いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

家はたんなるハコモノじゃない

 人が住まなくなった家というのはこんなに早く荒れ果てるものなのか。自宅周囲も空き家が目立つようになった。未曾有の少子高齢化で、空き家問題は今後ますます全国各地で拍車がかかることが予測されている。一方、マンションや戸建ては供給過多の風潮もあるという。人口の絶対数が減り、新たに生まれる子どもも減っているのだからその傾向もあるだろう。

 

 しかし「家余り」の時代なら誰もが気軽に希望する住まいへ入居できるかというと、決してそうなってはいない。住まいの貧困はいまだ存在している。  たとえば入居審査と保証人の必要は、ハウジングプアにとっていまだ立ちはだかる壁である。

 

そもそも空き家が増えていると言っても、住まいが「純粋な空き家」となるまでにはけっこう時間がかかる。私の近所には一人暮らしの高齢者が何人かいる。うちお一人はお子さんが同じ市内に住んでいるようで、時々そのお宅へ泊まりに行くらしい。おそらく一人ではできない用事や何かの手続きが要る時、体調が優れない時だろう。お子さんも親が心配で来た時は手を貸し相談に乗り、顔を見て安心する。ただ、お子さんにも自分の生活があるからべったり同居は難しく、高齢者当人も望んでいないケースがある。それゆえ何事もなければふだんは木造戸建に一人住まい、時々身内宅、もっと歳を重ねて健康にガタがくれば入院とかショートステイとかが増えていき、自宅で過ごす日は徐々に減っていく。どんなに健康な人でも歳をとれば一人ではできないことが増えていき、家や庭の手入れが行き届かなくなることもしばしばだろう。

 

 また、いくら空きそうな戸建があってもそれが入居希望者の生活ニーズとどうみても折り合わないケースもある。近くの学校密集区域には古い戸建住宅がたくさん残っており、住んでいるのは大抵高齢者夫婦だ。ここは街中で通学にも買い物にもわりと便利で子育てに適しているものの、家はほとんどが子連れカップルが住むには手狭だという。老朽化も激しくて親である老夫婦には愛着のある家でも、その孫を育て学ばせるにはスペース不足で安全面でも問題がある。ならリフォームすれば住むかというと、子世代の若い家庭に蓄えがあるはずなく、劣化した狭い家をわざわざ建て替えてまで子連れで住もうとも思わないため、仕方なく別居というパターンもある。

 

 かつて、増え続ける首都圏在住の高齢者を地方移住させ現地の医療福祉機関にケアを任せるという政府案があった。公的支援による高齢者ケアや若者の貧困対策をしぶる目的で、三世代同居が推奨されたこともあった。

 

これらの主張に共通するのは、住まいを余剰人口の容れ物か収容所とみなし、生存権を保障するインフラという視点を欠いていることだ。住まいは各人の生活事情にもとづく動線やサービスの必要を考慮してはじめて生活を支える場として機能する。それが、ひとたび生活困難を抱えた途端、無視されてしまう。

 

 たとえば生活困窮者に対する無料低額宿泊所の劣悪なサービス問題が指摘されている。

 

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190301-00268225-toyo-bus_all

 

 

 災害の被災者に提供する避難所も、間仕切りなしプライバシーなし、酷暑極寒の体育館という環境が数十年間変わっていない。以前物議を醸した「東北でよかった」発言は、命からがら生き延びた被災地に住む人々を、あたかもある箱庭から別の箱庭へピンセットでつまんで移せる素材のように考えている。

 

 住まいの貧困の根底には、住居保障を人権意識とセットで考える意識の欠落がある。もし今後、本当に住居の空きが大量に生じるなら、そこへ住む入居者が十全に人間らしく暮らせるための環境として住宅政策やメンテナンスを施行するべきである。