いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

名前のつかない困難

 足指骨折後20日目にして、添え木を外すことができた。まだ完治はしていないので飛んだら跳ねたり自転車に乗ったりはできない。モーラステープを使用したので1ヶ月は患部を日光に当てないよう注意だ。

 

 嬉しかったのは、入浴で患部を濡らす許可をもらったこと。つまりふつうにお風呂に入れるのだ。まだつま先へ体重をかけたり何かの拍子に右足に重心がかかったりすると痛むため、恐る恐るではあったが、昨夜はさっそくギプスカバーなしで入浴した。ぎこちない動作ながら、ふつうに髪と体を洗い湯船にも浸かれた。

 

 有り難い。しかし回復して添え木を外すと、今度は何を履くかが問題となる。光線過敏症を避けるため、薄い靴下を着用後にサンダルを履くのも心もとない。だいいちあれは添え木で膨らんだ部分を固定できるよう大きめサイズを買ったのであって、ベルト穴とバックルで調節できるにせよ足に合ったサイズではない。いつものスニーカーは履けたけど、長く歩くと圧迫が心配だ。何より、外から見てまったくふつうに戻ってしまうと誰も私を足をケガした人とは見ないだろう。人混みで押されたり踏まれたりする恐れがある。

 

 以前見た、脊柱間狭窄を患った方のSNS投稿を思い出す。道を歩くことや電車の中で立っているのは死ぬほど辛いが、自転車には乗れる、車も運転できると書かれている。すごく意外だった。車はまだしも、歩けないほど足腰が辛いのに自転車は乗れる…?どういうこと!?と。

 

 でも今ならわかる。病気やケガで、何ができて何ができないかはまったく人それぞれなのだ。それらは病状と回復の段階と、とりまく環境(室内外の道の形状、どんなバリアがあるか)によって、困難も必要なサポートの種類も変わってくる。だから、「あの人は立って歩けるのに車椅子使うなんておかしい」などの非難はつくづく的外れでバカげている。

 

 私の場合、危ないのは外よりむしろ家の中だった。フローリングに1枚敷かれたじゅうたんの段差が引っかかりの元になる。スリッパの着脱がいちいちめんどうでストレスがかかる。洗濯物を干そうとベランダの窓を開けて敷居をまたぐのがしんどい。 手前に置かれたモノやゴミをちょっとよけるとか、ちょっと体を伸ばして拾うとか、その「ちょっと」の動作ができない。無理してやって別の部位を傷めるほうが怖い。

 

 日本の戸建て室内ってこんなに障害物だらけだっけ?フローリング、マット、じゅうたん、タタミと足場が何種類もあるってそれだけで掃除が大変だし、部屋によってはいちいち履物を履き替える。こんなんで高齢社会って怖くないか。もともとが足腰の弱った人に使いづらい家の仕様なのに、高齢者が一戸建てを管理するなどすぐに限界がくる。日本の家は買った瞬間価値が下がり始め、リフォームに多額の金がかかり、いまや持ち家は資産ではなく負債となる。

 

  今回の足のケガで、体が思うように動かない人の困難は、決して個人の身体のみに起因できないことを思い知らされた。環境要因もおそろしく多い。バリアフリーユニバーサルデザインを普及させるのはもちろんとして、そのはるか手前の、みんなが毎日やってる家事や日常の身辺ケアの手間が浮き彫りになった。

 

 その大半が、名前のついた行為をする前のセッティングである。洗面所へ行くために階段を降りる、ドアを開ける、歯ブラシや化粧具を置いた棚の扉を開ける。入浴は濡れたギプスカバーを受けるための新聞紙とビニル袋を広げるところから。とくに家事はただでさえワンタッチでできるものが少ない。料理をする前に流しと食器カゴを片付ける方がストレスフルだ。名前のついた行為の前にやる、名前のないセッティング、さまざまな膨大な手間と手順、名前のない困難。

 身体が不自由になると、それらが細分化され、一つ一つがハードルとなって立ち現れる。それも同じ病名や症状名に共通の困難ではなく、同じ建物で一つ部屋を変わるだけで質の違う困難がそのつど現れるのだ。こうして日常生活の、当たり前の身辺ケアにおいて心理的ハードルがどんどん上がる。

 

 私たちは、身の回りに置く物やその配置、動線をよく吟味しなければならない。大量生産大量消費のシステムはもう経済成長にむすびつかず、環境上良くない。名前のつかない無駄な困難を増やさないために、住宅施策を市場任せにしないこと、人権を基盤とした住宅施策の実施、無尽蔵な物の販売を見直すことが必須だろう。