加わるのだろう。

 

 コロナ対応をめぐって国内政府の方針は愚かである。

 検査をしぶって無症状感染者を増やし、モグラ叩きの様相しかないクラスター対策にこだわり、感染者確認から2ヶ月以上経って病床が足りないという。外出自粛を要請しながら一律の休業補償をしない。各世帯マスク2枚、それで国民の不安が消えるそうだ。

 

 

 私たちはー日本国ではー、いまや味の良い家畜としてさえ期待されていない。近代国家が富国強兵を掲げて総力戦体制のもと、国家にとって使える・役立つ人材をつくろうと社会統合の手段をほどこしたのに対して、いまや国民はコストとしか思われていない。

 各々、心身の成長も回復もそのための資源も環境も自前で整えよというのだ。死んだら損失にカウントされる家畜の方がまだ注意深くケアされている。

 

 この国の人材や社会インフラを棄てにかかる発想を、私は3.11よりも強く感じる。

 

 あの時の私は、いくら厳しくても被災者として受難の前線にあるという実感が持てたし、それが自分を鼓舞していた。現在もパンデミックの当事者ではあるけど、今回は圧倒的に切り捨てられる側にいることを痛感する。公文書も統計も改ざんする国である。感染者・死亡者として数のうちにカウントされるかどうかも怪しい。

 

 職場では年度開始のトップからの挨拶で、ペストやスペイン風邪を引き合いに「それでも人類は続いてきた」、だから挫けずに云々という話があった。いったいそれがどういう励みになるんだろう。何億、何千万という犠牲者のなかに自分が入ることはやっぱり避けたい。

 

 一方、SNSには在宅勤務や家庭菜園の創造的な日々もアップされている。音楽や動画のストリーミングもある。それがまた自分にとっては打ちひしがれる。底をつきそうなマスクをつけて自転車通勤している自分が情けないからだ。

 

 感染拡大の次に来たる食糧危機、一変するだろう物流と働き方に備えて、みんな今いる場所で何かを創り出そうとしている。

 

 しかし何より、(可能な人は)部屋にこもって息を潜めてその心身を存続させることが、まずは今できる創造だと開き直ってしまいたい。